第02話「黒銀の鬼の優しい依頼」
ギルベルトから放たれる凄まじい瘴気と威圧感に、ルカの体は金縛りにあったように動けなくなった。本能が警鐘を鳴らしている。この男は危険だ、と。これまで感じたことのない死の気配に、ルカは思わず目を閉じ、訪れるであろう衝撃に身を固くした。
しかし、痛みはいつまでたってもやってこない。
代わりに聞こえてきたのは、すぐそばからの唸り声だった。
「グルルルッ!」
目を開けると、先ほど助けた魔狼がルカを守るように彼の前に立ちはだかり、ギルベルトに向かって牙を剥き出しにしていた。助けてもらった恩を返すかのように、小さな体で懸命に威嚇している。その健気な姿に、ルカの胸が熱くなった。
ギルベルトは、その信じがたい光景にわずかに目を見開いた。瘴気に侵された魔物が、浄化されただけでなく、見ず知らずの人間を庇っている。兜の奥の鋭い瞳が、魔狼からルカへと移り、じっとその力を探るように見つめてきた。
しばらくの沈黙の後、ギルベルトは意外なことに剣を抜くでもなく、ただ一言、こう言った。
「……来い」
有無を言わさぬ、しかし不思議と敵意は感じられない声だった。ルカが戸惑っていると、ギルベルトは背を向け、森の奥へと歩き出してしまう。すっかりルカに懐いた魔狼は、彼の服の裾を軽く食んで「一緒に行こう」と促すように尻尾を振った。
訳がわからないまま、ルカは魔狼に導かれるようにして、その大きな背中を追いかけた。
鬱蒼とした森を抜けると、堅牢な石造りの砦が現れた。ここが辺境騎士団の拠点なのだろう。ギルベルトは黙ったままルカを砦の中へと案内する。すれ違う騎士たちが、団長の後に続く見慣れぬ青年に訝しげな視線を向けたが、誰も何も言わなかった。
通されたのは、砦の最奥にある、温室のように陽光が差し込む広い一室だった。しかし、そこに満ちていたのは、穏やかな空気ではなかった。
部屋のあちこちに、弱々しく横たわる動物たちの姿があったのだ。
小さな体で震えているフェネック。枝の上でぐったりと翼をたたんでいる森フクロウ。潤んだ瞳で苦しそうに息をする小鹿。皆、一様にどす黒い瘴気にあてられ、命の光が消えかけている。
ルカは息を呑んだ。"黒銀の鬼"と恐れられる男の砦の奥に、こんな場所があったとは。
「俺が常に放つこの瘴気は、呪いの鎧によるものだ。力の弱い生き物は、俺のそばにいるだけでこうなる」
ギルベルトが、初めて自身のことを語った。その声には、懺悔のような、どうにもならない痛みが滲んでいる。
「癒やしの力を持つ者を探していた。だが、並の神官ではこの瘴気に触れることすらできん。……お前は、違うようだな」
ギルベルトは、ルカと、彼の足元で元気そうにしている魔狼を交互に見た。
そして、ゆっくりとルカの方へ向き直ると、兜の奥から真っ直ぐな、そしてどこか懇願するような色を帯びた瞳で彼を見つめた。
「この者たちを、救ってやってはくれまいか」
その言葉は、ルカの心の最も柔らかい部分を、強く揺さぶった。
"黒銀の鬼"が見せた意外な素顔。冷徹な仮面の下に隠されていた、動物たちを思う深い優しさ。言葉少なな彼の瞳が、何よりも雄弁にその真情を物語っていた。
ルカの中にあった警戒心は、いつの間にか驚きと、そして獣医師だった頃の使命感へと変わっていた。目の前に、救いを求める小さな命がある。それに応えないという選択肢は、彼にはなかった。
「……やらせてください。僕でよければ」
ルカは迷わず、力強くうなずいた。その返事を聞いたギルベルトの威圧的な空気が、ほんの少し和らいだのを、彼は確かに感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。