アルディナの魔力 第一章 紅月の封印

Z.P.ILY

第一節 紅月の誘い

 薄紅色の朝日が、アーデン家の小さな庭を優しく照らしている。

 子供たちの笑い声が風に乗り、家の中からはユリオとフィリアの騒がしい声が響く。


 「コラ!ユリオ!私のポテト食べたな!」


 「知らないよ!」


 「ウソだ!無くなってるじゃないか!」


 「残しとくほうが悪いんだろ!」


 「あーーっ、最後の楽しみに残しといたのにぃぃ!」


 「ほらほら、喧嘩しないの。フィリアも。お姉さんなんだから、我慢しなさい」


 「おいおい、お姉さんだから我慢するってのは違うだろ」


 フィリアをおさめようとするアーヤにレオンが言った。


 アーヤは朝の支度をしながら、日常の幸せを感じるのが、毎日の日課だった。

 夫と二人の子供たち、何気ないけれど確かな絆に包まれていた。


 だが……その胸の奥には、昨日見た夢の残像がざわめいていた。


*****


 ――紅く染まる満月の下、碧の瞳が静かに見つめ返す。


 (……ここから出してくれ……)


*****


 その言葉だけが、暗闇の中で繰り返される。


 アーヤはそっと目を閉じ、深く息をついた。

 日常はもうすぐ、静かに壊れ始めるのだとも知らずに。


 しばらくして、柔らかい光の中、アーヤは神殿の大広間に一人立っていた。

 冷たい石床の感触が足裏に伝わり、深呼吸と共に祈りの詠唱を口にする。


 「星よ、古の契りを今一度、我が身に宿せ…」


 幾度となく繰り返してきた呪文は、彼女にとって日課であると同時に、重い責務の象徴でもあった。


ーー アーヤ・アーデン ーー

 彼女はアルディナ王国の王都アルディナで、神殿の職務にあたる神官。

 以前は巫女だったが、その力を見込まれ神職試験を経て神官となった。

 夫と子供二人を家族とし、仕事と家庭を両立するキャリアウーマン。清楚で真面目だが、心に秘めた好奇心と、誰にも言えない夢がある33歳である。

ーーーーーーーーーーーーーー


 見守るように掲げられた神殿の紋章が、薄く光を放つ。


 修行の合間に、アーヤは過去に聞いた伝説や封印の意味を思い返す。

 そして、胸の中にひそむ不安が静かに膨らんでいくのを感じた。


 神殿の静寂を破るように、遠くから乾いた鈴の音が響いてきた。

 見習いの修行僧たちが朝の祈りの準備に動き始めている。


 アーヤはゆっくりと瞳を閉じ、深呼吸を一つ。


 「今日も、無事に過ごせますように」


 小さな声で祈りながら、彼女は祭壇の前に進んだ。


 だが、その瞬間――


 祭壇の奥に据えられた封印石が、かすかに音もなく震えた。


 見間違いかと思うほどの小さな揺れだが、それでもアーヤの目は逃さなかった。


 「気のせいかしら……」


 空気がひやりと変わる。


 「あの石、いま動いたような……」


 まるで見えない何かが神殿の奥から這い出してくるような、不快な圧がじわじわと肌を這った。


 (……トクン……)


 心臓がひとつ、跳ねる。


 血の巡りが耳鳴りとなって押し寄せ、喉の奥で声が凍りついた。


 「……何かが……おかしいわ……」


 口にした言葉は、誰にも聞かれぬほどの小さなささやきだった。

 それでもその言葉は、確かな実感となって彼女の中に沈む。


 そのとき――


 神殿の重い扉が音を立てて開いた。


 石造りの床に、重く確かな足音が響き始める。

 低く、ゆっくりと、神殿の静寂を切り裂くように。


 アーヤの背筋はかすかに強張った。


 昨晩みた夢の不吉な感覚が、まだ胸の奥に残っていた。

 

 だが、振り返ってみると、そこに現れたのは、普段から見慣れた顔だった。


 「……グレイ副長」


 整えられた黒髪に年季の入った法衣をまとった男が、静かに近づいてくる。

 その瞳には冷静な知性が宿り、ただの巡回でないことがすぐにわかる。


 「いつも朝早くからご苦労さま」


 グレイの声は低く、穏やかだが、どこか探るようでもあった。


 「はい。でも、今日は少しだけ早く目が覚めてしまって…」


 アーヤは慌てて姿勢を正し、微笑みを浮かべて応じた。

 だが、その頬の緊張を彼が見逃すはずもなかった。


 グレイは祭壇の奥へ目をやり、わずかに眉をひそめる。


 「……封印石、何か気づいたか?」


 いきなり確信をつかれ、アーヤの呼吸が止まりかけた。


 「あ、はい……あの石が少し動いたような気がして……」


 グレイは続ける。


 「本殿だけじゃない。南の小神殿でも、昨夜、同じような微細な反応があったそうだ……封印の効力が弱まってるのかもしれん」


 その言葉に、アーヤの胸の奥で昨夜の夢がざわめいた。


 ーー 紅い月、碧い瞳 そしてあの声 (ここから出してくれ…)ーー


 彼女は何も言わず、ただ静かに首をゆっくり左右に振った。


 「……いや、気のせいだったかもしれません」


 グレイは、彼女の気持ちを察したのか、それ以上の詮索はせず、ただ一言だけ残して踵を返した。


 「……用心するんだ、アーヤ」


 扉が閉まる音だけが響き渡り、再び神殿の大広間には静寂が戻る。

 だが、その静けさは、もう以前と同じではなかった。


 夜。アーヤは子供たちを寝かしつけ、夫の穏やかな寝息を聞きながら、自分も深い眠りへと沈んでいった。


*****


 ——暗闇。


 霧のように霞む空間に、ただ一つだけ、紅く染まった月が浮かんでいる。


 その光は温かくも冷たく、心を掻き乱すような奇妙な静けさを纏まとっていた。


 「また…この夢……?」


 アーヤは自分の足元が宙に浮いているような感覚を覚えた。

 どこかへ引き寄せられるように、視界が紅い月の中心へと向かっていく。


 月の中心を捉えた瞬間、逆回しのフィルムのように一瞬で霧が晴れた。


 そこには——両手を鎖で縛られ、膝をつくひとりの男がいた。


 銀白の髪。碧の瞳。


 そして、ただならぬ気配が空間を満たしている。


 「……ようやく、来たか。」


 ゆっくりと顔を上げ、瞼の奥のその瞳が、アーヤを真っ直ぐに見つめた。


 心臓が跳ねる。


 「……誰?あなたはいったい誰なの?」


 「お前の中にいる“彼女”は、まだ目覚めていないようだな……」


 低く、艶のある声が空気を震わせた。


 「けれど、お前は……同じだ。何も変わらない。あの時と……」


 「……何を言ってるの?何のこと?」


 アーヤは金縛りにあったかのように立ちすくみ、ただ彼を見つめて言った。


 その姿は恐ろしいほどに美しく、けれどどこか、哀しみに満ちていた。


 「私は……誰なの……?、そして……あなたは誰?……」


 思わず漏れた言葉に、男は疲れた様子で微かに微笑んだ。


 「お前は……“契り”を交わした者。あの夜、紅い月の下で。」


 彼が手を差し出しかけた、そのとき——

地鳴りが響いた。


 空が裂け、紅月が粉々に砕け、無数の光が降り注ぐ。


 「……目覚めの時は近い。だが、まだだ。

この世界がそれを許さない。」


 彼の声がかき消される寸前、アーヤの耳に最後の一言が届いた。


 「次に会う時……契約は果たされる。」


 その瞬間、彼の姿も、紅月も、全てが眩い光に呑まれた。


 「ま、待って!」


*****


 アーヤは勢いよく目を覚ました。

 胸が苦しいほどに高鳴っている。

 横たわっているベッドから上体を起こし、隣にいるレオンの横顔を眺める。


 窓の外では、雲間に覗いた月が、わずかに紅く染まっていた。


 アーヤは眠りにつくまで時間を要したが、いつのまにか深い眠りに引き込まれていた。


 部屋には、朝の光が柔らかく差し込んでいた。


 アーヤは冷たい汗を額に感じながら、重くなったまぶたを無理やり押し上げた。


 「ふぁぁぁぁぁーーっ」


 「あの夢のおかげで眠れなかったわ……起きなきゃ……」


 アーヤは小さくつぶやき、ゆっくりと身を起こした。


 夢の残像はまだ瞼の裏に焼きつき、心臓の鼓動だけが現実を刻んでいる。


 「それにしても、あの夢……」


 カーテンの隙間から射す陽光が、薄紅色の空をゆっくりと黄金色に変えつつある。

 まるで、夢で見た紅い月の名残を洗い流すかのように。


 「……考えても仕方がないわ。」 


 はっきりしない寝起きにもかかわらず、階下から子供たちの声が弾けた。


 「ママー!ユリオがまたパン落としたー!」 


 「フィリアが牛乳こぼしたーっ!」


 それに反応するように、どこか焦った声のレオンが呼びかける。


 「アーヤッ、大丈夫か?……おはよう!……朝ごはん、ちょっと…手伝ってくれると助かる…!」


 アーヤはいつもの感じに安堵しながらも、一瞬、夢の中の男の声を思い出して、胸に手を当てる。


――「契約は果たされる」


 夢とは思えないあの言葉が、なぜこんなにも心に重いのか。


 しかし次の瞬間、階下からふたたび笑い声と騒ぎ声が響き、アーヤは日常の朝の空気にそっと微笑んだ。


 「おいおい、二人ともいい加減にしてくれよ!」


 レオンの声が響き渡る。


 ここは私の家。現実はまだここにある。確かに、この手の中に。


「はいはい、いま行きますよ。」


 アーヤはベッドから立ち上がり、胸のざわめきを胸の奥にしまい込んでから、階段を下りていった。

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