第二章 融合

第1話 入れ替わった運命

 図らずも、5歳の詩織と融合してしまった私の体は、もちろん子供だ。

 大人の私が消えてしまったのか、それとも子供の私が消えてしまったのか――。

 いつかまた分離するのか、それともずっとこのまま……?


 鈍痛どんつうが残る腕は、信じられないぐらい細く白い。

 肘ひじ辺りに残る赤黒く変色した皮膚を見下ろしながら、私は理解する。

 この痛みは、私の中に溶けていった“小さな詩織”の記憶。

 彼女がほんの数分前に体験した、生々しい現実なのだ。


 その記憶は、容赦ようしゃなく私の中に流れ込んでくる。


 大事故から奇跡的に逃れ、家に帰ってきた私を待っていたのは、昼間から酒を飲んでいた祖母の怒りだった。


 土間で靴を脱ぎ、兄にならってそろえたその瞬間

 「何度言ったらわかる! そうじゃないんだよ!」

 怒号とともに張り手が飛んだ。


 小さな体は宙を舞い、タンスの角に激突した。

 肘から脳にジーンと痛みが駆け抜ける。何があったのかをを理解するのに、数秒かかった。

「この位置に並べるんだよ!」

 祖母は顔を真っ赤にして、土間の隅を指差した。

「お前は父親に似て、本当にバカだ!」


 靴の置き方を間違えただけで――そんな些細ささいな事で、

 世界が壊れるほどの怒りをぶつけられるなんて、5歳の私は理解できなかった。


 兄が私をかばうように駆け寄る。

 祖母はその首根っこを掴み、居間へ放り投げた。

 ドゴッ――。

 鈍い音が響いた。


「お前みたいな出来損ないはいらない! 父親のところへ行け!」

 祖母はそう言って、痛みに支配されていた腕を力任せに引っ張り上げた。

 ずんずん玄関へと向かう。

 いつもの事だった。

 灼熱の真昼間だろうが、雪が降り積もる夜だろうが、祖母の怒りが収まるまで、私はいつもこうして外に放り出されていたのだ。


「いやです。ごめんなさい、ごめんなさい」

 こんな家、出て行けるものなら出て行きたかった。

 子供心に、一人で生きてはいけない事を私は理解していたのだろう。

 命乞いをするように、泣きながら祖母に訴える。

 聞き入れられない事ぐらいわかっているのに。

 祖母は躊躇ちゅうちょなく玄関ドアを開けた。

 その向こうに――

 大人の私が立っていた。


 「待てー! 誘拐! 誘拐よー! 誰か警察を呼んで!」


 バタバタとつっかけの足音が、土間のコンクリートを叩く。


 気づけば、私はあの横断歩道の前に立っていた。

 事故にあった場所だ。


 「詩織?」


 祖母は一瞬失速し、予想と違う光景に目を丸くした。

 追いかけていた誘拐犯はもうどこにもいなくて、連れ去られたはずの、子供の私がここに立っているのだから。

 まるで、たちの悪い手品でも見せられた気分だろう。


 目と目が合った瞬間、息が詰まる。

 胸の奥で、心臓が悲鳴を上げた。


 記憶に新しい祖母はまるで別人だ。

 三十年という時を経て、髪は真っ白。

 背も曲がり、年老いたヒグマのように、狂暴さは影を潜めていた。


 けれど、目の前にいる祖母は違う。

 まだ50歳。ままならなくなった体を持て余しながらも、怒りのエネルギーに満ちている。

 重そうな脂肪を揺らしながら、顔を真っ赤にして怒鳴った。


「詩織――!!」


 その声が、私に何をするべきか伝えている。

 ――つかまったら終わる。

 また、あの地獄のような日々に戻ってしまう。


 私は反射的に背を向けて走り出した。

 今の私には足が二本ある。

 逃げ切れるところまで走る!


 その瞬間――。


 キキキキーーッ!!!

 ドンッ!!!


 鋭いブレーキ音と、衝突しょうとつ音が重なった。

 自動的に足は止まり、恐々振り返る。

 その光景に、私は目を見開いた。

 青い大型トラックが斜めに急停車し、運転手は青ざめていた。

 大きなタイヤの下には、足を押しつぶされた祖母が倒れている。

 鮮血がどろどろと流れ出し、アスファルトを染める。


 私は、その場に立ち尽くした。

 むき出しの足裏が灼けるのも忘れて、息を呑む。

 半開きの口はからからに乾いて、鼓動が早くなった。


 ――本来なら、ここで事故にうのは私のはずだった。


 運命が――入れ替わった?


 その瞬間、記憶が流れ込む。

 5歳の私の記憶。


 視界のはしには迫りくるトラックの影。

 その瞬間、ふわりと体が浮く。


 ――誰かの腕の中。

 三輪車ごと、守るように私を抱え込んだのは、あの男性だ。


 ポンポンと、頭を優しく叩きこう言った。


『気をつけるんだぞ』


 低くて、あたたかい声。


 「おじさん、だれ?」


 小さな私が尋ねると、彼は少しだけ困った顔をしてこう答えた。


『俺は——』


 ――わからない。


 5歳の私は、その名前を理解していない。

 曖昧あいまいな響きが、胸の中でもやを描く。


 もやの向こうでの出来事は、35歳の私にとって、とても大切な事のように思えて仕方がないのに。

 

 祖母の周りには、人だかりができ始めている。

 その現場に背を向けて、私は、辺りを見渡した。

 彼の姿を探したが、もうどこにも見当たらなかった。


 遠くで、救急車のサイレンが鳴り始めていた。

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