第九章 銀盤の檻を蹴って

※視点:桐谷 朱音(フィギュアスケート)


 目を閉じる。

 音楽が流れ始めると同時に、世界が“私の時間”に変わる。


 氷の感触。冷たいはずなのに、火がついたみたいに心が熱くなる。

 ステップ、ターン、ジャンプ――すべての動きが、自分の鼓動とリンクする。


 だけど。


 「トリプルアクセル、回転不足ですね。あと少し」


 演技が終わった瞬間、コーチの冷静な声が背中を刺す。


 「……知ってる。自分でもわかってる」


 氷の上で戦っているのは、自分の“限界”だ。

 誰と比べてじゃない。“私自身”との闘い。




 控え室の鏡に映る自分は、少し泣きそうな顔をしていた。

 でも、絶対に泣かない。


 ジュニア落ち。地方予選すら通過できないスランプ。

 でも、辞めるとは一度も思わなかった。


 ただ、“勝てない理由”を自分の中に探す癖が、ついてしまっていた。




 帰り道、スマホの通知が震える。

 グループチャット。奏が送ってきたメッセージだった。


「決勝、来週の土曜。全国決まったら、俺も行く」

「お前ら、スタンドで見とけよ」


 (……あの奏が、ここまで言うなんて)


 ひとり、声が出そうになった。

 でも、出なかった。胸が詰まってた。


 全員が動き出してる。光輝も、陽翔も、奏も、澪も。

 自分も“追いついた気になってた”。ただ、それだけだった。


 (本当に、まだ夢見ていいの……?)




 その夜、朱音はリンクに戻った。誰もいない夜のリンク。


 無断練習だって、もうどうでもよかった。

 このままじゃ、立ち止まったまま。


 氷の上に立ち、音楽も照明もなしで滑り始める。


 トリプルアクセル。

 助走、踏切、回転、着氷――!


 「っ……!」


 膝をついた。もう何十回目かわからない転倒。


 でもそのとき、リンクの天井を見上げながら、なぜか笑っていた。


 (……まだ、怖いと思えるってことは)


 (諦めてないってことだよね)




 翌朝、朱音は練習のあと、スマホを開いた。


 グループチャットに、言葉を打つ。


「今週末、再チャレンジの大会に出る」

「飛べたら、また“夢見てる”って証明できる気がする」

「外すかもしれないけど、見てて。今度こそ、行くから」


 既読がひとつずつ、増えていく。


 陽翔。光輝。澪。そして──奏。


 朱音はスマホを胸に当て、深く息を吐いた。


 もう一度、銀盤に立つ意味を見つけた気がした。

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