第2話
ノクス・プルヴィアは平民出身でありながら、史上最年少で政官の試験を突破した男である。
艶めくような黒髪に、切れ長の青色の瞳。肌が雪のように白い為、一見すると女性と見紛うほどの端正な容姿である。
一度見たら忘れられない美貌の持ち主であるノクスだが、政界の星と謳われる一方で“死神政官”と恐れられてもいた。
「一体どういうことでしょうか」
ノクスは不機嫌を宿した声で問いかけた。同時に婚約の命令文書も突き出したが、皇帝であるヴィルジールはそれに一瞥もくれずにペンを走らせている。
「今度はお前か。何の用だ?」
「分かっておられますよね。婚約の件です」
「それがどうした」
ノクスは執務机に両手をついた。誰かに見られたら間違いなく不敬罪で訴えられるが、今は誰もいない。眉一つ動かさないヴィルジールの顔を覗き込むと、ノクスよりも淡い青色の瞳と視線がぶつかる。
「一体どういうことですか? よりにもよって、公爵家の令嬢など」
「男爵家の女なら良かったのか?」
「そういうことではありません。──言ったはずです、僕は結婚はしないと」
「これは命令だ」
ヴィルジールはノクスを拒絶するように目を伏せると、もう下がれと言わんばかりに手を振る。納得がいかないノクスは食い下がろうとしたが、ヴィルジールが立ち上がったのを見て押し黙った。
「少しの間でいい。あいつの気が済むまで、付き合ってやってくれ」
「……それは、どれくらいでしょうか」
ヴィルジールは「さあな」と告げると、ノクスから窓へと目を動かした。窓の向こうの曇り空へと向けられた視線に、いつもの刺々しさはない。その物憂げな横顔を見ているうちに、ノクスは何も言えなくなってしまった。
ノクスの住まいは城下町のはずれにある。首都で暮らす平民の多くは、城のお膝元にある貸家である集合住宅に住んでいるが、ノクスは試験に受かった祝いにと一軒家が与えられた。
家を持つ平民の多くは、農業や林業、漁業などを営んでいる者だ。城の下には城下町と呼ばれる商業の中心地と平民が暮らす集合住宅が、さらにそのまわりには貴族の別邸が並んでいる。
定刻に仕事を切り上げたノクスは、急ぎ足で自宅へと向かっていた。頭から足元まですっぽりと隠れる外套を羽織っている為か、すれ違う人たちから視線を送られてくる。
それはそうだ。ノクスの全身は黒ずくめなのだから。外套だけならまだしも、シャツも上着もズボンも靴も黒色となると、どこから眺めても怪しく見えることだろう。
容姿端麗で頭脳明晰だが、傲岸不遜、傍若無人な性格に加え、容赦なく人を切り捨てるその姿が全身黒ずくめともなると、死神政官と呼ばれてしまうのも致し方あるまい。
「──ただいま、セバスチャン」
ノクスは疲れ切った声でたった一人の使用人の名を呼びながら、分厚い扉を押し開けた。貴族の別邸をひと回り小さくしたようなこの邸宅は、新築にしては古めかしい見た目をしているが、ノクスは気に入っている。
「──おかえり、婚約者殿」
鈴を転がしたような明朗な声が響く。
その声の主を見て、ノクスは手に持っていた鞄を落とした。
「…………は?」
ノクスを出迎えたのは、勝手に取り決められた婚約者であるイスカだった。いつも玄関まで駆け寄り出迎えてくれるセバスチャンの姿はなく、何故かイスカが仁王立ちで──それも清々しい笑顔でいる。
「お勤めご苦労様だね。いつも帰宅はこの時間なのかい?」
「……何故貴女が僕の家に?」
「質問に質問で返さないでくれたまえよ、婚約者殿」
イスカはけらけらと笑いながら、ノクスの足元に落ちた鞄を拾い上げた。ほら、と鞄を突き出してきた彼女の眼差しは、幼い子供のようにきらきらと輝いている。
ノクスはため息を吐いてから、鞄を受け取った。
「……いつも通りだ。それで、貴女はどうしてここに?」
「どうしても何も、私は君の婚約者なのだから、別に不思議なことじゃないだろう」
「その理由を聞いているんだが」
ううん、とイスカは首を捻る。それから数秒置いたのちに、彼女は「花嫁修行だ」と元気に答えた。
「……花嫁修行?」
「ああ。良き妻となるために必要なことだろう」
「…………」
ノクスは今度こそ言葉を失った。誰がノクスの家の場所を教えたのか想像はつくが、本人の意思を無視して勝手に事を進めるにも程がある。
「どこか悪いのかい? 婚約者殿」
イスカが心配そうな面持ちで、ノクスの顔を覗き込んでくる。
ノクスは伸ばされた手を振り払い、イスカを置いて自室へと向かった。
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