忘却の蝶は夜に恋う

北畠 逢希

変わり者令嬢と平民の政官

第1話

「ノクス・プルヴィア殿。貴殿に婚約を申し込みたい」


「…………は?」


 突きつけられた文書を見て、ノクスは絶句した。

 何の前触れもなく現れたかと思えば、決闘をしろと言わんばかりの勢いで婚約を申し込まれている。それも、初対面の人間に。


「申し遅れた、私の名はイスカ。これでも一応、ハインブルグ家の出身でね」


 イスカと名乗ったその少女は、明るく爽やかな顔立ちをしていた。胸元まであるさらさらの髪は陽光で染めたような金色で、瞳は晴れ渡った日の空のように青く、肌は透けるように白い。


 世間一般で言うところの美少女の部類に入るのだろうが、その手のことに疎いノクスには分からなかった。


「……公爵家のご令嬢が、何故僕を?」


 ノクスは切れ長の瞳を更に細める。その視線ひとつで幾人もの人間を黙らせてきたが、イスカには効いていないようだった。


「決まっているじゃないか。君に興味があるからさ」


「それしきの理由で縁談を申し込まれる意味が分からない」


「残念ながら、君に拒否権はないよ。ほら、これを見たまえ。皇帝陛下からの正式な文書だ」


 イスカはニッと勝気に微笑むと、ノクスの顔の目の前まで書面を近づける。質の良いその紙には、流れるような字でこう記されていた。


【ノクス・プルヴィアにイスカーチェリ・ハインブルグとの婚姻を命じる】


 ノクスはその文面を三回目で追った。左から見ても右から見ても、間違いなく自分の名前が書かれている。そのうえ、下部にはノクスの上司である皇帝のサインと判まで押されてしまっている。


 ノクスは眉を寄せながら、長いため息を吐いた。


「……皇帝は何を考えているんだ」


「そう気負わないでくれたまえ。貴殿のことは私が生涯をかけて幸せにしてみせよう!」


「僕に人生を懸けないでくれ」


 ノクスは不機嫌な声で返し、艶やかな黒髪をくしゃりと掻き上げる。そして突きつけられている命令文書を引ったくるように奪うと、目を丸くさせているイスカに一瞥もくれずに、颯爽と部屋を出て行った。


 ──一体なぜ、平民の出である自分が、公爵家の令嬢であるイスカの婚約者に選ばれたのだろうか。


 

 イスカことイスカーチェリ・ハインブルグは、公爵家の令嬢である。


 ハインブルグ家はこのオヴリヴィオ帝国の大貴族に名を連ねており、代々息子は皇室の忠臣に、娘は妃となり皇帝の子を産んだりと、皇族とも縁が深い家だ。


 そんなイスカは社交界では“変わり者令嬢”と呼ばれている。


「──やぁ、ヴィルジール」


 柔らかな風が、イスカの透き通るような黄金色の髪を揺らす。長身なイスカはクラシカルなロングスカートがよく似合っており、上品なフリルシャツの胸元では翡翠のブローチが存在を主張するように光っていた。


 ──ヴィルジール=フォン=セオドア=オヴリヴィオ。このオヴリヴィオ帝国の皇帝であるヴィルジールは、窓から入ってきたイスカの姿を見て、手に持っていた羽根ペンを置いて立ち上がった。


「……窓から入ってくるのはやめろと、何度も言ったはずだが」


 ヴィルジールはため息混じりにそう言うと、窓の縁に手を掛けているイスカを静かに見下ろす。


「そうは言ってもね、君の執務室の外には警護の騎士がいるではないか」


「当たり前だろう。ここをどこだと思っている?」


「皇帝の執務室だね」


 イスカは「よいしょ」と室内に入ると、悪戯が成功した子供のように笑った。その姿を見たヴィルジールはまた一つため息を零したが、イスカへと手を差し出した。


「いつまでそこに這いつくばっているつもりだ」


「ははっ、すまないね。よじ登っただけで疲れてしまって」


 それはそうだ、とヴィルジールは呆れたように呟いて、イスカの手を引っ張り上げる。


 ヴィルジールの手を借りて立ち上がったイスカは、衣服の埃を落とすように叩きながら、きょろきょろと辺りを見回した。


「おや、今日はエヴァンはいないのかい?」


「エヴァンなら、茶器を取りに行ったが」


 エヴァンはこの国の宰相であり、ヴィルジールの幼馴染でもある男の名だ。どうやら今は宰相自ら厨房に出向いて、お茶の用意をしているらしい。城には何百人も使用人がいるというのに。


 イスカはくつくつと笑ってから、澄ました顔で執務机の前に戻ったヴィルジールを見遣った。


 艶やかな銀色の髪に、宝石のような青い瞳。目が覚めるほど美しい青年であるヴィルジールは、この国の皇帝だ。


 逆らうものには罰を、罪を犯した者は氷漬けに。その冷酷無慈悲な姿からついたあだ名は“氷帝”。


 ヴィルジールは誰もが恐れる男だが、イスカにとっては幼馴染の一人だった。


「聞きたいことがあって来たんだ」


 イスカの爽やかな声に、ヴィルジールが書類から顔を上げる。


「何だ」


「私の願いを叶えてくれたのは、あの日の罪滅ぼしかい?」


 イスカはヴィルジールの目を真っ直ぐに見つめながら、ふんわりとした声で問いかけた。


 海よりも淡く、空よりも濃いヴィルジールの瞳に映るイスカの表情は、笑っていると言うには少し不恰好で。その理由を知っているヴィルジールはイスカから目を逸らすと、数秒の沈黙の後に硬い声で返した。


「……違うと言ったら嘘になる」


「ふふ、嘘がつけないのは相変わらずだね。……でも、ありがとう」


「お礼を言われる資格は──」


 ない、と言いかけたヴィルジールの声を遮ったのは、執務室の扉が叩かれる音だった。


「──皇帝陛下、プルヴィア様がお越しです」


 扉の向こうに立つ警護の騎士が告げたのは、イスカの婚約者となったノクスの名だ。ここへ来たということは、婚約の件で文句を言いに来たのだろう。


 イスカは苦笑を浮かべながら、窓の縁に手を掛けた。


「……窓を何だと思っている」


 ヴィルジールの鋭い眼光がイスカへと向けられる。


「私にとっては扉の一つさ。それじゃあまたね、ヴィルジール」


 イスカは爽やかに笑うと、窓の外へと飛び出していった。


 世紀の大泥棒や手練れの暗殺者ならまだしも、大貴族の令嬢が猿のような動きで窓から出ていくとは。慣れてはいるが理解に苦しむヴィルジールは、今日で何度目か分からないため息を吐いた。

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