第5話 第一章エピローグ・夜空視点

「ダメだ! 行っちゃダメだー!」

 彼女に向かって手を伸ばした俺の声は、真横を通り過ぎた一台の大型トラックにかき消された。


 彼女がこの時代の人間ではない事はすぐにわかった。

 特殊素材のワンピースは、この時代ではほとんど見かけない色。

 陽光を反射して七色の光を放っている。


 かつていた時代なら、量産系のカジュアルブランドショップでいくらでも見かけたデザインだ。


 彼女が何者なのかはわからないが、時を超えてこの時代にやって来た人間である事だけは確かだった。

 そして今、自分の運命を変えようとしている。

 それが正しいのか、間違っているのかは俺にもわからない。

 たとえ間違っていたとしても、俺はきっと彼女を止める事はできなかっただろう。


 俺もまた、運命を変えたいと思っている人間のひとりなのだから。


 ――2055年。2月から8月にかけて、世界中が大きく揺らいだ。

 頻発する地震に、誰もが恐怖を覚え、終末を覚悟していた事だろう。


 その地震の原因が〈時空歪曲現象〉だったなど、SF映画のような話、この時代の人間が信じるはずもない。

 あくまでも俺自身の仮説だが――

 あの日、空と大地の境界が裂け、光の奔流に呑まれた人間たちは、それぞれ異なる時間軸へと放たれたのだと思う。


 死を覚悟した、2055年8月12日。

 あの日は、仕事から帰る途中で、電車を降りた時だった。


 一瞬にして様相を変えた街並みに翻弄されながら、俺は月の影公園を目指した。


 災害掲示板で出会った、さくらと名乗る女性に会うためだ。


 彼女と初めて言葉を交わしたのは、2月の大地震の夜だった。


 30年のローンで購入したマイホームは跡形もなく崩壊し、瓦礫と化した。

 下敷きになり、意識を手放してしまった妻は、どんな呼びかけにも応じなくなっていた。


 愛する妻の温もりが、ゆっくりと失われていく様を、俺は見ていることしかできなかった。


 崩れ落ちた家屋の中に響き渡るのは、俺自身の泣き叫ぶ声。

 サイレンの音が夜を切り裂き、焦げたような匂いが鼻の奥を突く。


 情報を取ろうと、スマホを手繰り寄せると、脆弱ながら電波が繋がった。

 アクセスが集中しているのか、外部との連絡は一切できない。

 唯一繋がったのは、災害アプリの掲示板だった。


 ――さくら:助けてください。瓦礫に閉じ込められています。


 そんなメッセージが視界に飛び込んだ瞬間、俺は何故だか彼女に生きてほしいと願った。

 妻とのデートでよく行ったカフェ〈夜空〉の名前で、俺は返信を書き込んだ。


 ようやく救助が到着し、瓦礫の下から引き上げられた時には、妻の息遣いはもう、どこにもなかった。


 一時的に政府自治体が準備した簡易シェルターに避難し、抜け殻のように、ただ時を過ごした。

 壁面に組み込まれたパネルが、定期的に淡い光を放つ。

 それは生存者の体調を監視するシステムだが、どれだけ数値が正常でも、俺はどこかが壊れたままだった。


 隣のカプセルからは、眠れぬ誰かのすすり泣きが聞こえる。

 天井の電源ドームが低く唸り、冷たい人工風が頬を撫でた。

 食料と呼べるのは、無味の栄養バーと再生水だけ。

 それはもう、人間の暮らしとは程遠い。

 ――生命維持装置に繋がれた生きるしかばね


 目を閉じれば、瓦礫の中で言葉少なになっていく妻・唯可の息遣い。

 あの夜から、時が止まったままだった。


 ――もう誰とも関わりたくなかった。

 そう思っていたはずなのに。


 避難所で、不意に開いた災害掲示板アプリ。

 それは、仕事帰りにふらっと居酒屋に立ち寄るような、突発的かつ自然な行動だった。


 スレッド名【SOS:助けてください】


 そこには、あの時、言葉を交わし合ったハンドルネームが明滅していた。


 彼女は助かったのだろうか。――さくら。


 彼女のアカウントは、あの時のまま。

 DM機能を見つけ、コンタクトを取ってみる事にした。


 夜空:こんにちは。このアプリ、DM機能付いてるのな。知ってた?

    その後どうですか?


 さくら:あの時はありがとうございました。なんとか救助されました。


 返信を見た瞬間、胸を撫でおろし、彼女の無事に安堵の息を漏らした。


 それからというもの、彼女との他愛ない毎日のやり取りが、次第に俺の呼吸を整えていった。


 ――あれは、恋だったのかもしれない。


 妻への罪悪感に胸を掻きむしりながらも、俺は彼女に逢いたいと思った。

 しかし、その願いは叶わない。

 あの大惨事の中、彼女があの場に辿り着けるはずなどない。


『すべての人に告げます。

 本放送をもって、あらゆる機関は機能を停止します。

 愛する人の傍にいてください。

 どうか、最期の瞬間を、誰かと共に――』


 無機質な音声が響き渡る。


 あの夜俺は、月の影公園で血に染まり行く空を見上げて、こう呟いた。


「唯可、俺も今、そっちに行くよ――」




 第一章 End


 第二章に続く――

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