第3話 闇の精霊

 久しぶりにやってきた王立図書館の空気を、セシリアは思い切り吸い込んだ。この場所に立ち込めている古いインクの匂いが好きだ。


 いつもの席にルーカの姿を確認して、セシリアはそっとその斜め向かいに座る。

 するとルーカは席を立ち……何故か、セシリアの隣に座り直した。


 こんな事は初めてで、セシリアの脈拍数は一気に跳ね上がった。

「グイドと婚約したって聞いたよ」

 ルーカがいつもの無表情で、小声で尋ねる。

「……はい」

 ズキン、という胸の痛みを堪えて、セシリアは答えた。


「グイドのことが好きなの?」

 更に尋ねてくるルーカの琥珀色の瞳を見てしまって、セシリアの胸が締め付けられるように痛む。


(好きなのは、ずっと一人)


「……どうしてそんなに、泣きそうなんだ」

 胸が詰まって答えられずにいるセシリアに、ルーカは困ったように微笑んだ。

(……っ!!)

 ルーカが初めて見せた微笑みに、セシリアは全てを忘れて見惚れた。



   ☆☆☆



 彼女の存在に気付いたのは、もうずっと前のことだ。公爵位を継いで王都で暮らし始めた頃、仕事の合間に王立図書館で本を読むようになった。


 通い始めてしばらくして、席に着いて本を夢中で読む彼女を見かけた。口元に小さな微笑みを浮かべながら頁を繰る彼女が気になって、向かいの席に座ってみた。


(人はこんなに集中できるものなのか)

 本の虫、という言葉が浮かぶ。彼女は貪るように本を読む。


 本以外のものはまるで見えていないようで、彼女がこちらを見てくれる事はなかった。

 それから何度も、彼女のそんな姿を見かけた。

 いつからか、自分達は決まって斜向かいの席に座るようになった。


 言葉が無くても流れる静かで温かな時間が、ルーカにとっては何物にも代えがたく大切な時間だった。



   ☆☆☆



 『聖樹』は順調に育っていたが、アリーチェはやはりどこにもその気配を感じなかった。


(守りたい、優しさMAXのあの笑顔)

 図書館で自分に向けられたルーカの困ったような笑顔を何度も思い出しては噛み締めて、セシリアはアリーチェ探しに一層精を出した。

 ルーカは牢に囚われていい人じゃない。


 ディアマンテ王宮恋物語の中に、主人公アリーチェに関する情報はあまり無かった。

「庶民」「茶色の髪」「サファイアのような青い瞳」「明るく優しい性格」「王宮に召し上げられる前は王都で一人暮らしをしていた」くらいだ。 


 王都の広さ、人の多さには挫けそうになるが、ルーカのためならとセシリアは地道な捜索を続けていた。

 そして、『闇の精霊』の噂を耳にした。


(闇の精霊……闇の精霊……)

 王都の広場にあるベンチに座り、セシリアは必死で記憶を辿る。ディアマンテ王宮恋物語に『闇の精霊』などいただろうか?


(うーーん……あ、そうだ)

 こういう時こそ、知識と謀略に長けたルーカに相談するのが良い。

 セシリアはベンチから勢いよく立ち上がり、王立図書館に向かって歩いていった。


 その手を誰かが掴んだ。

「セシリア!」

(えっ……)

 驚いて振り返ると、そこにはグイドが表情を曇らせて佇んでいた。いつの間に近くにいたのだろう。

「グイド様」


「セシリア。今どこに行こうとしていた」

 問い詰めるようにグイドが尋ねる。

「王立図書館に行こうと思っていました」

 セシリアの手を握るグイドの手に力が入り、痛みが走る。


「分かってると思うけど言っておくぞ。お前は、俺の婚約者だ」

「……分かってます」

「なら今後図書館通いはやめろ」

「ま、待ってください! 何でそんな話に……!?」


 グイドは冷たい瞳でセシリアに告げた。

「お前が図書館でルーカと会ってるのは知ってんだよ」

 セシリアは息を呑んだ。

「頼む。約束してくれ……」


 グイドの瞳は必死で、セシリアは断りきれない。

(『聖樹』の世話の時、ルーカ様に相談しよう)

 しかし、そのセシリアの願いは叶わなかった。



   ☆☆☆



 『聖樹の乙女』セシリア・ファルネーゼが王都から忽然と姿を消し、王宮は騒然としていた。

 彼女の婚約者であるグイドの取り乱し様は酷かった。


 地の公爵ルーカは一人、セシリアが消えたという王都の街へ足を向けた。

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