第四章 科学者が信じるもの


 数日後、七海は大学の研究棟を訪れた。

 物理学科の水島理沙教授に会うためだ。


 理沙は四十代前半の女性で、素粒子物理学を専門としている。

 国際的な研究プロジェクトにも参加する、優秀な科学者だった。


 研究室のドアをノックすると、明るい声が返ってきた。


「どうぞ!」


 中に入ると、理沙は大きな机の前に座っていた。ホワイトボードには複雑な数式が書かれている。


「朝倉先生、いらっしゃい。久しぶりね」


 理沙は立ち上がり、七海を迎えた。カジュアルなジーンズにTシャツという格好で、髪を後ろでまとめている。


「お忙しいところ、すみません」


「全然大丈夫。ちょうど一段落ついたところだったの」


 理沙はソファを勧めた。


「それで、話って何かしら? 宗教学の先生が物理学者に相談なんて、珍しいわね」


「実は……」


 七海は父のことを話した。

 そして、天国について、様々な視点から考えたいと思っていることを説明した。


「なるほどね」


 理沙は真剣に聞いていた。


「それで、無神論者の私に意見を聞きたいと」


「はい。率直なご意見を聞かせていただければと思います」


「わかったわ」


 理沙は椅子に深く座り、腕を組んだ。


「まず前提として言っておくけど、私は宗教を否定するつもりはないの。宗教は多くの人に心の支えを与えているし、文化的にも重要な役割を果たしてきた」


「でも、あなた自身は信じていない」


「そう。科学者として、証拠がないものは信じられないのよ」


 理沙は率直に答えた。


「天国、神、魂、死後の世界――これらの概念には、科学的な証拠が一切ない」


「科学で証明できないものは、存在しないということですか?」


「いいえ、そうは言っていないわ」


 理沙は首を振った。


「科学で証明できないものが存在しない、とは言えない。でも、証拠がない以上、それが存在すると主張することもできないわけ」


「論理的にはそうですね」


「例えば、私がここで『月の裏側に見えないウサギが住んでいる』と言ったら、あなたはどう思う?」


「荒唐無稽だと思います」


「でも、証明できる? 誰も見たことがない、観測できない、でも存在するかもしれない……こういう主張は、反証不可能なの」


 理沙は身を乗り出した。


「天国の存在も同じよ。誰も見たことがない。証明できない。でも『存在しないとは言えない』という論理で、存在を主張される」


「では、あなたは死後の世界は存在しないと考えているのですか?」


「私の考えでは、死は終わりよ」


 理沙ははっきりと言った。


「意識は脳の活動に過ぎない。脳が機能を停止すれば、意識も消える。それだけのこと」


 その言葉は、冷徹に聞こえた。


「それは……寂しくないですか?」


「寂しい?」


 理沙は少し考えた。


「感情的には、そうかもしれないわね。でも、事実は事実よ。私たちの願望が、現実を変えるわけじゃない」


 七海は反論した。


「でも、脳科学でも意識の本質は完全には解明されていませんよね。意識がどこから生まれるのか、なぜクオリアが存在するのか……」


「確かにそうね」


 理沙は素直に認めた。


「意識のハードプロブレムと呼ばれる問題は、まだ解決されていない。でも、だからといって、魂や死後の世界の存在を仮定する必要はないわ」


「なぜですか?」


「オッカムの剃刀、って知ってる?」


「ある現象を説明する時、必要最小限の仮定で説明すべきだ、という原則ですね」


「そう。意識を説明するのに、魂という概念を持ち込む必要はない。脳の複雑な神経ネットワークの相互作用で説明できる可能性が高い」


 理沙は立ち上がり、ホワイトボードに図を描き始めた。


「脳には約八百六十億個の神経細胞がある。それらが無数のシナプスで結びついて、情報を処理している。この複雑なシステムから、意識が創発するというのが、現代神経科学の考え方よ」


「創発……」


「個々の要素には存在しない性質が、それらの相互作用から生まれること。例えば、水分子単体には『濡れる』という性質はないけど、大量の水分子が集まると『濡れる』という性質が現れる」


 七海は真剣に聞いていた。


「同じように、個々の神経細胞には意識はないけど、それらが複雑に結びつくことで、意識が生まれる」


「でも、それは仮説ですよね」


「もちろん。でも、


 理沙は強調した。


「脳に損傷を受けると、意識や人格が変わる。これは、意識が脳に依存していることを示している」


「では、脳が死ねば、すべて終わり……」


「私はそう考えている」


 理沙は座り直した。


「でもね、朝倉先生。これは決して悲観的な考え方じゃないのよ」


「どういう意味ですか?」


「死が終わりだからこそ、


 理沙の目が輝いた。


「死後の世界があると信じて生きるのと、この人生が全てだと考えて生きるのと、どちらがより真剣に人生と向き合えると思う?」


「それは……」


「私は、この一度きりの人生を、できる限り意味あるものにしたいと思っている。だから、毎日を大切に生きようとする。人に優しくしようとする。科学を通じて、世界の理解に貢献しようとする」


 理沙は窓の外を見た。


「あなたのお父さんも、そうだったんじゃないかな。死後の報酬を期待せずに、ただ善く生きようとした」


「そうですね……父はそういう人でした」


「それって、すごく尊いことだと思わない?」


 理沙は真剣な顔で言った。


「天国や地獄を恐れて善行をするのではなく、それがただ正しいことだと信じてひたすらに行動する。それこそが、真の道徳性じゃないかしら」


 七海は考え込んだ。


「でも、理沙先生。もし愛する人が死んだら、もう二度と会えないということですよね。それは辛くないですか?」


 理沙の表情が、一瞬暗くなった。


「辛いわよ、もちろん」


 彼女は静かに言った。


「実は私、三年前に母を亡くしたの」


「そうだったんですか……」


「母は癌だった。最期の日々、母は私に言ったわ。『理沙、天国で待ってるからね』って」


 理沙は少し笑った。


「母は宗教を信じていたの。私が無神論者だってわかっていても、そう言ってくれた」


「あなたは何と答えたんですか?」


「『わかった。いつか会おうね』って言ったわ」


 理沙の目に涙が浮かんでいた。


「嘘をついたのよ。私は天国なんて信じていない。でも、母を安心させたかった」


「それは……」


「偽善的だと思う?」


「いいえ、優しさだと思います」


 七海は言った。


「母が亡くなった後、私は後悔したわ」


 理沙は続けた。


「もっと一緒にいればよかった。もっと色々なことを聞いておけばよかった。。もっともと感謝を伝えるべきだった」


「私も同じです」


「でもね、今は思うの。後悔するということは、それだけだって」


 理沙は涙を拭いた。


「母はもういない。でも、母との思い出は私の中に生きている。母から受けた愛、母から学んだこと、母と過ごした時間。それは永遠に私の一部なの」


「それが、あなたにとっての天国ですか?」


「そうかもしれないわね」


 理沙は微笑んだ。


「科学者として、私は天国の存在を信じることはできない。でも、人間として、私は愛する人が自分の心の中で生き続けることを知っている」


 七海は深く頷いた。


「理沙先生、お聞きしてもいいですか? もし科学が、死後の世界の存在を証明したら、あなたはどうしますか?」


「面白い質問ね」


 理沙は考えた。


「もし確かな証拠があれば、私は認めるわ。科学者は、証拠に従うものだから」


「でも、そんな証拠は……」


「ないでしょうね」


 理沙は断言した。


「でも、逆に聞きたいわ。もし科学が、死後の世界は存在しないと完全に証明したら、あなたはどうする?」


 七海は答えに詰まった。


「わからない……でも、多分、それでも信じたいと思うかもしれません」


「それでいいのよ」


 理沙は優しく言った。


「信仰は、証拠の問題じゃない。


「でも、あなたは……」


「私は証拠がなければ信じられない人間。でも、あなたは違う。それは、


 理沙は立ち上がり、窓辺に立った。


「人間は多様なの。科学的思考をする人もいれば、信仰を持つ人もいる。大切なのは、お互いを尊重することじゃないかしら」


「尊重……」


「私は宗教を信じないけど、宗教を信じる人を軽蔑したりしない。逆に、信仰を持つ人たちも、私の無神論を受け入れてくれる」


 理沙は振り返った。


「あなたのお父さんは、どんな考え方の人も受け入れる人だったんじゃない?」


「はい……父は本当に寛容な人でした」


「そういう人こそ、なのよ」


 七海は心を動かされた。


「理沙先生、一つ教えてください。あなたは死を恐れませんか?」


「もちろん恐れるわ」


 理沙は率直に答えた。


「私だって人間だもの。死ぬのは怖い。でも……」


「でも?」


「恐れることと、受け入れることは別よ」


 理沙は静かに言った。


「私は死を受け入れている。それは自然の一部だから。すべての生命は、いつか終わる。それが宇宙の法則なの」


「寂しくないですか?」


「寂しいわよ。でも、だからこそ美しいのかもしれない」


 理沙は微笑んだ。


「桜の花が美しいのは、すぐに散ってしまうから。人生が大切なのは、限りがあるから」


 その言葉は、七海の心に深く響いた。


「理沙先生、今日はありがとうございました」


「いいえ、こちらこそ。久しぶりに深い話ができて、楽しかったわ」


 理沙は七海の肩を軽く叩いた。


「あなたは、自分の答えを探している。それは素晴らしいことよ。誰かの答えをそのまま受け入れるんじゃなくて、自分で考えている」


「でも、まだ答えが見つからなくて……」


「焦らなくていいわ。答えは、時間をかけて見つけるものよ」


 研究室を出る時、理沙は言った。


「お父さんのこと、大切に思っているのね」


「はい」


「よく聞いて。その気持ちがある限り、。物理的にではなく、あなたの心の中で」


 七海は頷いた。


 大学を後にする道すがら、七海は考えた。


 冬香は、天国は心の中にあると言った。マリアは、神の愛は人間の理解を超えていると言った。理沙は、死後の世界はないが記憶は残ると言った。


 それぞれの視点に、それぞれの真実があるように思えた。


 だが、七海はまだ迷っていた。

 七海の答えはまだ出ていなかった。


 それとも……。


 答えが出ないところに、本当の答えがあるのだろうか。


 桜はまだ静かに散り続けていた。


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