第2話 「返信は明日。業務時間内で」

 昼前の店内は、匂いの層が厚い。

 濡れた葉の青、茎の切り口の白、開きかけの百合の甘さが、音のない砂時計みたいに積もっていく。

 レジの横では小ぶりの扇風機が低速で回っており、風は花弁を揺らすほど強くないくせに、紙の束の角だけをかすかにめくる。


 雨宮ひよりは、カード立ての中に昨日作ったテンプレを差し直した。クラフト紙の角を軽く指で弾くと、紙の内部にある繊維の硬さが、小さく“コツ”と返事する。右胸ポケットにも予備を一枚。端を斜めに切った角が、心臓の脈に合わせて微かに押し返した。


「先輩、デルフィニウムの水、替えます」

 氷室澪の声は、今日も温度の輪郭がくっきりしている。

「うん、お願い。色、涼しいね。見てるだけで肩の熱が引く感じ」

「青は、体感温度を下げますから」


 澪は水桶を引き寄せ、茎の切り口をためらいなく落とす。「パチン」と、よく切れるハサミの音が空気を真っ直ぐに割っていく。


「先輩の即レス癖は、体感温度を上げます。体温が上がった時の思考は、境界線を溶かします」

「……体感温度が上がる、か。たしかに、すぐ返事しなきゃって、体の中が急かされる感じする」

「今日は、その急かしに、境界で蓋をしてみましょう」


 言われて胸のポケットに触れると、紙の角が確かにそこにいた。ミモザ色の昨日の光が、まだ指の奥に残っている気がする。


 昼のピークが近づくと、商店街の足音が重なり始めた。店の鈴が転がり、学生が小さなサボテンを買いに来る。老夫婦は仏花をゆっくり選ぶ。ひよりは包装紙の“しわ”に呼吸を合わせながら、あちこちに小さな笑顔を落としていった。

 そこへ、画面の光に目の下を染めた同僚の青年・直哉が、店の奥から慣れた手つきで現れる。バイト仲間で、人懐こい笑顔を持ち、予定を“人”で埋めがちなタイプだ。


「ひよりさんー、ちょっと助けて。インスタのDM、また来ててさ。『週末のワークショップ、詳細教えてください』って。テンプレ返信あったっけ」

「うん、あるよ。えーと……」


 ひよりは反射でスマホに手を伸ばしかけ、澪の視線の気配に気づいて止まった。視線は刀じゃなく、光線。切るためではなく、照らすために当たる。


「この前、澪ちゃんが書いてくれたよね。『詳細は固定ポストをご確認ください。ご質問はフォームへ』だっけ」

「そうです」

 澪は控えめに相槌を打ち、カード立てからテンプレを一枚抜いた。「返信は明日。業務時間内で」と、昨日のインクが乾いた線で書いてある。


「それと、即レスは空き時間の証明に見えます」

「証明、かあ……」


 直哉は耳の後ろを掻いた。


「俺、すぐ返しちゃうんだよね。既読つけたら返さないと悪い気がして。ひよりさん、気にしないタイプ?」

「気にするよ。けど、今日はちょっと……練習してみようかなって」


 ひよりは自分に聞かせる声で言った。


「返信は明日。業務時間内で」

「え、まじ? 大丈夫?」


 直哉の眉がほんの少し上がる。


「『遅い』って怒られたりしない?」

「『早く』って期待されちゃう方が、しんどいかもしれないね」

 ひよりが言うと、澪がわずかに頷いた。


「期待値の設定は、初動がすべてです」

「よし。じゃ、固定ポストのリンクだけ貼って、既読つけずに明日朝に送る予約にしとくわ」

「それがいいと思う」


 短い会話がひと口の水みたいに通り過ぎ、店の空気は再び花の匂いに戻った。


 正午を過ぎると、ひよりのスマホが震えた。画面には、以前ひよりが一度DMの対応を“長文で”手伝ったことのある常連男性の名前。

《今日、彼女の誕生日。サプライズの相談、今から電話いい? すぐ終わるから》

 文末の“すぐ”は、氷の表面みたいに薄く光っている。触ると溶ける。けれど、触った指が冷えるやつだ。


「……澪ちゃん」


 ひよりはスマホを胸の高さで止めたまま、小さく呼ぶ。


「“すぐ終わるから”って。今、電話できるかって」

「できません」


 澪は即答した。声は淡いけれど、芯が硬い。


「相談はフォームへ/返信は明日、業務時間内。そして、電話は予約制」

「でも、誕生日って今日で……」

「相手の緊急と、こちらの業務は別です」


 澪はデルフィニウムの青の束を持ち上げ、水の滴を親指で払う。


「先輩が今ここで電話に出ると、“ここに電話すれば何とかなる”の回路が固定化されます。可視化して断るのが、先輩のためであり、結果的にその人のためです」

「……うん。分かった」


 ひよりは深呼吸して、短く返信した。


《今は業務中のため電話は出られません。ご相談はフォームへお願いします。返信は明日の10〜17時内になります》


 送信。指先が少し震えているのが、自分でも分かった。胸ポケットのカードの角に触れると、紙が「大丈夫」と言った気がした。


「先輩」

「なに?」

「いまの、よくできました」

「へへ……ありがと」


 ほんの少し、顔が熱い。顔の熱はすぐに耳の後ろへ回って、そこで赤を落ち着かせる。澪はそれを、見ていないふりをして、見ている。


 数分後、スマホがまた震えた。さっきの男性だ。


《今すぐは無理かー! じゃ、ラインで内容送るから、これだけ考えてよ! 好みは任せる。予算一万。お店まで取りに行くけど、閉店後になるかも!》


 “任せる”“これだけ”“閉店後”。魔法みたいな言葉たち。甘いけれど、砂糖の塊をそのまま舐めると舌が荒れるみたいに、舌に棘が残る。


「任せられたね」

 直哉がひよりの肩越しに画面を覗き、軽い調子で笑った。

「ひよりさん、センス良いからさ、絶対喜ぶって」

「任せる、の中身を決めるのは、こちらです」


 澪が静かに割って入る。


「条件を先に置きましょう」

「条件……」


 ひよりは自分の舌の上でその言葉の重さを測り、頷いた。


《本日のご相談・作成は明日以降の予約で承ります。明日の10〜17時にご希望の受取時間をご指定ください。予算内でご提案します》


 送る前に、澪を見る。澪は、短く「はい」と目で言った。

 送信。


 数秒で返事が来た。


《えー硬いなあ。ひよりちゃんって、そういうのサッとやってくれるイメージだったのに! 明日でもいいけど、閉店後の受け取りって融通利かない? 彼女にバレたくなくてさー》


 文面の笑顔が、こちらの時間の皿の上に勝手に載ろうとする。皿の縁に、今度こそ線を描く必要がある。


「閉店後は、業務時間外です」

 澪の言葉は、短く強い。

「合図の通りに」


 ひよりは胸のカードを指で押さえ、打つ。


《閉店後の受け取りは承っておりません。必要な場合はお受け取り時間を前倒しください》


 送信。

 ……画面の向こう側で、相手が口を尖らせるのが目に見えるようだった。それでも、指先の震えはさっきより小さい。


「怖くないですか」

 澪が、花の束を立て直しながら言う。

「“嫌われるかも”という揺れ」


「怖いよ」

 ひよりは正直に答えた。

「でも、怖いのと、嫌なことを引き受けるのは別なんだね。澪ちゃんに教わった」


「よくできました。では、ご褒美にこれ」


 澪はレジ下の引き出しから、小さな袋入りのキャンディを取り出して、ひよりの手の平に置いた。レモン味。黄色。


「速い糖です。手の震えを止めます」

「気が利きすぎ」


 ひよりは笑って、キャンディの包みを開けた。レモンの酸が舌に落ちると、さっきまで胸の中で揺れていた透明な水面が、嘘みたいに静かになる。酸味は境界線。甘さは余韻。両方あって、初めて味になる。


 午後、ふたたび扉の鈴が鳴った。入ってきたのは、昨夜からの寝不足が目の下に出ている二十代の男性。手には紙袋が一つ、シワだらけ。


「すいません、これ、包装してくれません? 彼女のプレゼントなんですけど、ラッピング苦手で。時間ないんで、ちゃちゃっと。リボンも可愛い感じで、メッセージカード書いてもらえると助かるんすけど」


 “助かるんすけど”。その語尾はいつも、ひよりの「助けたい」スイッチに指を掛けてくる。その指は柔らかいふりをして、実はしっかり押し込む力を持っている。

 ひよりの喉が、自動的に「大丈夫ですよ」と言いかけたその瞬間、澪の視線が横から滑り込んできた。合図がいつかの声に変換される。


『それ、先輩の仕事じゃありません』


 ひよりは、喉の奥で言葉を止め、代わりに呼吸を吸った。吸う音が自分の耳に聞こえる。


「ラッピングは、当店でお買い上げいただいた商品のみのサービスなんです。申し訳ありません」


 声は、思っていたよりも静かだった。


「え、そうなんすか? じゃ、お金払えばいけます?」

「できません。当店で扱っていない商品は、破損の責任が取れないためです」


 ひよりは、自分の舌が短い道を選んで進んでいるのを感じた。遠回りしない。言い訳で包まない。真ん中を通る。


「ケチいなぁ。前はやってもらえた気が……」


 男性の反応の角に、苛立ちの小さな針が並ぶ。

 澪が一歩、前に出た。姿勢の角度は変わらないが、空気の密度が変わる。


「前回の個別対応は、例外です。例外は制度ではありません。制度は、みなさんが安心して頼れるようにつくられます」

「……」


 男性は一瞬、言葉を飲み込み、そして肩をすくめた。


「じゃ、いいッス」


 背中が扉の向こうへ消え、鈴が短く鳴った。

 ひよりは胸ポケットを押さえる。カードの角が、今度は内側からこちらを支えていた。


「言えましたね」

 澪は、浮かべない笑みで言う。

「断ることは、攻撃ではありません」


「うん……今、ちょっとだけ分かった気がする」

 ひよりは言った。

「『助ける』と『使われる』って、似てる形してるのに、手触りが全然違う。さっきのは、触った瞬間に手のひらが冷たくなる感じ。助ける時は、指の腹に体温が戻ってくるじゃない?」


「はい。触覚は、良い指針です」

 澪の目の色が、少しだけ柔らかくなった。

「境界線は、目で見るだけじゃなく、肌で感じるものです」


 夕方、店先の光が琥珀色に変わる頃、午前のDMの男性から再びメッセージが入った。


《明日の15時、受け取りでお願いします。フォーム送った! 固いの苦手だけど、彼女喜びそう。おすすめの花、任せる!》


 “任せる”は、さっきとは違う重さで届いた。こちらが置いた皿の上に、相手の望みも静かに置かれた感じ。皿の縁は見えている。互いに見えている。


「よかったですね」

「うん。……なんか、ちゃんと呼吸できる」


 ひよりは店の奥の梯子を見上げた。屋根裏部屋へ上る黒い木の段差。そこはいつでも静かで、光が整っている。


「上で、少しだけ休憩していい?」

「どうぞ。お湯、入れてきます」


 屋根裏は、昼間の熱を木材がやわらかく抱きしめていた。窓の縁に吊るしたドライフラワーが風に揺れ、影が壁に模様を作る。澪が持って上がったマグは、黒と黄色。いつもの色。湯気は細く、糸みたいに天井へ伸びる。


「ねえ、澪ちゃん」

「はい」

「返信は明日。業務時間内でって、言葉は短いのに、守られてる感じがする。なんだろう……言葉で壁ができるんじゃなくて、屋根ができる感じ」


「屋根。良い比喩です」


 澪は黒いマグを両手で包む。


「壁は相手を遮るため、屋根は双方を雨から守るためにあります。先輩が今日かけたのは、屋根です」

「屋根……私、ずっと、傘を他人に渡しちゃって、自分は濡れてるみたいな感じだったのかも」


「傘は、一人分です」

 澪は静かに言った。

「でも、屋根は、並んで入れます」


 ひよりは笑った。胸の中で、何かがカチリと合う音がした。


「ねえ、もうひとつ練習してみたい。“確認してもいいですか?”って言うやつ」

「いいですね。先回りの癖を止める合図です」

「私、すぐ動いちゃうから。次、頼まれた時は、一回“確認”を挟む」


「その場合のテンプレを増やしましょう」

 澪はカードを取り出し、新しい一枚に書く。

「『その前に、担当の方に確認してもいいですか?』」

「字、綺麗」

「道具は、読みやすさが命です」


 短い笑いが重なり、マグに映る窓の光がかすかに揺れた。屋根裏の空気には、デルフィニウムの青が紛れている気がした。澪がさっき替えた水の匂いが、風に運ばれてここまで上がってきたのだろう。青の匂いは、心拍をゆっくりにする。


「澪ちゃん」

「はい」

「今日、私、ちゃんと“嫌われるかも”って怖がれた。そして、怖いのと“やっていい”は違うって分かった。……こんな形の優しさもあるんだって、また思ったよ」

澪はうなずいた。

「気づいたなら、それで十分です」


 会話はそこで一旦ほどけ、屋根裏の板の上に落ちた湯気の影だけが残る。下から、扉の鈴がかすかに鳴った。店は、相変わらず世界と呼吸を交換していた。

 ひよりは胸ポケットに新しいカードを差し、端をそろえる。紙の角が、今度は屋根の棟木みたいに、自分の中に一本通っているのを感じた。


 階段を降りると、夕方の光は琥珀から淡い桃へ変わっていた。扉のガラスは街の色を薄く映し、雲は縁だけ金に縫われている。

 店に戻ったひよりは、今日の“できた”を一つずつ棚に並べるみたいに、作業を続けた。即レスの手を止められたこと。電話の予約制を言えたこと。閉店後は閉店後と言えたこと。確認の一言を道具箱に入れられたこと。

 道具箱は、ちゃんと重くなっていく。重さは、頼りになる。軽すぎる箱は、すぐにひっくり返る。


 夜、シャッターを半分だけ降ろした店内で、澪が小さな花束を作っていた。紫のデルフィニウムに、白いカスミソウを少し。青と白は、静けさの二重奏だ。


「先輩、これ、持って帰ってください」

「え?」

「今日の青です。体温が上がりすぎたら、見てください」

「ありがとう」


 ひよりは花束を胸に抱え、ラッピングの角に指を沿わせた。角は鋭いが、刺さらない。ちょうど良い尖り。境界線は、そうあるべきだ。

 扉を出ると、夜風が、昼間に比べて驚くほどやさしい温度だった。商店街のアーケードの下では、蛍光灯が昼光の代わりを務めている。光は人工でも、角は同じ形に揃う。ひよりは胸の中の屋根を確かめ、軽く息を吐いた。


 歩き始める足裏に、今日の一歩一歩が積み木みたいに積もっていく。家に着く頃には、きっと小さな塔になる。塔は屋根を持つ。屋根があれば、明日、そこへ二人で入れる。

 そう考えたら、夜の道は驚くほど心細くなかった。


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