第04話 ままならない@初めての深海

 磁束制御を失った『アクシオメ・オルピス』は、骨の折れた傘のように空を舞っていた。『テルテルボーズサン』の破片が、豪雨のように降り注ぎ、傘を叩きつける。


《キャピラリー》

「ぼくっちたちのダウンロードには400秒かかるっち、だから――」


《キャピラリー》の声がポッド内で反響する。


《シーチェ》のスキャナが青い光をガラスに投射した。


「もういいから、みんな一緒だよ!」


 まりかが叫んだ。

 胸を締め付けるような恐怖の中で、彼女はただ「皆さえいれば」と願っていた。


《キャピラリー》

「残り7秒っち。衝撃のためポッド内にゲルネット展開完了。あと1秒……幸運をっち!」


『アクシオメ・オルピス』が太平洋に落ちる瞬間、爆音とともに逆さ傘のフレームがひしゃげ、データパネルが火花を散らした。

 まりかの視界は白く塗り潰され、意識が遠のく。


 巨大な居住体は、形を保ったままゆっくりと深海へ沈んでいった。


 ***


《シーチェ》

「まりかたんの生体チェック中……データ不足……スキャナ故障……。スキャンフォーム変更中……残り――秒」


 光の届かない深海では時間が止まったようで、『アクシオメ・オルピス』の壊れた回路が、かすかに明滅していた。


 ――まりかは強い光と、誰かの声で目を覚ました。まだ、ぼんやりしている。


「ん? だれ?」


 壊れたハッチが開きっぱなしになっている。

 まりかはポットの中で、光の向こうに宇宙服を着ている人影が見えた。


「これ、着るといいよ。そこに落ちてたやつだけど……」


「きゃっ!」


 まりかは自分がバスタオル一枚しか身に着けていないことに気づき、顔を真っ赤にした。誰かに肌を見られるなんて、今まで一度もなかった。胸がざわつき、恥ずかしさが込み上げる。


「ちょ、ちょっと待って! こんな時に何!? シーチェ、私のスペーススーツはどこ?」


《シーチェ》

「今はまりかたん自身で取らないとダメだたん。ストレージ12番に入ってるたん」


「あ、僕が取ってあげるよ。どこにあるの?」


 まりかが指示を出すと、宇宙服の男はスーツを手に取り、彼女へ差し出した。

 それを素肌の上から慌てて着こみ、まりかはようやくホッと息をついた。


「あのう……『アクシオメ・オルピス』のサービスの方ですか?」


「いや、違うんだ」


 彼は静かに片手を上げ、窓の外を指差した。


 まりかが目を凝らすと、青白い光を放つ建物が、海中にぼんやりと浮かんでいた。


 クラゲのような丸いドームが、深海のプランクトンのように呼吸する。

 その光は穏やかに明滅していた。


「あなたの家……? 壊れたりしてない?」


「『テルテルボーズサン』の一部が崩れたと聞いたけど、まさかでっかい傘が沈んでくるとはね」


 男の声には、驚きよりも呆れたような響きがあった。


「あなたの名前は? 私はまりか」


「僕はハンペン。家族も心配してるし、よかったら来ないか?」


 ヘルメット越しで表情は読めなかったが、その声は落ち着いていた。長くこの場所で暮らしてきたような、そんな安定した響きだった。


「え、どうしよう……」


 人と会うことがほとんどなかったまりかには、いきなりの誘いが混乱を招いた。


「ねえシーチェ、他の子たちはどうなったの?」


《シーチェ》

「今、まりかたんの衛星に移動してたんだたん。もう平気だたん」


 まりかの頭上を野球玉ほどの衛星ドローンが旋回し、シーチェの声に反応して光を放つ。


《ウィンド》

「センサー稼働率62.4%でちゅ。でも深海からじゃ地上には波が届かないでちゅ~」


《キャピラリー》

「ぼくっちの計算では、『アクシオメ・オルピス』が崩壊する事はないっち。もちろん、この深度での話っちよ」


「じゃあ、アッシュとローズに頼むしかないわね……あっ、まさかまだロスト中なの?」


《キャピラリー》

「ぼくっちたちにもわからないっち。ロストっち」


《ウィンド》

「『アクシオメ・オルピス』から300メートル以内に、弱い通信波を検出したでちゅ」


「もしかして、ハンペンさんの家には電話ありますか?」


「ああ、ほとんど使っていないけどある事はあるよ。使えるかは、わからないけどね、とりあえず来て見てよ」


「ありがとう、助かっちゃうな」


 まりかはハンペンの後ろをついてゆっくりと歩き出した。


 家の出入り口にはゲル状の膜が張られていて、水圧を遮断している。まりかが近づくと、ゲルはぶるんと波打った。


「ちょっと……出にくい……水圧のせいね」


 まりかはスーツ越しに足を踏み出し、分厚いゲルの抵抗を押しのけて外へと抜けた。


 スーツの外は、不気味なほど静かな深海だった。遠くで光がちらつき、何かが岩陰に潜む気配がする。まりかは思わず立ち止まり、目を凝らした。


 沈黙。暗闇。ゆっくりと漂う泡。どこまでも深く沈んでいくような感覚――ここはまるで、世界から切り離された、別の時間が流れる場所だった。

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