第5話
矢上はコーヒーをカップの中ほどまで入れると、小鍋で温めていた牛乳を注ぐ。仕上げに、蜂蜜を入れてマドラーで混ぜる。
カフェオレを作るのにも随分と慣れた。最初は温度計を頼りにしていたが今では感覚だけで作れる。蜂蜜を入れたのは気まぐれであったが、数少ない常連にもこの
金曜日の夜であるが、客はいなかった。
オールドジャズの音色は今日も心地が良い。
「マスター、閑古鳥が過労死しちゃいますよ」
「何を仰いますか、心春さんの宣伝のお陰で客足も増えていますよ」
「誤差の範囲じゃないですかあ」
実際、『どさんこガイド』を見て来たという客はいた。一週間で2組ではあったが。
矢上はカップを心春に差し出す。背後でオーブンの電子音が聞こえる。
「そういえばマスター、例の組織の人たち、逮捕されてましたね。まさか県議員と繋がってるとは!」
先日、心春を間違えて誘拐した組織「ブラック・フラッグ」は、向井を始め、多くの構成員が逮捕された。
壊滅した、ということにはなっている。表向きは。神居市に巣食う黒い根は、そう簡単に消えない。
先程、矢上のスマートフォンにメッセージが入っていた。今夜も、副業の誘いが来ていた。神居北埠頭で麻薬の取引があるらしい。
矢上はオーブンを開ける。チーズの焼ける香りが、店内に広がっていく。
心春の目が輝く。
「カラデニズ・ピデシ!」
「材料があまり気味なんで、食べちゃってください」
矢上は舟の形をしたピザを、ターナーで皿に移す。心春がこの店のメニューで一番の好物だ。
舟の形をした生地の中で、玉子がふつふつとしていた。
フォークを入れると、ぱりぱりと小気味良い音がする。
心春は息を吹きかけると口に運ぶ。
「んんんんー!」
心春は声にならない声を上げた。
ひき肉とトマトの素材の味、そしてそれらを引き立てるコリアンダーやクミン、ヒングを最適な配合をしたスパイスが相まって、心春の口の中で旨味が爆発していた。
「ピデシはいつ食べても美味しいですね! 本当、こんなに美味しいメニューばかりなのに流行らないほうが不思議ですよ!」
カラデニズ・ピデシ満面の笑みで頬張る心春を見て、矢上は頬を緩めた。
皿の上はあっという間に空になる。
「ふう、本当に良いバイトですよ。まかないもコーヒーも美味しいですし。本当、あまり仕事をしていないのが申し訳ないです……あ、そうだ!」
心春はバックヤードに走っていく。しばらくして、包装紙のかかった小さな箱を持ってきた。
「これ、先日のお礼です。あのときは助けていただいてありがとうございました!」
心春が「開けてください」とジェスチャーをする。矢上は丁寧に包装を解いていく。
「これは」
矢上の眉がぴくりと動く。ネクタイが入っていた。猫をあしらったカーキのネクタイだ。
「このあいだ、切れちゃったじゃないですか? だから代わりにと思って……どうです?」
矢上は、着用しているネクタイを外し、心春のプレゼントを巻いた。
矢上は両手を広げる。
「いかがでしょうか?」
心春は笑みを浮かべる。
「似合ってます。とっても」
矢上は微笑すると、振り返り冷蔵庫を開けた。
「デザートはいかがですか?」
「もちろん食べます!」
心春の黄色い声が店内に響く。
すのうどろっぷの静かな夜は、ゆっくりと更けていった。
銀猫はしなやかに夜を舞い 北 流亡 @gauge71almi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます