第八章 記憶という救済
ある日、七海は大学の講義で、学生たちにこう問いかけた。
「皆さんにとって、天国とは何ですか?」
学生たちは、様々な答えを出した。
「死んだ後に行く場所」
「苦しみがない世界」
「愛する人と再会できる場所」
「魂が安らぐところ」
七海は頷きながら聞いた。
「では、もう一つ質問します。天国は、物理的に存在する場所だと思いますか? それとも、精神的な状態だと思いますか?」
教室がざわめいた。
一人の学生が手を挙げた。
「先生、どちらが正しいんですか?」
「それは、あなたが決めることです」
七海は答えた。
「宗教学は、何が真実かを教える学問ではありません。人々が何を信じてきたか、なぜそう信じたかを研究する学問です」
別の学生が質問した。
「でも、先生個人としては、天国は存在すると思いますか?」
七海は少し躊躇した。
「私の個人的な意見を言えば……天国は、信じる人にとって存在すると思います」
「それって、曖昧じゃないですか?」
「曖昧かもしれません。でも、それが人間の信仰の本質だと思います」
七海は黒板に書いた。
「信仰とは、証明できないものを信じることです。もし証明できるなら、それは信仰ではなく、知識になります」
講義が終わった後、一人の女子学生が七海のところに来た。
「先生、私の祖父が最近亡くなって……」
「そう。辛いわね」
「祖父は、いつも私に優しくしてくれました。今、祖父はどこにいるんでしょうか」
七海は、学生の目を見た。
「あなたの心の中にいると思います」
「でも、それって比喩ですよね? 本当の天国に行ったんじゃないんですか?」
「本当の天国……それは、誰にもわかりません」
七海は正直に答えた。
「でも、一つ確かなことがあります。あなたがおじいさんのことを思い出すたびに、おじいさんは存在しています」
「思い出の中に……」
「そう。記憶という形で」
七海は続けた。
「おじいさんから受けた愛、おじいさんから学んだこと、おじいさんとの思い出。それらは、あなたの人生に影響を与え続けます」
学生は涙ぐんだ。
「でも、それじゃあ、おじいさん自身は消えてしまったということですよね」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
七海は優しく言った。
「でも、もし天国というものがあるとしたら、それは愛する人の記憶の中にあるのかもしれません」
その夜、七海は自室で日記を書いていた。
「父が亡くなってから二ヶ月。私は様々な人に会い、様々な意見を聞いた。
冬香は、仏教の視点から、すべての人に仏性があると教えてくれた。
マリアは、神の愛は人間の理解を超えていると言った。
理沙は、科学的には死は終わりだが、記憶は残ると教えてくれた。
佐和子は、人間は語られることで生き続けると言った。
母は、愛が大切だと言った。
そして、今日、私は学生にこう言った。記憶の中に、天国があると。
それは、本当だろうか? 私はこの自分の言葉を信じているのだろうか?」
七海はペンを置き、窓の外を見た。
月が、静かに輝いている。
「お父さん、あなたは今、どこにいるの?」
七海は問いかけた。
答えは、もちろん返ってこない。
でも、七海は感じた。
今、父の存在を。
それは、記憶の中なのか、心の中なのか、それとも本当にどこかにいるのか。
わからない。
でも、わからないことが、もう怖くなくなっていた。
翌日、七海は父の書斎を整理することにした。母の妙子も一緒に。
「お父さん、本当にたくさん本を持っていたわね」
妙子は笑いながら言った。
「うん。この部屋、ほとんど図書館みたい」
二人は、一冊ずつ本を手に取り、思い出を語り合った。
「この本、お父さんが大学生の時に買ったんですって」
「へえ、そうなの」
「ほら、表紙にお父さんの名前が書いてある」
七海は本を開いた。余白に、父の書き込みがあった。
「『真理とは、一つではない。多様な視点から見ることで、より深く理解できる』……お父さんらしい言葉ね」
妙子も別の本を開いた。
「これ、私とお父さんが付き合っていた頃、お父さんがプレゼントしてくれた本だわ」
「どんな本?」
「宮沢賢治の詩集。お父さん、『銀河鉄道の夜』が好きだったのよ」
妙子は懐かしそうに笑った。
「ほんとうのさいわいについて、よく話していたわ」
七海は興味を持った。
「ほんとうのさいわい?」
「『銀河鉄道の夜』の中で、ジョバンニとカムパネルラがほんとうのさいわいとは何かを問うでしょ。お父さんは、それについてよく考えていたの」
「お父さんなりの答えはあったの?」
「『みんなのさいわいを願うことが、ほんとうのさいわい』だって言っていたわ」
七海は深く頷いた。
二人は夕方まで、父の書斎を整理した。
作業が終わった後、妙子は言った。
「この部屋、お父さんの魂が詰まっているわね」
「うん」
「七海、お父さんの本、いくつか持って帰らない?」
「いいの?」
「もちろん。お父さんも喜ぶと思うわ」
七海は、いくつかの本を選んだ。宗教学の本、哲学の本、そして宮沢賢治の詩集。
帰る前に、七海はもう一度父の机に座った。
「お父さん、いつもここで本を読んでいたのね」
窓から見える景色は、父が見ていた景色と同じだった。
七海は目を閉じた。
すると、不思議なことが起きた。
父の声が聞こえた気がしたのだ。
「七海、答えは見つかったかい?」
七海は思わず目を開けて振り向いた。
もちろんそこには誰もいない。
幻聴かもしれない。
記憶の中の父の声かもしれない。
それとも……。
七海は虚空に向かって、しっかりと答えた。
「まだ完全には。でも、少しずつわかってきたよ、お父さん」
「そうか。焦らなくていいよ。人生の大きな問いには、簡単な答えはないからね」
「お父さんは、今どこにいるの?」
「それは、七海が決めることだよ」
「私が……決める?」
「そう。私は、七海が信じる場所にいる」
七海は涙が出そうになった。
「私、お父さんに会いたい」
「私はここにいるよ。七海の心の中に。七海が私を思い出すたびに、私は生きている。だからいつでも会ってるんだ」
そこまでで不意に父の気配は消えた。
しかし、七海は確信した。
父は、確かにそこにいたのだと。
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