第三章 神の愛は、どこまでも
翌週、七海は市内のカトリック教会を訪れた。冬香が紹介してくれたシスター・マリア園田に会うためだ。
石造りの教会は、重厚で静謐な雰囲気を漂わせていた。日曜のミサが終わった直後で、数人の信徒が帰途についていくところだった。
七海が教会の事務室を訪ねると、三十代半ばと思われる女性が出迎えてくれた。
「朝倉先生ですね。冬香さんから伺っています。シスター・マリアです」
マリアは黒い修道服を着て、首から十字架のペンダントを下げていた。柔和な顔立ちで、落ち着いた話し方をする人だった。
「お忙しいところ、お時間をいただいてありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。宗教学の先生とお話しできるのを楽しみにしていました」
マリアは七海を応接室に案内した。
壁には十字架とマリア像が飾られている。
「コーヒーでよろしいですか?」
「はい、ありがとうございます」
マリアは慣れた手つきでコーヒーを淹れた。
「冬香さんから、お父様のことを伺いました。心からお悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます」
「それで、天国についてお話を聞きたいとのことですが」
マリアは真剣な目で七海を見た。
「はい。率直にお聞きします。私の父は、神を信じていませんでした。でも、とても善良な人でした。こういう人は、キリスト教の教義では、天国に行けるのでしょうか?」
マリアは少し考えてから、答えた。
「難しい質問ですね。でも、とても大切な質問です」
「正直なお答えを聞かせていただければと思います」
「わかりました」
マリアは両手でコーヒーカップを包み込むようにして持った。
「聖書には、確かに『わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』という言葉があります。イエス・キリストを信じることが、救いの道だと」
「では、父は……」
「待ってください。それが全てではないんです」
マリアは優しく遮った。
「キリスト教の歴史の中で、この問題はずっと議論されてきました。特に、キリストを知らずに生きた人々、キリスト教以前の時代の人々、そして遠い異教の地で生まれた人々について」
「無知の洗礼、という考え方ですね」
「そうです。第二バチカン公会議で、カトリック教会は重要な見解を示しました」
マリアは立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。
「現代世界憲章……『現代世界における教会に関する司牧憲章』には、こう書かれています。『聖霊は、すべての人に、神の計画に参与する道を提供する。その方法は神のみが知る』と」
「つまり?」
「つまり、私たち人間には理解できない形で、神はすべての人に救いの道を用意しているということです」
マリアは本を開いて見せた。
「また、教皇ヨハネ・パウロ二世は、回勅『福音の喜び』(Redemptoris Missio)で『福音を知らずとも、良心に従って正しく生きる人々も、神の恵みを受けることができる』と述べられました」
七海は真剣にメモを取った。
「でも、それは公式な見解なのですか? すべてのキリスト教徒が受け入れているのでしょうか?」
「正直に言えば、様々な解釈があります」
マリアは認めた。
「福音派など、保守的な教派の中には、明確な信仰告白がなければ救われないと主張する人々もいます。でも、カトリック教会の現在の公式見解は、より包括的なものになっています」
「それは、時代とともに変化したということですか?」
「そう言えます。教会は、長い時間をかけて、より深く神の愛を理解してきたのです」
マリアは窓の外を見た。
「私自身の信仰としては、こう考えています。神は愛そのものです。完全な愛を持つ神が、ただキリストを知らなかったというだけで、善良な人を永遠に罰するでしょうか?」
「あなたの答えは?」
「そんなことはないと思っています」
マリアの目には、確信の光があった。
「神の愛は、私たちが考えるよりもはるかに大きい。聖書に『神は愛である』と書かれています。真の愛は、形式や条件で人を判断しません」
マリアの揺るぎない声音に、七海は心を動かされた。
「……でも、それは個人的な解釈ですよね?」
「そうかもしれません。でも、信仰とは最終的には個人的なものです」
マリアは微笑んだ。
「私は、あなたのお父様のような方が天国にいると信じています。なぜなら、神は私たちが理解できないほど慈悲深いからです」
「ありがとうございます」
七海は深く頷いた。
「もう一つ、お聞きしてもいいですか?」
「どうぞ」
「天国とは、具体的にどのような場所だと考えられているのでしょうか?」
マリアは少し考えた。
「聖書には、天国についての詳細な描写はあまりありません。黙示録には、新しいエルサレムのことが書かれていますが、それは象徴的な表現だと解釈されています」
「では、神学的にはどう説明されているのですか?」
「天国とは、神と完全に一つになった状態だと言われています。神の愛を直接体験し、完全な至福の中にいる状態」
マリアは静かに続けた。
「カトリック神学では、『至福直観(visio beatifica)』という概念があります。これは、神の本質を直接見ることができる状態を指します」
「それは、物理的な場所ではないということですか?」
「時間も空間も超越した、霊的な状態だと考えられています」
マリアは十字架のペンダントに触れた。
「でも、正直に言えば、私たち人間には完全に理解できないものだと思います。聖パウロは『今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる』と書きました。コリント人への手紙第一の13章12節です」
「つまり、生きている間は、完全には理解できないということですね」
「そうです。でも、だからこそ、そこに希望があります」
マリアの声は優しかった。
「天国が存在すると信じることで、私たちはこの世の苦しみに耐えることができます。また、死は終わりではなく、新しい始まりだと考えることができます」
七海は窓の外を見た。教会の庭には、白い花が咲いていた。
「マリアさんは、なぜ修道女になったのですか?」
突然の質問に、マリアは少し驚いたようだった。
「あっ……個人的なことを聞いてしまって、すみません」
「いえ、構いませんよ」
マリアは優しく微笑んだ。
「私は、二十五歳の時に修道女になりました。それまでは普通の会社員でした」
「何かきっかけがあったのですか?」
「祖母の死です」
マリアの目が少し曇った。
「祖母は私を育ててくれた人でした。両親が離婚した後、私は祖母と暮らしていたんです」
「そうだったのですね」
「祖母は敬虔なカトリック信徒でした。毎週教会に通い、毎日祈りを捧げていました。でも、病気になって、とても苦しみました」
マリアは静かに続けた。
「最期の時、祖母は私の手を握って言ったんです。『マリア、私はもうすぐイエス様に会える。天国で待っているから、いつか一緒にまた会いましょう』と」
「それで……」
「祖母は安らかな顔で亡くなりました。その顔を見た時、私は確信したんです。祖母は本当に天国に行ったのだと」
マリアの目に涙が浮かんでいた。
「それから、私は真剣に信仰と向き合うようになりました。そして、自分も神に人生を捧げたいと思うようになったんです」
「今は、その決断を後悔していませんか?」
「一度もありません」
マリアははっきりと答えた。
「修道生活は簡単ではありません。犠牲も多い。でも、神に仕える喜びは、それを補って余りあります」
七海は感動を覚えた。
「ではあなたにとって、天国とは何ですか?」
「天国とは……」
マリアは少し考えた。
「愛する人と再会できる場所。苦しみが終わる場所。そして何より、神の愛を完全に理解できる場所です」
「祖母との再会を、信じてらっしゃるのですね」
「はい。それが私の希望です」
マリアは優しく微笑んだ。
「朝倉先生、あなたもお父様との再会を望んでいるのでしょう?」
「はい……」
「その気持ちは、とても自然なものです。そして、その願いこそが、天国という概念を生み出したのかもしれません」
マリアは立ち上がり、窓辺に立った。
「人類は何千年も前から、死後の世界を想像してきました。それは、単なる幻想でしょうか? それとも、神が私たちの心に植えた希望の種でしょうか?」
「あなたはどちらだと思いますか?」
「私は、神が与えてくださった希望だと信じています」
マリアは振り返った。
「でも、それを証明することはできません。信仰とは、見えないものを信じることですから」
そこにはマリアのこれまでの深い洞察と経験が感じられた。
「もう少し聖書をお読みしましょう。コリント人への手紙第二の4章18節――『私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです』」
「見えないものは永遠に続く」――この言葉は七海の胸に静かに沁み渡った。
「ローマ人への手紙の8章24節から25節です。『わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるから、忍耐して待ち望むのです』」
七海は深く考え込んだ。
「もう一つだけ、お聞きしてもいいですか?」
「どうぞ」
「もし、天国が存在しなかったら? 死後、何もなかったら?」
マリアは真剣な顔で答えた。
「それでも、私の人生には意味があったと思います。なぜなら、天国を信じることで、私はより良い人間になろうと努力してきたからです」
「それは……」
「聖書には、『信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である』と書かれています」
マリアは微笑んだ。
「たとえ天国がなくても、愛は残ります。あなたがお父様を愛した記憶、お父様があなたを愛してくれた記憶。それは永遠です」
その言葉は、冬香が言ったことと通じるものがあった。
二人はしばらく沈黙した。教会の鐘が、遠くで鳴った。
「朝倉先生」
マリアが口を開いた。
「あなたは研究者として、客観的に宗教を見ようとしている。でも、今のあなたに必要なのは、学問的な答えではなく、心の答えかもしれませんね」
「心の答え……」
「頭で理解するだけでなく、心で感じることも大切です」
マリアは七海の手を取った。
「お父様は、あなたの心の中で生きています。あなたがお父様のことを思い出すたびに、お父様の愛を感じるたび、まさにその瞬間、お父様は天国におられるのです」
七海は涙が出そうになった。
「でも、それは比喩的な意味での天国ですよね。私が知りたいのは、本当に死後の世界があるのか、父がそこにいるのか……」
「その答えは、この世では決して得られないかもしれません」
マリアは静かに言った。
「でも、わからないからこそ、信じることができる。信じることで、希望を持つことができる」
七海は深くため息をついた。
「難しいですね」
「人間の最も深い問いですから」
マリアは優しく微笑んだ。
「でも、あなたは一人じゃない。多くの人が、同じ問いに苦しんできました。そして、それぞれの答えを見つけてきました」
「私も、自分の答えを見つけられるでしょうか?」
「きっと見つかります。その旅路が確かなものであることを、私は祈っています」
教会を後にする時、マリアは七海を抱きしめた。
「また来てください。いつでも歓迎します」
「ありがとうございます」
外に出ると、春の陽光が眩しかった。七海は教会を振り返った。
信仰を持つ人の強さと優しさを、七海は感じていた。
だが同時に、自分にはまだ真の意味でその答えが見つかっていないことも、痛感していた。
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