第一話 えたもの
2025年5月上旬、その金曜日。
時間は19時を周り日もすっかり傾いた時間帯だ。
しかし人口200万人を超える都市、
カウンター16席、4人がけのテーブル席が8もあるにも関わらず店内は埋まり、海がよく見えるようになっているテラス席等はカップルの巣窟のようだ。
神居市と言えば、スープカレーが美味しいとテレビでもよく紹介されている訳だが、その代名詞として市民が訪れるのがここサマーアウトである。
そんな一方で、同じ北区にありながらも海が見えず、ひっそりと路地に佇む喫茶店があった。木でできた看板には似合わぬ「すのうどろっぷ」と可愛いフォントで店名が書かれたこじんまりとした店だ。
20席ある店内はガラリとして閑古鳥がないている中、店長である男とまだ若い女の子による会話が行われている。
「ねぇ矢上さん、お客さん今日も来ませんね」
カウンター席に座り頬杖をつきながらそう呟いたのは
153cmこじんまりとした身長、薄めのピンクブラウンをした髪は本来のミディアムボブから髪留めでサイドにまとめ上げられている。看板娘として多いに貢献できる見た目であり、実際に多くの客が彼女を理由に訪れはしたのだ。
しかし、常連になろうにも出来ない理由が北山の対面に立つ男にあった。
「そうですね。どうしてお客様が来ないのかは私としても不思議です」
返ってきたのは一見すれば落ち着きのある、店の雰囲気にもあっている声。しかし店長である男、矢上亘の外見は179cmの身長に88kgもある体格の良さ。
耳にかけられた銀縁の細いフレームをした眼鏡の下には鋭い眼光が……と、中々に威圧感のある外見をしている。そんな男にひと睨みされればナンパ男も蛇睨みされたように店を去るものだ。
「本当ですよね。味はいいのに……勿体ないなぁ。せっかくお店のレシピ教えて貰っても料理する機会ないし。私この店が無くなったら嫌ですよ?」
「お店の心配なら大丈夫ですよ。以外と余裕はありますから。あぁ、そういえば新しいメニューを考えたんでした。今日は少し早く店を閉めて、まかないに食べますか?」
「え、新作ですか!是非頂きたいです。それじゃあ片付けとかしちゃいますね」
北山は顔を上げるとそそくさと店を閉める準備を始めた。
一方矢上の方では調理が始まっている。
キッチンに立つ彼の手元では、オリーブオイルが熱された鉄板の上できらめき、シューッと軽快な音を立てる。
そこへ一口大にカットされた鶏もも肉が投入されると、ジュワッと弾けるような音とともに、香ばしい焼き目の香りがふわりと漂い始めた。
矢上はそれと同行しながら手際よく包丁を動かし、玉ねぎ、ピーマンを細かく刻んでいく。
鶏肉の表面にこんがりとした焼き色がつき、ジューシーな肉汁がわずかに滲み出るのを見計らって、矢上は刻んだばかりの玉ねぎとピーマンを鉄板に投入。
油と野菜が触れ合うと、シャキシャキとした炒め音が響き、玉ねぎが透明感を帯びて甘みを増していく。
そこへトマト缶を半分、ドロリと注ぎ入れると、鮮やかな赤が鉄板を彩り、トマトの酸味と甘みが混ざり合った濃厚な香りが一気に広がった。
矢上は木べらで丁寧に混ぜ合わせながら、塩と胡椒を軽く振って味を整える。
仕上げに、クミンのエキゾチックなスパイス香とドライペパーミントの爽やかな清涼感を加えると、鉄板の上でグツグツと煮立つ音が心地よく響き、香辛料の複雑なハーモニーが店内に漂い始めた。
「うわぁ〜、なんですかこの匂い!美味しそう!」
いつの間にかカウンターの向こうに立っていた北山が、目をキラキラさせながら鼻をすんと鳴らして覗き込みながら言う。
「これはサチ・ケバブ、トルコの家庭料理です。トマトとスパイスで煮込んださっぱりした一品で、いろんな人に食べやすいと思います」
矢上は説明しながら、鉄板を軽く傾けてルーを確認する。上手い具合に野菜と鶏肉に絡み合い、艶やかな仕上がりになっている。
「へぇ、トルコ料理! ケバブって前まではドネルケバブのイメージしかなかったですけど、こういうのもあるんですね。美味しそう……。でも、あの大きいお肉のケバブもいつか食べてみたいなぁ」
北山は目を輝かせながら、期待に胸を膨らませる。
「ははは、それやっちゃうとケバブ屋になっちゃいますね」
矢上は苦笑いしながら、炊き立ての白米を皿の中央にふんわりと盛り付け、その周りにサチ・ケバブのルーをたっぷりとかける。ルーはご飯にじんわり染み込み、トマトの赤とスパイスからなる色合いが食欲をそそる一皿に仕上がった。横に添えられたパセリの鮮やかな緑が、彩りに華を添えている。
「よし、完成。北山さん、飲み物はカフェオレでいいですか?」
「はい! 楽しみー!」
北山はカウンター席に腰を下ろすと、早速スプーンを手に取り、ご飯とルーを丁寧に絡める。鶏肉と野菜がたっぷり入ったルーをすくい、ふぅー、ふぅーと軽く冷ましてから口に運んだ。
一瞬、彼女の目が大きく見開かれる。
「んっ、美味しい! トマトの酸味が効いてて、鶏肉がすっごく柔らかい! スパイスの風味がふわっと広がって、なんか……オシャレなレストランで出てきそうな味! ピーマンのほろ苦さも全然気にならないし、食べやすいです!」
北山の頬がほんのり上気し、スプーンを持つ手が止まらない。鶏肉はしっとりとジューシーで、噛むほどにトマトの甘酸っぱさとクミンの奥深い香りが口いっぱいに広がる。ご飯に染みたルーは、ほのかなペパーミントの清涼感が後味をさっぱりと締めくくり、次の一口を誘う。
「美味しいなら良かった。ほら、北山さん、野菜もちゃんと食べてくださいね」
「もー、子供じゃないんだからちゃんと食べますよ!」
矢上の心配をよそに、北山は夢中でスプーンを動かし、試食のサチ・ケバブをあっという間に平らげた。皿にはルーの赤い跡すら残らず、彼女の満足そうな笑顔が全てを物語っていた。
「野菜の苦味もスパイスと合ってて、ほんと食べやすかったです!……これ絶対人気出ますよ!もっと宣伝したらどうですか?」
「宣伝。それもいいのだけど、私個人としてはふと気まぐれで来てくれたお客さんがゆっくりと居られる場所でありたいのです」
「もー、矢上さんって無欲ですよねぇ。恋愛でも好きな人に告白出来ずに終わっちゃうタイプと私は見ますね。何事も自分から行かなきゃ手に入りませんからね。矢上さんって今何歳でしたっけ?」
「今年でもう42ですね」
「42……見えないです。20後半、いや、30前半くらいに見えますよ。眼鏡外すか髪上げたりしたらモテそうなのになぁ」
そう言いながら北山は自分の髪を上げるようにして見せたり、ジェスチャーで眼鏡を外すようにしたりする。
そんなからかいを含めた話を交えていると、北山が思い出したように大学で所属している料理研究会「Stellar Kitchen」が近々テレビの取材を受けるんだと話し始めた。
「あぁ、そんなサークル入ってたんですね。初めて聞きましたよ」
「あれ、言ってませんでしたっけ」
「はい、初めて聞きました。高校の頃に好きな人を追ってサッカー部のマネージャーをやっていたのは知ってましたけど」
矢上の言葉に北山は思い出したくない事をつかれて顔を下げる。
「うぅ……矢上さん。さっきからかったの怒ってます?」
「いや。それよりも時間も遅いですからね、お家に帰った方がいいんじゃないですか?」
言われるまま、北山は帰る準備を済ませると扉を開けて外へ出ると矢上も店の前に立つ。
「お疲れ様でした〜。あ、そうだ取材の時お店のこと紹介しちゃおっかな」
「はい、お疲れ様。あ北山さん髪ゴム付けたままですよ」
「あー、忘れてた」
そうして北山が2つのゴムを手にした時である。―――急にとてつもなく凄く強い大きな突風が吹きゴムを後ろへ飛ばしてしまった。
彼女がそれに言葉を漏らすことしか出来ないなか、矢上が即座に走ると右足から勢いよく地面を蹴り大きく飛び上がった。伸ばした左手は2つのゴムを同時に掴み取る。
「どうぞ、北山さん」
そう言われヘアゴムを差し出されるも一瞬のことについボーっとしてしまい遅れて言葉が出てくる。
「え、あ……矢上さんすみません!」
ここで本来なら矢上は「今度は離さないでね」と注意したいところであったがとてつもなく凄く強い大きな突風を前では油断も関係無いから特に注意を出来ないでいる。
むしろ、こんな都合の悪い風で普通とは抜きん出た能力を見せてしまった自分に焦りを感じる程だ。
「あの、ありがとうございました。また明日!」
そう言う北山の顔がいつもよりほんのり赤くなっている事を、この時矢上は気づくことが出来なかった。
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