推敲考
床擦れ
推敲考
賈島は苦悶していた。
己が創作した、とある詩文についてである。
題李凝幽居(隠士
閑居少鄰竝(隠棲の場に、隣家少なし)
草径入荒園(埋もれる
鳥宿池中樹(鳥は池中の、樹に
僧推月下門(僧は月下に、門を
過橋分野色(橋を過ぐるに、野色を分かち)
移石動雲根(石を移して、雲ぞゆすぶる)
暫去還来此(暫く去りて、またぞ来たらん)
幽期不負言(永きに如かれど、言を違わず)
徒歩するうちに、存分に思惟して編み出した詩文である。
この詩文に対して、己は存分に精を尽くしたつもりである。
しかしながら、納得ができない。それは、この熟慮した文章が至らないものだったからではなく、ある一部分の、微小な差異がどうにも気に食わないのである。
「閑居少鄰竝」と言って、静かな情景を目の前にまず展開する。起立の部位においては全く、可もなく不可もない。しかし、過去と現在を同居させる語句である。
「草径入荒園」と言って其の地の俗世間との離れようを提示しつつ、閑居とその周囲の広範を向いていた視点を誘導するのも、良かろう。
「鳥宿池中樹」というのも風流をあらわすに良い。前段において
そののち「僧推月下門」といって、人の情感をここに加える。この僧、即ち李凝を訪ねる私は何を思うのか、これは視点を移してのち聴いた者の想像を発揮させよう。
「過橋分野色」と言うと、僧から見た庭園の評価が持ち込まれ、俯瞰から主観へと視線を揺り戻される。
「移石動雲根」とまで言うと、もはや人の俗世を超えた雰囲気を持ち始め、詠む者は涼やかさを感じるに至ろう。この石を動かしたのは、きっと普遍の人とは違う何者かに違いないと、ときめくのである。
「暫去還来此」と言ったのは、僧である。前二段は状況を説明するものでもあるが、或いはこの段も含めて僧の感嘆符である。
そして「幽期不負言」と言って、友誼の堅固なるを象徴さすとともに、その感動が高潮するをもって終える。
この文面の起承転結は
閑居少鄰竝(隠棲の場に、隣家少なし)
草径入荒園(埋もれる
鳥宿池中樹(鳥は池中の、樹に
僧敲月下門(僧は月下に、門を
過橋分野色(橋を過ぐるに、野色を分かち)
移石動雲根(石を移して、雲ぞゆすぶる)
暫去還来此(暫く去りて、またぞ来たらん)
幽期不負言(永きに如かれど、言を違わず)
この案が出てきたとき、思わず己の口から
そうではないか。この僧侶がもしも門を推せば、それは即ち門戸の中に足を踏み入れたということである。そうなれば、この荒廃した廃墟の内部というものも、この僧侶は見ることになろう。そこに詩の締めくくりに示した友誼の固さというものが示されるに足るのか、と問われれば、
一方、敲いてみればどうであろうか。この僧侶は、門の中を返事がするまで知ることはできなかろうし、ここに人の期待や不安というものの一挙に押し寄せる気分が襲わないだろうか。門を前にして立ち去るという行為こそ、友との再会を待ち侘びる心情に近いのではないか。
これは良いものを思いついたと考えた。しかし、はて敲く意味は一体何ぞやと問われれば、それはどうにも
門を敲くのは友人として、訪問者として、しごく真っ当な行動である。しかしながら、俗世間の風味からは逸脱したこの詩文に対して、きわめて俗っぽくはないだろうか。敲くという行為は礼を示し、訪問に対して音韻をもって表現するものである。詩文を読んだ者の中にも、この字を見た瞬間に木戸を打つ乾いた音が聞こえてくる者は多かろう。しかしながら、それは自他の分断の象徴でもあり、これまで
さて、それならば推としたほうが良いのであろうか。いや、やはりそれはそうではあるまい。先も言ったとおり、友人の家に入るに門を敲くことすら無く入るのは
そも、前二段に於ける荒れた
それならば敲くといったほうが良いように思うが、しかし、それにも問題がある。ここまで静寂さをもって進行してきたこの文章に、突如として木戸の甲高い音を立たせて良いのかという問題である。この前段において、己は
鳥宿池中樹(鳥は池中の樹に宿っている)
と吟じた。それは即ち、鳥の啼き声も聞こえてこようというものである。その風流を搔き消すようにして敲く音を鳴らしてしまうとは、なんという無粋なのだろうか。清らかな
それで良かろうと思って、体を横たわらせた。
が、しかしである。己の耳に想像上の戸の蝶番の
そもそもが、である。己の思慮の中で推すと言ってしまったときに、場面に転換がなく、平坦になってしまうという問題点を発見したというのに、何を安堵する暇があろうか。その前後に於いて、
まずは色相を変転させるという方法があろう。己としては李凝は隠士であるのだから、後半の野趣と清らかさの溢れる場面は残しておきたいという欲がある。ならば、しぜん前半をどう変えていくのが好かろうかという話になって来よう。
一段目は変うことなく
草径入荒園
鳥宿池中樹
という十字を変うに如かざらんと思い立ったのだが、これもまた、韻を踏んで熟考した文章である。
草径入荒園(cǎo jìng rù huāng yuán)
は
僧推月下門(sēng tuī yuè xià mén)
と韻を踏み、また
鳥宿池中樹(niǎo sù chí zhōng shù)
は
過橋分野色(guò qiáo fēn yě sè)
と韻を踏むように出来上がっているのである。それを崩してまた再び語句を施すというのは、なかなかの労力が必要になるのは言うまでもない。そもそも、色相を反転させえるような字が、これと同じような韻を踏む形で存在し得るのかどうかという点がどうにも気に掛かる。
例えば、どうであろう。粗雑な置換ではあるが
早夕入荒園(zǎo xī rù huāng yuán)
鳥宿池中樹(niǎo sù chí zhōng shù)
としてみれば、明け方と夕暮れの鮮烈な赤が迫る情景が映し出されたりはしないだろうか。いや、しかしそれでは忙しなさすぎるようにも思う。早夕と言ってしまえば、慣用的には早朝と夕暮れのことを指し示すことになるだろう。つまり、この語句を置くと、この僧は朝なり夕なり、友人の家に足繁く通うということになってしまう。それでは、友の身を案慮する奥ゆかしい心理的描写というものが消え去り、ただ
暫去還来此
幽期不負言
とまで言い切っているのに、この忙しなさを持ち込んでしまうのは大きな矛盾がある。たといこの早夕という語句を挿入しようものならば、それに代わる語句を最後の句にも織り込んでゆかなくてはならなくなる。その語句とは一体何であろうか。それを考えようともうまく言葉が出ない。
そも、この詩文全体を包んでいる宇宙観とは一体何であろうか。
その為にはこの文章を構成している文言を詳細に校閲していかなければならない。そも、この詩文が伝えている情景はなんであるのか。それは隠士となって巷から離れた場所に居を構えた友人に、その身を慮る仁心と、旧古の縁を懐かしむ心とを以って、その脚をのばすというこの詩の主人公、即ち私の心と、その友人と再び待たんとする心とを鮮明に映し出さんとするものである。つまり、人徳と義理との物語といえよう。
さて、閑居とは何であるか。それは
そして
その表徴物としての性格を配した物の行く先は、同じく荒れた模様の庭園である。ここに「入る」という言い方をするのもやはり意味があって、これが例えば「繫がる」という言い方をした場合には、単純な物質間の干渉に過ぎず、そこには雅意というものが無くなってしまう。それを「入る」というと、それは物質的な干渉だけではなく、精神的な干渉をもするということに他ならない。つまり己の身が相手の心情的な縄張り、相手の感傷の中に入るということなのである。これは
このように示してきた景色の中に、動的な物質が映し出されるのが次の段からである。
鳥宿池中樹、この句もまた、単純に「池の中の樹に鳥がいるなあ」と感嘆しているわけではない。これは前の句までの荒れ果てた径や園との対比とも謂え、強調とも謂え、そして転換ともいえる句なのである。それは何故か。まずは対比としてのこの句は如何なる意味なのかを示さねばならない。
対比として言う場合、この句は前二段の荒れ様にひとつ、花が咲くように鳥の健やかなさまが映し出されるはずである。しかしながら、その様相を確かなものとするのには、鳥の存在をより明確なものとするために何か音をたてたり、動きを句中に
しからば、この句は如何なる働きを明確にしているのであろうか。それは、これまでの鬱蒼とした世界の野趣というものを強調し、そしてその鬱蒼さが決して下卑たものではない、静かで涼やかなものであることの現れを落とし込んでいるのである。鳥というものは何かに驚けばすぐに飛び立っていく。しかしながら、その鳥が安眠の場としてこの場所を選び、宿としていること言うことが、この場所の存在感というものをより一層強めていると見れるのである。この句には、その鳥の宿としている処は池中樹であるとしたが、ふつう樹というものは水の中からすくすくと育つものではない。それを敢えてこう記したというのは、鳥の宿する樹の存在感を、池、もっと言えば水から想起し得る静けさや涼やかさとの同居、そして同一化の表現なのだ。つまり、ここでは鳥が池の中にある樹に宿しているという視覚的な情報以外は邪魔者になるのである。人の手の加わらない林というものは
その静粛な雰囲気の中、僧は門を推すのである。それは如何なる処でか。月明かりの下で、である。
この語句を基にして、この作品全体を包む時間軸というものを示している。端的に言えば、夜である。そして、この門に向かうまでの道中は、昼の
さらに言えば、昼でないことでこの詩句に出てくる僧、即ち己が朋友と会うことをどれほど待ちわびていたのか、ということも表しうる。それは何故であるか。本来、友人と会うにしても礼というものが存在する。相手を蔑ろにするようなことはしてはならないし、またその手を煩わせるようなこともしてはならないのである。そのためには、この僧は夜になった時点で訪問をいったん諦めて、翌朝にその家を訪ねるべきなのである。しかしながら、それをしなかった。それは何故か。それほどまでに李凝という人物の身を案じていたからであり、その存在に焦がれて心をあせらせていたからなのである。それは李凝という人物が出来上がっていることを表す。この僧(自分)はどれほどまでに恵まれているのかという誇らしげな表情すらも見えてきそうな表現の仕方なのだ。
そして、その己を月の光が照らし出す。それは人物を浮かび上がらせるために仕組みであり、決して夜の暗がりであってはいけない。この物語にあっては、さんざん誉められている李凝ではなく、この門を推すだか敲くだかしている僧の内的世界こそが主役であり、相手の李凝は代名詞と言って差し支えない。
その後、この僧は橋を渡るのである。ここであえて「過ぐる」と表現したのは、渡るという言葉自身が川をわたるものである、ということから、この情景にそぐわないという判断もある。しかし、もっと重要なのは、この空間を包んでいる時間というものが俗世間とはかけ離れた流れ方をしているのだ、という表現であるということだ。この橋を過ぎた後の情景は如何であるのか、ということはそののちにしかと記してある。「分野色」つまりはその先は野趣に溢れる世界だ、ということである。この単純な語句の羅列だけであっても相当に世間との隔絶を表すことができるが、それを強調するのが、まさしく「過」という一字なのだ。古来より橋の掛かる処というのはひとつの分界点である。橋の此方と彼方との違いというものは鮮明なものであるし、もっと言えば異界、つまりは化外の土地なのだという印象すら持ち得ることがあるほどに橋の持ち得る印象というものは強い。そしてこの僧は、門を恐らくは通り過ぎたのち、その領域の分点である橋というものを「過ぎた」のである。もしも「渡」と書いたときは、あくまで一人の人間が橋という物質の上を歩行して川、あるいは池の上を渡渉したのであるという行為のみを表してしまい、これはあまりに味気が無い。これを「過」ということによって、その身体の移動という印象のほかに時間的な移動、そして空気の劇的な変化という三つの要素を織り交ぜて表現することができる。この僧が過ぎたのは水の上だけではなく、俗世と仙域との境界線の上をもなのだと捉えうるところが、この字の相違による受け取り方の違いの妙といえる。
「移石動雲根」ということは少々受け取るのに事前の知識がいるだろう。石を移すことによって、なぜ雲根が動くことになるのか、ということであるが、これは石を移動させたという行為そのものはさして重要ではなくて、その石がどういう石であるのかということを重要視した文句である。
雲を生じさせる石とはどんな石であるのか。それは硬質でありながら湿潤である、仙界に近いような場所にある石に他ならない。古来より、石は雲を生じさせるものなのであると云うが、しかしながら路傍にある石をそのまま空気に触れさせてみても雲が
「暫く去りて」という事は、僧が訪ねた李凝という朋友がそこには居なかったことを暗に示している。もしかしたら、この語句以後が「推」と「敲」とを迷わせる発端となっているのかもしれない。もしも推すといったのならば、この僧は無人の庭園に何も言わずに入ったことになる。この僧は李凝が居ないことを確かめるためには相当深くにまで入らなければならない。つまり、奥に建てられた草庵の内部を窺い知れるほどに進まなければ、この語句は存在しえないのである。その反面で、これまでの荒蕪した径を行った中で、門というひとつの仕切りがあり、そこから野趣を施した庭園へと風景が一瞬のうちにがらりと変わるといった驚きを持たせるのであれば、やはり一度に推し開いてしまうほうが転換という特色を出すことができるはずだ。これまでの雰囲気を汲んだ、動的な語句であるといえる。
一方、敲くといった時には
つまり、これまでの流れを見たうえでこの言葉を評するのなら、この僧の動きの流れとして動のち反転した動であるのか、或いは動のち静を挟んで反転した動に転じたのかという問いかけを孕んでいるはずだ。
ともかく、この「暫去」という語句はこれ以前の表現的な問題を一挙に請け負う部分であるといってもよいであろう。そうであれば、いっそこの語句をも換言の対象とするべきなのかもしれない。
そして友の居する場所へ背を向けたのち「
この語句を強調し、結ぶのが「幽期不負言」という力の籠った言葉なのだ。
幽期というのは記憶も
そして、そういう永い時間も「言に負けず」と言い切って終わるのである。この言というものは単純な人の咽喉から発せられる情報を持ち得る音波の集合体を言うのでは無い。この言というのはそういった物質的なものではなく、己の胸中にある志なのである。その志とは友を想う仁の心に
さて、己はこの意味合いを持って作られている詩の中の一言を以って、この自然体の意味合いがどのように変化するのかということを留意していかなければならない。
先言したように、詩の全体の動きとして推と言えば動、動となり、敲と言えば動、静、動という動きの波の違いが生まれることに加えて、前後の語句が持つ雰囲気が変わることも振り返ることで見えてきた。
即ち、推といえばそれは視覚的な場面の転換として効力が発揮されて縦深の観が生まれるのに対して、敲といえば心情的な機微というものを写し取った句となり精神的な豊かさを持った詩句となるということである。
この違いのどちらを取るのかということであり、どちらのほうがより人の心情に届くのかということになる。
人というものはどちらのほうがより感情をゆすぶられるのであろうか。心情を謳うほうが良いのか、あるいは物体面から浸透させるほうが良いのか。
古来より、詩というものは己の心情を詠うものだと言われてきている。それに従うのであれば、ここはとうぜん敲くと言ったほうが良いということになる。しかしながら、それは
果たして、門を敲くという行為に対してそこまで複雑な表意があるのかという部分に関しては一考の余地があって、たとえばである。或る人に聞けば、敲くといったときに、それは軽く拍子を打つだけに聞こえたと言うだろう。しかし、他の人に言うと比較して暴力的な表現として聞こえるかもしれない。まるで借金の取り立てに来ているかのように聞こえることがあったのなら、それは己が意図したこの言葉の使いようとは大きく乖離した認識となる。そういった点でいえば、敲くといわずに推すといったほうが、まだその誤解を生む可能性は低いのではないかと想像する。それは何故か。敲くという行為は不均一な音韻の連続であるから其の発生の強さに幅を生じさせるのに対して、推すというときには均一な力法示唆を伝えるが故に其の想像し得る強弱の差に制限が付くからである。
風雅であるということは、一種の制限である。制限の内にその中で最大限、己の感情を揺さぶられる光景を心の留めおこうとしたとき、人は風雅を感じる。逆に言えば、風雅でないと感じるときは、その人は目の前にある物体、あるいは空気や感情の動きを単純な色彩や形式、そして文章としてしか表現しようがないからそう思うのである。簡単に言ってしまえば、風雅は自由ではない。己の感覚から、そういった形式や色彩、あるいは文章から逸脱したものを、人の頭脳は一色に風雅という言葉として受け取る、そう考えることはできないだろうか。
そう考えてみたときに、敲くという行為は推すという行為よりも自由である。力加減も対象も、すべてを己で決められるのに対して、推すという行為は己の力量という制限を受け、その行為を実践するだけの形状を持つ者にしか為しえない。単純に言えば、敲くという行為は恣意な一面を持つのである。これは、先に言った風雅とは一種の制限の形であるという理論に当て嵌めると、より勝手な印象というものを与えてしまうことになり得る。
そう考えてみると、心情的な側面も物質的な側面も持ち合わせる適当な語句なのではなかろうか。と、断じるのはまだ早計である。
まず考えるべきは、敲くという行為が物質的な側面を持ちえないという考えが適当であるかである。そも其れまでの段階で、ここまでの光景というものはしっかりと描写したうえで、そこに門がある、ということを言っているこの句に於いて、これ以上に過敏な視覚効果はいらない。そう考えたときに、必要な変化とは何か。これまでは状況を伝えるということをしてきたのだから、そののちは何か動的な行動を以って状況を動かすということをしなければならない。その行動は、何か劇的なものであるということが必要とされ、その為には間延びした微弱な力の連鎖である「推」よりも、歯切れのよい音の連鎖である「敲」のほうが良いように思われる。
そして、そもそも心情の描写に
さて、そういった想像力を具現化するという行為ができる人間に対して、ある意味心情描写である「敲く」という言葉を言ったときに、それを果たしてなんの発展性も無い想像の仕方のみで済ますことがあるだろうか。この詩を詠んだ者が、この敲くという行為について考えたときに「これは一種の躊躇である」とか「友としても礼儀を欠かさなかったのだ」ということは簡単であろうが、それ以上に、例えば「その躊躇の根源とは何であるのか」とか「この李凝という人間はどのように礼を示すに
物は物である。それは詩の表現としては大事な思考である。例えば木を擬人化して喋らせることは、極めて無粋とも謂える。木は木である。そして、その木がどこに生えているのか、どのように生えているのか、枝の広がり方や葉の付き方は如何であるのか。花は咲いているのか。そういったあくまで具象化されている物体としての描写を重きとするのは、この沈黙こそが雄弁であると信じているからである。しかし、それは物体を物体としてのみしか描写できないという一種の束縛である。推と敲の違いとは、その束縛を生かすのか、あるいは解放するのかという問題なのかもしれない──
気づけば朝であった。
外では鳥が啼いている。もしかしたら、この声も詩に織り込むべきなのかもしれないが、いまはそこに思考が及ぶまでは行っていない。もっと重要な問題が転がっているからだ。
しかし、物体描写をすることに近い「推」という言葉が束縛になりえるのだろうか。そもそも、門を押すという行為は開放する行為である。眼前の視界を
ならば、それこそが適した表現であるのか、といえば「敲」という言葉にも強みがある。
先に言った通りで、「敲」には目前に迫った
ならば、やはり「敲く」のほうが良いのか。いや、違う。
「推す」という行為は人間の内的世界に在る宇宙の展開である。これまでの描写に在った状況描写と、この言葉からの状況描写との間には大きな差というものがある。それは、この言葉以後はただの物体を表す言葉から、詩独特の表現技法を使った描写に移るのである。例えば「石」を「雲根」と言ったり「長期間」のことを「幽期」と言ったりするのだが、これは単純に凝った表現をしたかったからなのだろうか、と言われるとそれは違う。やはり、詩の前半と後半では包む雰囲気というものが違っていることを表しているのである。これは詩を盛り上げるための文章技法的な工夫であると同時に、この僧が己の中にある宇宙観を発揮させたという表現にもなる。
はたして、門を敲いてこの宇宙観の広がる様を表現することはできるだろうか。それよりは門を推し開いたことによって視界が広がり、「野色」が広がったことに依って、この僧の頭脳が刺激を受けたのだ、とするほうが自然であると謂えないだろうか。そも、この詩的表現を当て嵌めえたのも、この「推」の一字があったからだということができ──そもそも最初に思い付いたのは此方の方であるのだから──この存在を崩すということは、この詩全体の空気すらも一挙に神秘的な宇宙論から、現実的な実在論に回帰
かといって、敲くという行為が宇宙観を存在させえないほどに実際性の高い行為なのか、というとそれも違かろう。敲くも敲くで、それは自己の宇宙の展開であると謂えなくも無い。
そも、「宇宙」とは何であるのか。宇とは即ち屋根のことであり、宙とは即ち大空のことである。つまりは天空を覆う巨大な屋根のことを、この言葉は直接的に表現した言葉なのである。しかしながら、個人の実感にこれを適応させるのであれば、それは内的な己の思考の及ぶ範疇、あるいは実際に目にした物の感覚的な実在性を義するものである。ここで重要なのは物自体と己の理性とでは感じうる物が違うということである。仏典にもあるではないか、「空と色は相互なのである」と。
つまり此処で言いたいのは、門を敲くという行為は色に空を当て付ける行為なのであって、これが宇宙論を展開するに足りない語句なのだといえば、それは思考の欠如といって良かろう、ということである。
どちらにも宇宙を顕すだけの気魄がある。どちらのほうが、よりこの詩句に対して適しているのか、ということはこれでも測りがたい。
どうするべきか、どうするべきか。
そう考えるうちに気分が悪くなった
今日もまた、時間が過ぎるのが早く感じる。思えば進士の試験に失敗し、僧なって無本と名乗り幾年月。また表の世界に立ってみようと科挙を受けに洛陽に来てみたは良いものの、己の思い立った詩文で
僧推月下門、僧敲月下門と交互に言いながら歩いていた。どちらが良いのか、ということはいまだに決められない。やはり、詩という宇宙に相応しいのがどちらか、という問題は簡単には解決しようもなかった。
賈島は手を推しつ、動かしつ、その動作を懸命に繰り返してみても、やはり決めることができない。
この時、あまりに己の思索に耽っていた彼は、
賈島はすぐさま、その脇侍をしている者に捕らえられた。この大尹は
「これほどの列を為しているというのに、気付かずに潜り込んでしまうとは何事か」
すると賈島は困った表情をして、これまでの己の思索の
韓愈は笑った。
「この者はなかなか見込みがある」
と左右の者に言うと
「どうせならば、
と、その横に賈島が
「それは敲のほうが良いだろうよ」
韓愈は賈島に向かって、馬を進めると同じくして言った。
「なぜですか」
と、賈島が
「友を訪ねるのに、礼を為さぬ者はいないだろうに」
推敲考 床擦れ @tokozure2
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