第六章 母と娘の涙
佐和子の家を訪ねてから数日後、七海は実家に帰った。母の妙子が体調を崩したという知らせを受けたからだ。
実家のドアを開けると、妙子が台所で夕食の準備をしていた。
「お母さん、大丈夫? 具合が悪いって聞いたけど」
「ああ、七海。心配させてごめんなさい。もう良くなったわ」
妙子は笑顔を見せたが、その顔には疲労の色が見えた。
「無理しないで。私が夕食作るから」
「ありがとう」
七海はエプロンをつけ、料理を始めた。
母娘で並んで台所に立つのは、久しぶりだった。
「七海、最近色々な人に会っているそうね」
「うん……お父さんのことで、色々考えているの」
「そう」
妙子は優しく微笑んだ。
「良いことだと思うわ。七海らしい」
夕食後、二人は居間でお茶を飲んでいた。
「お母さん」
「なあに?」
「お母さんは、お父さんが今どこにいると思う?」
妙子は少し考えた。
「どこかにいると信じたいわ。でも……」
「でも?」
「正直に言うと、わからないの」
妙子は遠くを見つめた。
「私は、お父さんほど賢くない。宗教についても、哲学についても、深く考えたことがない」
「そんなことないよ」
「でもね、一つだけ確かなことがあるの」
妙子は七海を見た。
「お父さんは、私の心の中にいる。毎日、お父さんのことを思い出すわ。お父さんならどう言うかな、どう行動するかな、って」
「私も同じ……」
「それって、ある意味では、お父さんがまだ生きているということじゃないかしら」
妙子は静かに続けた。
「物理的には亡くなったけど、私たちの中では生き続けている」
七海は頷いた。
「お母さん、私、色々な人に話を聞いて回ったの。僧侶、シスター、科学者、民俗学者……」
「そう。それで、何かわかった?」
「みんな、それぞれの答えを持っていた。でも、共通していることがあったの」
「何?」
「死者は、生きている人の心の中にいる、ということ」
妙子は深く頷いた。
「そうね。私も同じように感じているわ」
しばらく沈黙が続いた。外から、虫の鳴き声が聞こえてくる。
「お母さん、お父さんと出会った時のこと、聞かせてくれない?」
「え? 急にどうして?」
「お父さんのことを、もっと知りたいの」
妙子は優しく微笑んだ。
「わかったわ」
妙子は目を閉じ、記憶を辿り始めた。
「私がお父さんと出会ったのは、二十三歳の時。共通の友人の紹介でね」
「どんな第一印象だった?」
「穏やかで、優しそうな人だと思ったわ。話していると、とても博識で、でも全然偉ぶらない人だった」
妙子の顔が、懐かしそうに緩んだ。
「それに初めてのデートは、図書館だったのよ」
「図書館?」
娘の素っ頓狂な反応に、妙子は微笑みを浮かべた。
「お父さんが『妙子さんにぜひ見せたい本がある』って。それで、二人で図書館に行って、色々な本を見た」
妙子は笑った。
「普通のデートじゃないでしょう? でも、私はそれが嬉しかったわ。お父さんは、私に色々なことを教えてくれた」
「お父さん、先生みたいだったんだね」
「そうね。でも、上から目線じゃなくて、一緒に楽しむような感じだった」
妙子はお茶を一口飲んだ。
「結婚を決めた時、両親は心配したわ。お父さんが宗教を信じていないことを知っていたから」
「そうだったの?」
「ええ。私の実家は、代々仏教徒だったから。でも、お父さんと話した後、両親も納得してくれたわ」
「お父さん、何て言ったの?」
「『私は神仏を信じていませんが、妙子さんのご先祖様は大切にします。形式は守ります。ただ、心の中で信じることはできません』って、正直に言ってくれたの」
妙子は遠い目をした。
「その正直さが、かえって良かったみたい。両親は『誠実な人だ』って言ってくれた」
七海は父の生き方を、改めて尊敬した。
「結婚してから、どうだった?」
「幸せだったわ」
妙子は即座に答えた。
「もちろん、大変なこともあったけど。でも、お父さんはいつも私を尊重してくれた」
「具体的には?」
「例えば、私が仏壇にお参りする時、お父さんは一緒に手を合わせてくれたわ。信じてはいなくても、私の信仰を尊重してくれた」
妙子の目が潤んだ。
「七海が生まれた時、お父さんは泣いて喜んだわ。『こんなに小さな命が、こんなに大きな幸せをくれるなんて』って」
「そうだったんだ……」
「お父さんはね、神様は信じていなかったけど、愛や優しさや家族の絆は信じていたの」
妙子は七海の手を取った。
「それが、お父さんの信仰だったんじゃないかしら」
七海は深く頷いた。
「お母さん、お父さんが亡くなってから、辛くない?」
「辛いわよ、もちろん」
妙子は正直に答えた。
「毎朝、お父さんがいないことに気づいて、悲しくなる。夜、一人でベッドに入る時、寂しくなる。でも……」
妙子は言葉を切って少し考え込むようなしぐさを見せた。
「でも、不思議なことに、お父さんはまだそばにいるような気がするの」
妙子は仏壇を見た。
「朝、仏壇にお茶を供える時、お父さんに話しかけるの。『おはよう』って。そうすると、お父さんが『おはよう』って返してくれるような気がする」
「それは……」
「錯覚かもしれないわね。でも、私にとっては大切なことなの」
妙子は七海を抱きしめた。
「七海、あなたはお父さんに似ているわ。真面目で、知的で、正直で」
「お母さん……」
「だから、お父さんは七海の中にも生きているのよ。あなたが生きている限り、お父さんの一部は生き続ける」
七海は母の温もりを感じた。
「お母さん、ずっと聞けなかったことがあるの」
「何?」
「お父さんが亡くなる前、最期に何を言ったか。私、お母さんと一緒に聞いたはずなのに、どうしても思い出せないの……」
妙子は少し躊躇った。
「言ってもいい?」
「もちろん」
妙子は深呼吸をした。
「お父さんは、最期の日、私と七海を呼んだでしょう? もう話すのも辛そうだったけど、こう言ったのよ」
妙子の声が震えた。
「『妙子、ありがとう。七海、ありがとう。二人と過ごせて、幸せだった。もし天国というものがあるなら、そこで二人を待っているよ。でも、もしなかったとしても、この人生だけで十分幸せだった』って」
七海の目から、涙が溢れた。
「そして、最後に『愛してる』って言ったの。二人に」
妙子も泣いていた。
「お父さんは、天国を信じていなかったかもしれない。でも、愛は信じていた。その愛が、お父さんを『良い人』にしていたのよ」
二人は抱き合って泣いた。父を失った悲しみを、初めて母娘で分かち合った。
しばらくして、七海は顔を上げた。
「お母さん、お父さんは天国にいると思う?」
「わからないわ」
妙子は正直に答えた。
「でも、信じたい。そして、もし天国がなくても、お父さんは幸せな人生を送ったと思う。それで十分じゃないかしら」
「それで十分……」
七海は母の言葉を噛みしめた。
「七海、あなたは答えを探しているのよね」
「うん」
「でも、答えは一つじゃないかもしれないわ」
妙子は優しく言った。
「天国があってもいいし、なくてもいい。大切なのは、お父さんを愛した私たちの心よ」
その夜、七海は実家に泊まった。自分の部屋――中学生の頃から使っている部屋に入ると、懐かしい匂いがした。
本棚には、父が買ってくれた本が並んでいる。机の引き出しには、父からの手紙が残っている。
七海は一通の手紙を取り出した。大学院に進学することを迷っていた時、父が書いてくれたものだ。
「七海へ
進路のことで悩んでいるようだね。お父さんは、七海の選択を尊重するよ。
ただ一つだけ言いたいのは、自分の心に正直になってほしいということ。世間の評価や、経済的な安定も大切だけど、それよりも大切なのは、自分が本当にやりたいことをすることだ。
七海は、知ることが好きな子だった。小さい頃から、『なぜ?』『どうして?』といつも聞いていた。その好奇心を大切にしてほしい。
研究者の道は、決して楽ではないだろう。でも、七海がそれを選ぶなら、お父さんは応援する。
人生は一度きりだ。だから、後悔しない選択をしてほしい。
愛を込めて
父より」
七海は手紙を胸に抱いた。
父の温もりが、紙を通して伝わってくるような気がした。
「お父さん、ありがとう」
七海は小さく呟いた。
「私、まだ答えは見つけられていないけど、でも一つわかったことがある」
窓の外を見ると、満月が輝いていた。
「お父さんは、私の中にいる。お父さんから受けた愛、お父さんから学んだこと、お父さんとの思い出。それが、私を作っている」
七海は月を見つめた。
「だから、お父さんは死んでいない。形を変えて、私の中で生き続けている」
その瞬間、七海は感じた。父の存在を。
それは幻覚でも錯覚でもなく、確かな実感だった。
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