第2話 プロローグ 戦火の渦 後編


 唯一幻影を殺す事のできる人間――として選ばれ、大和皇国が誇る治安特殊精鋭部隊の本拠地へと向かうその朝。


 「行ってくるよ」


 そう言って、玄関の戸を開けた、その瞬間。

 ──空が裂け、幻影が現れた。

 両親は目の前で斬り裂かれ、瑠衣自身は幻影に捕らえられた。


 その後の記憶は断片的だった。

 薬品の匂い。

 白い光の中で、何かを注射された痛み。

 焼けるような苦痛。


 気が付けば、自分はもう「レベリス」になっていた。

 幻影皇帝の命令に忠実な、感情なき戦闘兵器として。


「そんな……嘘……だろ……」


 レベリス──いや、瑠衣は膝をついて苦悶の声を漏らした。


 洗脳だった。

 全ては、幻影皇帝によって記憶を封じられ、人格を上書きされていたのだ。

 そして瑠衣は、自分の手で──


 争いなく平和に生きている善良な人々。

 涙を流し、家族を守ろうと剣を取った者たち。

 幻影に抗い、自由を叫んでいた仲間たち。


 その全てを、彼は無慈悲に斬り捨ててきたのだ。


 ──それが、自分の家族と同じように生きていた誰かだったかもしれない。


 思い出してしまった今、その現実が全身を貫いた。


「くそっ……くそがっ!!」


 声が震える。

 指先が凍えたように痺れる。


 こんなにも多くの命を、自分は何の疑いもなく奪ってきたのか?


 命乞いの声。

 怯えた目。

 子をかばって死んだ親の背中。


 それらが、鮮やかに脳裏に蘇る。


 ──自分は、人を救う力を持っていたはずなのに。


 ──それを使って、殺し続けていた。


「……うあ……あああああああああっ!!」


 吐き出すような悲鳴。

 怒りと後悔と絶望がないまぜになり、胸を裂いた。


 涙が止まらなかった。

 嗚咽がこぼれた。


 自分は、ただの加害者だ。


 幻影皇帝に操られていたとはいえ、その手で殺した命は戻らない。


 ──つぐなうことすら、できない。


 だが、それでも──


「……ちくしょう……!」


 地面を殴りつける。

 その手が自分の血で真っ赤に染まろうとも構わなかった。


「絶対に許さん……!!」


 そのとき──空間が軋み、歪んだ。


 黒い霧の中から、ひとつの幻影が現れる。

 黒の長髪をなびかせ、冷たい瞳で瑠衣を見下ろす男。


「……ついに思い出したか、レベリス」


 幻影皇帝。

 すべての元凶。

 その姿に、瑠衣は歯を食いしばった。


「幻影皇帝……貴様ァ……ッ!」


「ふふふ……哀れだな。人間の記憶など取り戻したところで、もはや意味はない」


 幻影皇帝はゆっくりと歩み寄りながら続ける。


「人類など、滅びる運命なのだ。お前がどんなに足掻あがこうと、それは変わらん」


「……黙れ」


「やはりは失敗作だな。人間に幻影の血を入れたところで、所詮はただのキメラ。純血種こそ、真に相応しい」


「黙れと言っているッ!! ――重力断罪ヘヴィジャッジメントッ!!」


 怒号とともに、大気が揺れた。

 空間がうねり、重力が収束する。地面が悲鳴を上げ、幻影皇帝の身体が一気に押し潰されるように地へと引きずり落とされた。


 ズドンッ!


 大地が砕け、皇帝の体が巨大なクレーターの中心に叩きつけられる。

 砂塵が舞い、亀裂が地表を走る。


「……やった、か……?」


 瑠衣が息を荒げながら睨みつけたその先――

 土煙の中、影がゆっくりと立ち上がる。


「ふふふ……ふはははは……」


 砕けた地面の中心で、幻影皇帝は顔の汚れすら払おうともせず、優雅に立ち上がっていた。

 その瞳には、痛みも、怒りも、恐怖もない。あるのは――余裕、それだけ。


「――抗重力断罪アンチヘヴィジャッジメント


 静かにその名が告げられた瞬間、空間を支配していた重圧が消え去る。

 重力場が霧のように霧散し、まるで最初から何もなかったかのように、皇帝は堂々と歩き出した。


「なっ……!」


 瑠衣が目を見開く。その顔に浮かぶのは、驚愕と――絶望。


「レベリス。一体誰がその力を与えたと思っている?」


 皇帝の足取りは、まるで舞踏のように優雅だった。

 だが、その言葉は鋭く、冷たく、瑠衣の心を突き刺す。


「お前に与えた力など、所詮この手の中の一部にすぎん。

 我が意志一つで、それは無力に等しいのだ」


 次の瞬間、皇帝の瞳が妖しく輝いた。


「その力の本当の使い方――教えてやろう。

 ――重力断罪ヘヴィジャッジメントッ!!」


 咆哮とともに、天地が反転した。


「――ガッ!!」


 今度は、瑠衣の身体が沈む番だった。


 足が地面に縫い付けられたように動かない。

 腕が痺れ、視界が揺れる。脳が圧縮されるような激痛が全身を駆け巡る。


 重力の奔流が、彼を押し潰す。

 地面が割れ、骨が軋み、肺から一気に空気が奪われる。


 レベリスの膝が折れ、黒き土の上に沈み込んだ。


「ぐっ……く……そ……っ」


 歯を食いしばっても、身体は持ち上がらない。

 彼自身の必殺技――その“本来の使い手”により叩きつけられるという皮肉。


 それはただの攻撃ではなかった。

 幻影皇帝が突きつけたのは、絶対的な“力の差”そのものだった。

 

「今までご苦労だったな。だがもう用済みだ、レベリス。いや──義影瑠衣、と言ったか」

 

 その手から放たれた無数の黒い刃が、空間を裂きながら飛んで来る。

 回避など、できるはずがなかった。

 刃は、容易に瑠衣の胸を貫いた。


「──が、はっ……!」


 赤い血が噴き出し、床に滴る。

 膝をつき、意識が薄れていく中。

 彼は、それでも睨み続けた。

 この男を、決して許さない──。


「……必ず……地獄へ……送ってやる……」


 そう呟いた刹那。


 八尺瓊勾玉が、再び強く光り輝いた。

 まるで彼の決意に応えるかのように。

 光は、彼の全身を包み込んだ。


「む……? なんだこの光は――」


 幻影皇帝が異変に気付くがもう遅い。

 時間が、空間が、捻じ曲がる感覚。


 そして──瑠衣の意識は、奈落の底へと沈んでいった。
























 意識が浮上する。

 深く、黒く、沈んだ闇の底から──何かに引き上げられるようにして。


 次の瞬間、彼は目を覚ました。


 目の前には、見覚えのある天井。

 薄くひび割れた木目の模様、色せた節の跡。

 それは、かつての日常の一部だったものだ。


 布団の感触。

 窓の外には、まだ朝の光が差し込み、小鳥のさえずりが聞こえてくる。


「──ここは……?」


 ゆっくりと体を起こす。

 首筋を撫でた風が、ほんのりと畳の匂いを運んでくる。

 部屋は、変わらぬ──いや、変わるはずのない、懐かしい我が家だった。


 廊下の向こうから、台所で料理をする音が聞こえる。

 刃がまな板を叩く軽快な音。

 味噌汁の匂い。

 すべてが、遠い昔に置き去りにしてきたはずの光景だった。


「……夢、なのか……?」


 呟いた声は、現実のものとは思えなかった。


 だが──


「お兄ちゃーん、早く起きてー!」


 その声が、全てを覆す。

 心臓が跳ね上がった。


 もう二度と聞けるはずのない声。

 けれど、絶対に聞き間違えるはずのない声だった。


 妹──瑠那るなの声。


「……うそ、だろ……」


 震える手で頬を撫でる。

 気付けば涙が一筋、頬を伝って流れ落ちた。


 懐かしすぎる温もりに、身体が震える。

 しかし、ただの懐古ではない。


 彼は確かに──死にかけていたのだ。

 幻影皇帝の刃に全身を貫かれ、意識を手放したあの瞬間の痛みと冷たさを、今でも覚えている。

 あれが夢のはずがない。


 そして今、目を覚ましたこの世界が、あまりにも鮮明すぎる。

 この感触、匂い、温度──全てが、記憶の中と寸分違わぬ“過去”だ。


 ──いや、そんなはずはない。


 でも、もしこれが現実なら。


 もし──自分が、過去に戻ってきたのだとしたら……。


 ──そのとき、ふすまがガラリと開く音がした。


「……お兄ちゃん?」


 そこにいたのは、エプロン姿の少女。

 瑠那だった。

 何の疑いもなく、無垢な瞳で兄を覗き込む。


 その姿が──

 あの、最期の戦場で見たどんな幻よりも、現実味を帯びていた。

 だが、その視線が、濡れた頬に触れた瞬間──


「……お兄ちゃん、泣いてるの?」


 心配そうな声。


 瑠衣は、どうしても笑えなかった。

 ただ静かに首を振り、涙をぬぐう。


「……なんでもない。ちょっと、変な夢を見ただけだ」


「ほんとに……?」


「ああ、大丈夫だ」


 そう答えながら、瑠衣は心に誓った。


 この手でもう二度と──人を殺したりはしない。

 今度こそ、守り抜く。

 そして幻影皇帝……お前だけは、絶対に許さない。

 彼は、かつてとは違う覚悟をその胸に刻みつけた。

 もう迷わない。

 幻影のためにではない。

 今度こそ──人類のために、戦うのだ。

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