不器用な私を、今日も神崎くんが困らせる

ちょむくま

本編

朝の教室には、春の光が差し込んでいた。窓際のカーテンがふわりと揺れて、その隙間から見える桜の花びらが、どこか現実よりもゆっくり落ちている気がした。


「次の席順、黒板に貼ってあるぞー!」


教室の前で担任が言う声に、クラス中が一斉にざわつく。みんなが笑いながら立ち上がる中、私は少しだけ遅れて席表を見に行った。人混みを避けながら、そっと黒板に貼られた紙を覗き込む。


朝倉ひなた。


そしてその隣には、はっきりと書かれていた。


神崎蓮。


一瞬、心臓が変な跳ね方をした。思わずもう一度確認する。間違いじゃない。私の名前の右隣に、確かに神崎蓮とある。


「うわ、マジで隣かよ!」


背後から聞こえた声に、思わず振り返る。そこには、例の本人⋯⋯神崎くんが立っていた。明るい茶髪に軽く笑った目。制服のネクタイが少し緩んでいて、それがまた神崎蓮らしい。


「よろしくな、朝倉!」


「……う、うん」


うまく返せない。喉の奥で声が詰まって、変に間が空いてしまう。そういうところが、私のダメなとこだ。


席替えが終わって、私は窓際の席に座る。隣には、当然のように神崎くん。彼は机の上に頬杖をつきながら、ニコニコとこちらを見てくる。


「なぁ、朝倉ってさ、普段あんまり喋らないよな?」


「え、あ……そうかな」


「うん。なんかクールっぽい」


クール。そう言われるのは、これで何回目だろう。本当はそんなかっこいい性格じゃないのに。人前だと緊張して、何を言えばいいかわからなくなるだけなのに。


「クールっていうか……その、うまく喋れないだけ」


思わず口からこぼれた言葉に、神崎くんが目を瞬かせた。


「へぇ、そうなんだ」


そう言うと、彼はふっと笑った。悪意のない、けれどどこか人をからかうような笑み。


「じゃあさ、俺が練習台になってやろっか」


「えっ?」


「会話の。練習」


何それ。意味がわからない。けど、神崎くんの中ではもう決まったことみたいに、彼は勝手に話しかけてくる。


「最近ハマってるものとかある?」


「え、あ……うーん、特に……」


「じゃあ俺、ひなたの好きな食べ物当てる!」


「い、いや、そういうのは⋯⋯」


「カレー!」


「ちがう。」


「オムライス!」


「ちがうってば。」


「んじゃあ……プリン」


「……正解」


「マジで!? 俺、エスパーじゃね?」


「たまたまでしょ」


思わず小さく笑ってしまう。自分でも意外だった。彼のペースに巻き込まれてるのに、不思議とイヤじゃない。


放課後。机を片付けようとしたとき、神崎くんがまた話しかけてきた。


「今日さ、ノート貸してくれてありがとな」


「ううん、別に……」


「でもさ、俺字汚いから、朝倉のきれいな字見てるとプレッシャー感じるわ」


「そ、そんなことないよ」


「あるある。俺の字、鳥が暴れたみたいだもん」


思わず吹き出した。その瞬間、神崎くんが少し驚いた顔をして、次の瞬間には嬉しそうに笑った。


「今、笑った?」


「え、あ……ごめん」


「謝るなって! ひなたが笑うと可愛いじゃん」


……え?


脳が一瞬フリーズする。顔がじわじわ熱くなっていくのが分かった。目をそらして「そ、そういうのやめて」

と言おうとしたけれど、声が出ない。


「おーい、顔真っ赤。もしかして照れた?」


「な、なんでそんなこと言うのっ!」


「んー、ひなたが分かりやすいから。」


笑いながら彼は教室を出て行った。私はひとり取り残されて、机の上で小さくため息をついた。


……困る。ほんとに困る。


でも、ちょっとだけ⋯⋯心が温かい。



放課後の帰り道、夕焼けに照らされた校舎を見上げながら、私は思った。


神崎くんって、どうしてあんなに人の懐に入るのがうまいんだろう。きっと彼の周りには、笑顔が自然と集まってくる。私とは正反対のタイプだ。


でも⋯⋯だからこそ、少しだけ気になるのかもしれない。


風が頬を撫でる。桜の花びらが、制服の袖にひとひら落ちた。


私はそれをそっと指先でつまんで、空に透かしてみた。


この春、何かが変わる気がする。


そんな予感だけが、静かに胸の奥で灯っていた。



放課後の風は、昼間より少し冷たかった。モールの自動ドアが開くたびに外気が流れ込み、髪がふわっと揺れる。そのたびに、隣を歩く神崎くんがちらりと私を見て、なぜか笑う。


「なに?」


「いや、髪。なんか、風に合わせて動いてるのが、映画みたいだなって」


「そんな大げさな……」


「ほんとだって」


彼は軽い口調で言うけれど、目は本気だった。私の中で何かが、静かに熱を帯びる。どうしてこの人は、こんなにも簡単に人の心を揺らすんだろう。


買い物を終えたあと、駅へ向かう道。夕焼けがビルの隙間から差し込んで、オレンジ色の光が二人の影を長く伸ばしていた。


「ひなたってさ、普段、誰と帰ってるの?」


「え? ひとり」


「やっぱり」


「やっぱりってなに?」


「んー、なんかそんな感じする」


「悪い意味?」


「いい意味。落ち着いてるし、一緒にいると静かになるっていうか」


「それ、地味って言ってる?」


「違う違う! 癒やされるってこと」


思わず顔をそむける。なんでこう、いちいち恥ずかしいことをさらっと言えるの。ほんとに困る。


「ねぇ、神崎くん」


「ん?」


「……私のこと、からかってる?」


「本気だよ」


一瞬、心臓が止まりそうになった。けれど彼は、いつものように笑って手をひらひらと振った。


「……って言ったら信じる?」


「もう!」


笑って歩き出すと、彼が小走りで追いかけてきた。


「ごめんごめん! 本気半分!」


「半分てなにそれ!」


「だって、からかうのも本気なんだよ」


言ってることはよくわからないのに、妙に説得力がある。そんな彼のペースに飲まれて、気づけば駅前に着いていた。


「じゃ、また明日」


「うん」


改札を抜ける前、彼が少しだけ真面目な声で言った。


「今日、ありがとな。楽しかった」


「……うん、私も」


それだけで、なんだか胸がいっぱいになった。


夜。ベッドの上でスマホを見つめる。メッセージアプリの画面には、今日神崎くんと交換したばかりの連絡先が光っていた。打ちかけては消す。何度もやって、やっと送ったのは短い一言。


『今日はありがとう』


送信した瞬間、心臓がドクンと鳴る。数秒後、すぐに返信がきた。


『こちらこそ!また付き合ってもらうからよろしく!』


『……何を?』


『会話の練習』


思わず笑ってしまう。ほんとに、懲りない人だ。


スマホの画面を伏せて、天井を見上げる。今日の空気の温かさが、まだ少し残っている気がした。


翌週。教室は文化祭の話題で持ちきりだった。黒板に大きく書かれた『星空喫茶』の文字。班ごとに分かれて、装飾やメニューの準備が進んでいく。


「朝倉、これ頼んでいい?」


神崎くんが、星形の紙を渡してくる。


「なにこれ?」


「願いごとを書くんだって。飾り用」


「へぇ」


ペンを持って、少し迷う。願いごとなんて、子どものころ以来書いてない。


『もっと上手に人と話せるようになりますように』


そう書いてこっそり星を折りたたんだとき、神崎くんが覗き込んできた。


「なに書いたの?」


「ひ、秘密」


「えー、気になるー」


「見せないってば!」


取り上げようとする手をかわして、慌てて星を胸に抱える。けれど、彼の指が一瞬私の手に触れて、息が止まった。


「……ごめん」


「い、いいけど……」


手のひらの温度が、いつまでも消えなかった。


昼休み。神崎くんが机を寄せてきて、サンドイッチを半分差し出す。


「はい、ひなたも食べなよ」


「え、いいよ。自分のあるし」


「いいから。これ、めっちゃうまいやつ」


結局受け取って、一口かじる。ふわふわのパンと卵の味が広がった。


「……おいしい」


「だろ? 俺、これ作ったんだぜ」


「うそ」


「ほんとほんと。見た目だけで判断しないように」


「う、うん……でも、すごいね」


「ひなたも今度作ってよ。弁当交換しよ」


「ええっ!?」


「冗談。……半分本気だけど」


「またそれ!」


笑いながら、気づけばいつの間にか距離が近づいていた。彼の笑顔が近い。心臓がまた忙しく跳ねる。


放課後。教室に残って、飾りの星を吊るしていると、神崎くんが脚立の上から声をかけた。


「ひなた、テープ取ってー」


「はい」


手を伸ばした瞬間、バランスを崩した神崎くんがぐらりと揺れた。


「危ない!」


咄嗟に支えようとした私の腕を、彼が掴む。二人してそのまま床に倒れ込んだ。


「いっ……たた」


「ご、ごめん!大丈夫!?」


神崎くんの顔が目の前にある。距離、近すぎる。息が詰まるほどに。


「ひなた」


「な、なに?」


「……顔、赤い」


「当たり前でしょ!」


思わず叫ぶと、彼が笑いながら立ち上がる。私も慌てて立ち上がり、埃を払った。


「いやー、助かった。ありがとな、ひなた」


「もう……気をつけてよね」


「はいはい。……でも、こうして助けてもらうのも悪くないかも」


「もうっ!」


彼の笑い声が、夕陽の中に溶けていった。


その日の夜。ノートを開いたまま、私はペンを止めた。胸の中に残るざわめきが、どうしても消えない。


神崎くんの笑顔。ふいに真剣になる横顔。どれも、まぶしくて。


不器用な私は、きっとまた明日も彼に困らされるんだろう。でも。

少しだけ、それが楽しみになっていた。



放課後のチャイムが鳴る。

ガヤガヤと帰り支度をするクラスメイトたちの声が、少し遠くに聞こえた。


私は黒板の端で、文化祭の飾り付けのチェックリストを見ていた。

もうすぐ完成だ。星空喫茶の飾りつけは、思っていたよりもずっと綺麗に仕上がっている。

クラスの誰もが楽しそうで、その中で自分もちゃんと役に立てているのが、ちょっと嬉しかった。


「おーい、朝倉。これどこ貼る?」


声をかけてきたのはもちろん神崎くん。

手には銀色の紙で作った星のオーナメントを持っている。


「それ? 黒板の上に……もう少し左」


「ここ?」


「うん、そこ」


神崎くんは、片手で脚立を支えながらもう片方の手で器用に貼り付けていく。


いつも軽く見えるけど、実はちゃんと真面目なところもある。

その横顔を見ていると、胸の奥がじんわり温かくなった。


「なに、そんな見て。俺、顔に何かついてる?」


「べ、別に!なんにもない!」


「ふーん?」


意味ありげな笑みを浮かべて、また星を貼る。

その仕草一つひとつが、どうしてこんなに気になるんだろう。


片付けが終わったのは日が落ちる頃だった。

教室の窓から差し込む光はすっかりオレンジから群青に変わっている。


「もう帰る?」


神崎くんが机に肘をつきながら、私を見る。


「うん。でも、ちょっとだけ⋯⋯黒板消してから。」


「手伝う」


神崎くんはすぐに立ち上がって、黒板消しを持った。

でも、なぜか手元が滑ってチョークの粉を私のほうに飛ばしてしまう。


「ちょっ……!」


「わ、悪い!」


彼は笑いながらハンカチで私の制服の肩を軽く叩く。


「だ、大丈夫だから!」


思わず一歩下がる。距離が近くて、息が詰まる。


「……ひなた」


その声が急に真面目で、空気が変わった。

私の名前を呼ぶときだけ、彼の声は少し低くなる。

それがずるいくらいに優しい。


「いつも思うんだけどさ。ひなたって、誰かに無理してない?」


「え……?」


「なんか、頑張りすぎてる気がする。会話とか、リアクションとか。……ちゃんとしなきゃって思ってるでしょ。」


ドキリとした。

そんなこと、誰にも言われたことがないのに。

どうしてこの人は、こんな簡単に見抜くんだろう。


「……そう見える?」


「うん。でもさ、俺は不器用なひなたのほうが好きだよ」


「⋯⋯え?」


笑いながら言うけど、目だけは冗談じゃなかった。


私は息をのんだ。

その一言が、胸の奥でずっと響いて消えなかった。


翌朝。

学校に行くと、クラスの空気がどこかざわざわしていた。


「ねぇ、聞いた?神崎くん、昨日駅前で別のクラスの子といたらしいよ」


「しかも、手つないでたって!」


「えー!やっぱりあの子と付き合ってたんだー」


その言葉が耳に入った瞬間、心臓が小さく跳ねた。

知らないはずの痛みが、胸の奥に広がる。


⋯⋯別に、関係ない。

そう思おうとするのに、喉の奥が苦しくなる。


「おはよー、ひなた」


神崎くんの声。

いつもと同じ明るさで、いつも通りの笑顔。

でも、見ていられなかった。


「……おはよう」


短く返すだけで精一杯だった。


その日の放課後。

私は一人で帰ろうとしていた。

下駄箱で靴を履き替えたところに、神崎くんが現れる。


「おーい、なんで待っててくれないの」


「……今日は用事あるから」


「そうなんだ〜」


一瞬だけ、彼の顔に陰が落ちる。

でもすぐに笑顔に戻って、


「じゃあまた明日な」

と軽く手を振って去っていった。


その背中を見送りながら、胸の中がぎゅっと縮んだ。

何かを言えばよかった。

でも、何を言えばいいのかわからなかった。


その夜。

机の上のノートを見つめていると、スマホが震えた。


『今日、なんか怒ってた?』


神崎くんからのメッセージ。


指が止まる。

どう答えればいい?


「怒ってないよ」って送るのは嘘だ。


でも「怒ってる」なんて言えるほどの立場じゃない。


結局、こう打った。


『ちょっと疲れてただけ。ごめんね』


すぐに返ってきた。


『そっか。無理すんなよ』


『明日、朝いっしょに行こ?』


画面を見ながら、涙がにじんだ。

優しい言葉ほど、今はつらかった。


翌朝。

待ち合わせ場所に行くと、神崎くんはいつもの笑顔で立っていた。


「おはよ」


「おはよう」


一緒に歩く道。沈黙が続く。


やがて、神崎くんがポケットからイヤホンを取り出した。


「片方、どうぞ」


「え?」


「音楽、聴く?最近ハマってるやつ。」


差し出されたイヤホンを、少し迷ってから受け取る。

耳に入るのは、穏やかなギターの音と、優しい歌声。


『きっと言葉より、隣にいることが答えになる⋯⋯』


その歌詞を聴いて、ふと顔を上げた。

神崎くんがこっちを見て、静かに笑った。


「……やっぱ、これ聴くとひなたのこと思い出す」


「な⋯⋯なんで?」


「なんとなく。言葉少ないけど、ちゃんと伝わる人だから」


そう言って前を向く彼の横顔を見て、

胸の中にあったモヤモヤが、少しだけ溶けていくのを感じた。



文化祭当日の朝。

いつもより早く目が覚めた。

胸がどきどきして、眠れなかったのだ。


制服の上に白いエプロンを着けて鏡を見る。

リボンが少し曲がっていて、何度も直す。


「もう……落ち着け、私」

小さく深呼吸して、玄関を出た。



校門の前は、すでにたくさんの人で賑わっていた。

屋台の準備、音楽、笑い声。

いつもの学校がまるで違う場所みたいにきらきらして見える。


教室に入ると、星のオーナメントが天井いっぱいに吊るされていて、

まるで本当に夜空の中にいるみたいだった。


「おっ、朝倉!似合ってるじゃん、エプロン!」

神崎くんが笑いながら手を振る。

白シャツに黒のベスト姿。いつもよりちょっと大人っぽく見えた。


「そ、そう? ありがとう」


「なんかさ、今日のひなた、緊張してる顔も可愛いんだけど」


「も、もう……そういうのやめて!」

耳が熱くなって、思わず顔をそむけた。


開店時間。


「星空喫茶」には最初から行列ができていた。

メニューはドリンクと軽食だけだけど、装飾の綺麗さと雰囲気でみんな盛り上がっている。


「いらっしゃいませ!」


声を合わせる練習をしたのに、いざとなると噛みそうになる。

でも、隣で神崎くんが小声で

「大丈夫、落ち着いて」

って囁くから、なんとか笑えた。


ひなたの笑顔に、他のクラスの子たちが

「え、あの子可愛い」

「誰?」

なんてひそひそ言ってるのが聞こえて、なぜか神崎くんが得意げに笑っている。


お昼過ぎ。

休憩時間になって、私は廊下の端で水を飲んでいた。

そのとき。


「神崎くん!」


明るい声がして、見上げると別のクラスの女の子が走り寄ってきた。

昨日噂になっていたあの子だった。


彼女は神崎くんの腕を軽くつかんで、笑顔で何かを話している。

神崎くんも笑って答えていた。

⋯⋯あの日の噂、本当だったのかな。


心の中に、またモヤモヤが広がる。

その場から離れようとして、彼と目が合った。


一瞬、神崎くんの表情が変わった。

でも私は、そのまま廊下を歩き去った。


夕方。

文化祭も終盤。


私は裏方で片付けをしていた。


笑い声が遠くに響く。

でも自分の心だけ、少し取り残されたようだった。


そこに、神崎くんが入ってきた。


「ひなた、さっきから探してた」


「……どうしたの?」


「さっき、俺のこと見てたよな」


「べ、別に……」


「勘違いしてるなら言っとくけど、あの子とはなんもない」


「……ほんとに?」


「ほんと。俺、そういうの興味ないし」


少し笑って言うけど、その目はまっすぐだった。


「じゃあ、なんであんなに楽しそうに⋯⋯」


「……だって、ひなたが見てたから」


「え?」


「見てたら、少しでも笑わせたくなるだろ」


息が止まった。

何も言えなくて、ただ彼を見つめた。


「……ほんと、不器用だな」

神崎くんが微笑む。


「でも、俺もそうかも」


その夜。

文化祭のフィナーレ、校庭での打ち上げ。

みんなで花火を見ながら笑っていた。


「ひなた!」


神崎くんが手を振って近づいてくる。

その手に持っていたのは、ひとつの星形の紙。


「これ、ひなたが書いたやつだよな?」


「え!?どこでそれを!」


「片付けしてたら見つけた。もっと上手に人と話せるようにってやつ」


「み、見ちゃだめ!」


「ごめん。でも、ひなたはもう叶ってると思う」


「え?」


「ちゃんと話せてる。俺と」


夜空に花火が広がる。

その光に照らされた神崎くんの横顔が、本当に、星みたいに綺麗だった。


「なぁ、ひなた」


「……なに?」


「今日、言いたいことあるんだ」


神崎くんが一歩近づく。

その距離が、静かに、でも確かに縮まっていく。


「俺さ、ひなたのこと⋯⋯」


パンッ!!


大きな花火の音が空を裂いた。

声がかき消される。

でも、彼の唇が好きだって形に動いたのを、確かに見た。


胸の中で、何かが爆ぜるように温かくなった。


「……いま、なんて言ったの?」


「聞こえなかった?」


「うん」


「じゃあ、また言うよ」


彼は笑って、夜空を見上げた。


「星が消えたら、ちゃんと伝える」


花火が終わり、校庭が静けさを取り戻す。

星がひとつ、またひとつ、空に戻ってくる。


その下で、私と神崎くんは並んで立っていた。

誰もいない、静かな時間。


「……今なら聞こえる?」


「うん」


「ひなた。俺、君が好きだ」


その言葉は、夜風よりも優しくて、胸の奥に、まっすぐ届いた。


私の答えはまだ言えなかったけど、

それでも笑えた。


「……困ったな」


「なんで?」


「また、神崎くんに困らされた」


二人で笑った。

夜空に浮かぶ星々が、まるで拍手をしてくれているみたいだった。



文化祭が終わってから、数日が過ぎた。

賑やかだった教室も、いつもの日常を取り戻している。

けれど私の心だけ、まだどこか浮いていた。


あの夜、神崎くんが言った「好きだ」という言葉。

あれからちゃんと話していない。


廊下ですれ違うたび、目が合って、お互い少し照れて笑って、それだけ。


(あのときの答え、ちゃんと伝えなきゃ⋯⋯)


そう思いながらも、勇気が出なかった。


昼休み。

クラスメイトがワイワイとお弁当を広げる中、

私は屋上への階段で一人、空を見上げていた。


「ひなた、ここにいたのか」


神崎くんの声がした。

びっくりして振り向くと、彼が紙パックのジュースを二つ持って立っていた。


「見つけた」


「……なんでここに?」


「なんとなく。ひなた、考えごとするときここ来るでしょ」


「え、なんで知っ⋯⋯」


「観察力なら自信あるんで」


そう言って、隣に腰を下ろす。

風が吹いて、二人の制服の袖がかすかに触れた。

それだけで心臓が跳ねる。


「……あのさ」


「うん?」


「文化祭の夜のこと、覚えてる?」


「覚えてるよ」


神崎くんの声が、少しだけ柔らかくなった。


「……ちゃんと聞こえなかったんだよね、あのとき」


「うん」


「じゃあもう一回言う」


彼は笑わなかった。

まっすぐに、私の目を見て言った。


「俺、ひなたが好きだ」


言葉が、空気を震わせる。

心臓が痛いくらいに高鳴って、

でも不思議と、怖くはなかった。


「……私、そんなに上手に返せないよ」


「いいよ。不器用なひなたが好きだから」


その言葉で、泣きそうになった。

今までの不安も、迷いも、全部やわらかく溶けていくみたいで。


「……ありがとう」


「それって、返事?」


「うん」


「やった」


笑いながら、神崎くんが両手を広げた。

思わず笑ってしまう。

そんな無邪気なところも、ずるいと思う。


それからの日々は、少しずつ変わっていった。

朝、一緒に登校することが増えて。

休み時間、くだらないことで笑って。

帰り道では、手を振るだけでも心が温かくなった。


けれど。

恋は、ただ甘いだけじゃなかった。


ある日、放課後。

神崎くんが珍しく真剣な顔で言った。


「ひなた、俺、来月から引っ越すんだ」


「……え?」


「親の転勤。急に決まって」


頭の中が真っ白になった。

そんな、嘘でしょ。

やっと素直になれたばかりなのに。


「……遠いの?」


「新潟」


「そんなに……」


沈黙。

時間が止まったみたいだった。


「でも、別れようとは思ってない。」


神崎くんがきっぱり言った。


「俺、ひなたとちゃんと続けたい。離れてても」


「……でも、私、不器用だから。上手くやれないかも」


「不器用なままでいい」


彼は笑った。


「そのままのひなたが好きなんだから」


涙がこぼれそうになって、慌ててうつむく。

でも、彼の手が優しく頭をなでた。


「泣くな。泣いたら俺も泣く」


「な、泣いてないし!」


「うそ。めっちゃ泣いてる」


二人で笑った。

涙混じりの笑い声が、夕陽の廊下に響いた。



それから一週間。

神崎くんの引っ越しの日は、思っていたよりも早く来た。


教室の机の上には、神崎くんの名前がまだ残っている。

そこに貼られていた、星形の小さなシール。


「ここ、残しとこうよ」


って彼が言ってたのを思い出す。

まるで彼の跡みたいに、それだけがそこにあった。


「送らなくていいの?」


放課後、友だちに聞かれて私は首を振った。


「行くと……泣くから」


それでも、結局⋯⋯私は足が駅に向かっていた。


夕陽の光が差し込む道。

見慣れた背中が、そこにあった。


神崎くんは大きなキャリーケースを引いて、ホームの方を見ていた。


「……ひなた」


振り向いた彼が笑う。

ああ、いつもみたいに笑ってる。

でも、その目は少し赤かった。


「来てくれると思ってた」


「……最後くらい、ちゃんと困らせに来たから」


「はは、そう来るか」


静かな駅のホームで、アナウンスの声が遠くに響く。

電車が来るまで、あと数分。

なのに、言いたいことが多すぎて、言葉が出ない。


「……ひなた」


「なに?」


「これ、預かって」


渡されたのは、小さなノートだった。

表紙には、星のシールが貼ってある。


「話したいこと、書いた。読んでくれたら嬉しい」


「うん……」


「俺、ほんとにひなたのこと好きだよ」


言葉がまっすぐ届いて、喉の奥が詰まる。

電車が入ってくる音がして、風が吹いた。

ひなたの髪が揺れる。


「行ってくる」


「……うん」


「でも、また戻ってくるから」


「⋯⋯待ってる」


彼が乗り込む。ドアが閉まる。

動き出す電車の窓から、彼が手を振った。

涙が視界をぼやかして、世界が滲む。


それからの日々。

毎日、神崎くんのノートを少しずつ読んだ。


そこには、いつもの彼らしい文字で、

『今日もひなたの反応が可愛かった』

とか、

『授業中、ひなたが寝そうだったからメモで起こした』

とか。


くだらないことも、優しい言葉も、全部詰まっていた。


最後のページだけ、空白だった。

たぶん⋯⋯続きを書くのは私の番なんだと思った。


一年が過ぎた。

季節はまた春。

私は少しだけ変わっていた。

人と話すのも、前より少しだけ上手くなった。

笑うことが自然になった。


でも、どこかで、あの笑顔を探していた。


四月のある日。

放課後の校門前で、誰かが呼んだ。


「⋯⋯ひなた」


振り向く。

そこに、見慣れた顔があった。


神崎くん。

少し髪が伸びて、背が高くなっていた。

でも、笑い方はまったく変わっていない。


「ただいま」


涙が勝手にこぼれた。

言葉より先に、気持ちがあふれてしまう。


「……もう、遅いよ」


「遅くなってごめん。でも、ちゃんと帰ってきた」


「また困らせに?」


「もちろん」


笑いながら、彼がポケットから何かを取り出す。

それは、小さな星形の紙だった。


「今度は俺の番。願い事、書いた」


「なに?」


「ひなたがこれからも笑ってくれますように」


「……ずるい」


「でしょ?」


二人で笑った。

夕陽の下、風がやさしく通り抜ける。

星がひとつ、まだ見えない空に光り始める。


「ねぇ、神崎くん」


「ん?」


「私、もう不器用じゃないよ。」


「うそ。今もちゃんと、不器用だよ。」


「え、なにそれ!」


「でも⋯⋯そんなひなたが、やっぱり可愛い。」


「もうっ!」


笑い合う声が、校門の向こうへ響いていく。

春の風が頬を撫でて、どこかで桜が舞った。

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