第五章 語られることで生きる
その週末、七海は恩師の元を訪ねた。柴田佐和子教授――七海が大学院時代に師事した、民俗学の第一人者だ。
佐和子は今年で六十五歳になる。定年退職した後も、自宅で研究を続けている。都心から少し離れた静かな住宅街に、彼女の家はあった。
門を開けると、手入れの行き届いた日本庭園が広がっている。池があり、石灯籠があり、季節の花が咲いている。
「七海さん、いらっしゃい」
玄関で佐和子が迎えてくれた。ゆったりとした着物を着て、白髪を綺麗にまとめている。
「佐和子先生、お久しぶりです」
「本当に久しぶりね。健一さんのこと、心からお悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます」
佐和子は七海を書斎に案内した。壁一面の本棚には、民俗学、人類学、宗教学の本がぎっしりと並んでいる。
「お茶を淹れますね。今日は八十八夜の新茶がありますの」
「いただきます」
佐和子は慣れた手つきでお茶を準備した。その所作は、まるで茶道のように優雅だった。
「それで、今日はどうしたの? 電話で、天国のことを聞きたいと言っていたけれど」
「はい……」
七海は、これまでの経緯を話した。父の死、冬香やマリアや理沙との対話、そして自分が抱えている疑問。
「なるほどね」
佐和子は静かに聞いていた。
「あなたは、色々な視点から天国を見つめようとしている。それは研究者として正しいアプローチだわ」
「でも、まだ答えが見つからないんです」
「答えを見つけることが、本当に大切なのかしら?」
佐和子は穏やかに問いかけた。
「え?」
「答えを探す過程で、あなたは何かを得たんじゃなくって?」
七海は考えた。
「色々な人の考え方を知りました。信仰を持つ人の心、科学的に考える人の論理……」
「それは、答えより大切なものかもしれないわね」
佐和子は微笑んだ。
「さて、私に民俗学の視点から話をしてほしいということだけど、どこから始めましょうか」
「まず、人類がいつから死後の世界を信じるようになったのか、教えていただけますか?」
「それはね、とても古いのよ」
佐和子は本棚から一冊の本を取り出した。
「ネアンデルタール人の埋葬跡からは、死者に花を手向けた痕跡が見つかっている。約七万年前のことよ」
「そんなに古いんですか」
「人類の祖先は、死者をただ放置するのではなく、特別な扱いをした。それは、死者に対する何らかの感情があったことを示している」
佐和子はお茶を一口飲んだ。
「考古学的証拠から、旧石器時代の人類が副葬品を墓に入れていたことがわかっている。食料、道具、装飾品……これらは、死後の世界で使うためだと考えられているわ」
「つまり、組織化された宗教が生まれる前から、人類は死後の世界を信じていた……」
「そうよ。そして、興味深いことに、世界中の文化で似たような死後の世界の概念が発展したの」
佐和子は別の本を開いた。
「エジプトのドゥアト、ギリシャのハデス、北欧のヘル、日本の黄泉の国……文化は違っても、『死者が行く場所』という概念は共通している」
「それはなぜでしょうか?」
「いくつかの理由が考えられるわ」
佐和子は指を折りながら説明した。
「第一に、愛する者の死を受け入れがたいという感情。第二に、死の恐怖を和らげる必要性。第三に、不公平な現世への不満――善人が苦しみ、悪人が栄えるこの世界に対する反発」
「死後の世界は、一種の願望の投影……」
「そう言えるかもしれないわね。でも、それを『ただの幻想』と切り捨てるのは早計よ」
佐和子は真剣な顔で言った。
「人類がこれほど長く、これほど普遍的に死後の世界を信じてきたということは、それが人間の精神にとって必要不可欠な概念だということなの」
「不可欠……」
「七海さん、人間は意味を求める生き物なの。ただ生まれて、生きて、死ぬ――それだけでは満足できない。自分の存在に意味を見出したい」
佐和子は窓の外を見た。
「死後の世界の概念は、人生に意味を与える。今の苦しみは永遠じゃない、善い行いは報われる、愛する人とまた会える――こういう希望が、人を生かしてきたのよ」
七海は深く頷いた。
「佐和子先生、一つお聞きしたいことがあります」
「なあに?」
「日本の死生観について、詳しく教えていただけますか?」
「良い質問ね」
佐和子は嬉しそうに微笑んだ。
「日本の死生観は、とても独特なの。仏教が伝来する前から、独自の死者観があったわ」
「古神道の考え方ですね」
「そう。古来の日本人は、死者は『黄泉の国』に行くと考えていた。でも、同時に、死者は山や海に行き、やがて子孫を見守る祖霊になると信じられていたの」
佐和子は立ち上がり、庭を指さした。
「日本人にとって、死者は完全に別世界に行ってしまうのではなく、この世と繋がっていた。お盆には死者が帰ってくる。お彼岸には先祖を偲ぶ。お墓参りでは、死者と対話する」
「死者は、遠くにいながら、同時に近くにもいる……」
「そう。これは、世界の多くの文化にも見られる考え方よ」
佐和子は座り直した。
「メキシコの死者の日、中国の清明節、韓国の秋夕――世界中に、死者が戻ってくる日があるわ」
「人類は、死者と完全に別れることを望まなかった」
「そうなのよ。だから、多くの文化で、死後の世界は二重構造になっているの」
「二重構造?」
「一つは、死者が行く場所としての他界。もう一つは、死者が留まる場所としての墓や家」
佐和子は説明を続けた。
「日本では、死者は仏になって極楽浄土に行くと同時に、位牌に宿って家にいる。矛盾しているようだけど、両方とも受け入れられているの」
「それは……論理的ではないですね」
「論理じゃないのよ、感情なの」
佐和子は優しく言った。
「人は、愛する者が遠くの天国にいてほしいと同時に、すぐそばにいてほしいと願う。だから、両方の信仰が共存するの」
「両方……」
七海は目から鱗が落ちる思いだった。
「七海さん、あなたのお父さんのことを考えてみて。お父さんは今、どこにいると感じる?」
「どこに……」
七海は目を閉じた。
「お墓にいるような気もするし、どこか遠くにいるような気もする。でも、一番強く感じるのは……」
「心の中?」
「はい」
「それでいいのよ」
佐和子は優しく微笑んだ。
「民俗学が教えてくれるのは、死後の世界の『真実』ではなく、人々がどう信じてきたか、なぜそう信じる必要があったか、ということ」
「人々の信仰の歴史……」
「そう。そして、その歴史が教えてくれるのは、人間の根源的な願いなの」
佐和子は立ち上がり、書棚から古い写真を取り出した。
「これ、私の祖母よ」
写真には、着物を着た老婆が写っていた。
「祖母は、民間信仰の伝承者だったの。神様のことも、仏様のことも、妖怪のことも、たくさん知っていた」
「素敵な方ですね」
「祖母は私に言ったわ。『佐和子、死んだ人はね、星になるんだよ』って」
「星に……」
「子供の頃、私はそれを信じていた。夜空を見上げて、『あの星がおじいちゃんかな』って考えたものよ」
佐和子は懐かしそうに笑った。
「今は、星が何であるか科学的に知っている。でも、死者が星になるという考えは、美しいと思うの」
「科学的真実と、情緒的真実は別……」
「そうよ。民俗学は、その情緒的真実を大切にする学問なの」
佐和子は七海の隣に座った。
「七海さん、あなたは研究者だから、客観的な真実を求めている。でも、死後の世界については、客観的な答えは得られないかもしれない」
「それは……わかっています」
「でも、主観的な真実は得られるわ」
佐和子は七海の手を取った。
「あなたにとって、お父さんはどこにいるのか。あなたが、どう信じたいのか。それがあなたの真実なの」
七海の目に涙が浮かんだ。
「でも、それは自己欺瞞じゃないんでしょうか? ただ自分を慰めているだけで……」
「慰めることの、何が悪いの?」
佐和子は強く言った。
「人間は弱いの。だから、慰めが必要なの。それは恥ずかしいことじゃない」
「先生……」
「七海さん、あなたは強くなろうとしすぎている。研究者として客観的であろうとし、感情を抑えようとしている」
佐和子は七海を優しく抱きしめた。
「でも、今のあなたに必要なのは、娘として悲しむことよ。父を失った悲しみを、素直に感じることよ」
七海は佐和子の腕の中で、泣き出した。父が亡くなってから初めて、本当の意味で泣いたと感じた。
「いいのよ、いいのよ」
佐和子は七海の背中を優しく撫でた。
「泣いていいの。悲しんでいいの。それが人間だから」
しばらくして、七海は顔を上げた。
「すみません、取り乱して……」
「謝らないで。あなたは何も悪くない」
佐和子はハンカチを差し出した。
「七海さん、お父さんのことを話してくれる? どんな人だったの?」
七海は涙を拭きながら、父のことを語り始めた。
父の優しさ、父の知恵、父の笑顔。
一緒に図書館に行ったこと、本を読んでもらったこと、進路について相談したこと。
話しているうちに、七海は気づいた。父のことを語ることで、父が生き生きと蘇ってくることに。
「それが答えよ」
佐和子は静かに言った。
「死者は、語られることで生きる。記憶されることで、存在し続ける」
「記憶……」
「世界中の文化で、死者の物語を語る習慣があるわ。日本の法事で故人のエピソードを話すこと、メキシコの死者の日で死者の写真を飾ること、ユダヤ教の追悼で『彼/彼女はこういう人だった』と語ること」
佐和子は続けた。
「それは、死者を忘れないため。そして、死者を生かし続けるためなの」
七海は深く考え込んだ。
「でも、いつか私も死んだら? 父を覚えている人がいなくなったら?」
「それでも、影響は残るわ」
佐和子は微笑んだ。
「あなたはお父さんから多くのことを学んだ。その学びは、あなたの生き方に影響を与えている。そして、あなたは他の人に影響を与える」
「連鎖……」
「そう。人は死んでも、その影響は波紋のように広がり続けるの。直接的な記憶は失われても、間接的な影響は永遠に続く」
佐和子は窓の外を指さした。
「あの桜の木を見て。私が植えたのよ、三十年前に」
立派な桜の木が、庭に立っている。
「いつか私が死んでも、この木は残る。この木を見た人は、美しいと感じる。その感動は、私が植えたからこそ生まれた」
「あなたの行いが、形を変えて残る……」
「そうよ。お父さんも同じ。お父さんが生きた証は、様々な形で残り続けるわ」
七海は心が軽くなるのを感じた。
「佐和子先生、ありがとうございます」
「どういたしまして」
佐和子は立ち上がった。
「さあ、お昼にしましょう。精進料理を用意してあるの」
「精進料理ですか?」
「ええ。お父さんの供養も兼ねて」
二人は食卓についた。季節の野菜を使った、美しい料理が並んでいる。
「いただきます」
食事をしながら、佐和子は様々な話をした。民俗学の面白いエピソード、世界の不思議な習慣、人間の多様性について。
七海は、久しぶりに心から笑った。
食後、庭を散歩した。
「七海さん、これからどうするの?」
「まだ、何人かの人に話を聞きたいと思っています」
「それはいいわね。でも、答えを急がないでね」
「はい」
「そして、最終的には、自分の心に問いかけることよ」
佐和子は立ち止まり、七海を見た。
「あなたは、お父さんが天国にいると信じたい?」
「はい……」
「それなら、そう信じればいいのよ」
「でも、証拠がないのに……」
「愛に証拠は必要ない」
佐和子は優しく言った。
「あなたがお父さんを愛している。その愛が、お父さんを『天国』に置くのよ」
その言葉は、七海の心に深く刻まれた。
帰り道、七海は空を見上げた。青い空に、白い雲が流れている。
父は、どこにいるのだろう?
その問いは、もう少し前と違って聞こえ始めていた。
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