第4話 5歳の私と、35歳の私

「大丈夫ですか?」

 という声はどこか他人事なのに、そっと背中に置かれた手には確かな温もりがあった。

 この手にすがりたい気持ちをこらえて、私は涙を拭い、力強くうなづいて見せる。

「大丈夫です」

 長年、強がって出来上がった性格は、そう簡単に変えられるものではない。

 薄いワンピースに付いた泥を払いながら、立ち上がる。

 右膝とくるぶしの辺りがジンジンと熱を持つ。

 まるでずっとそこにあったかのように、今の痛みを教えている。

 幻肢痛ではなく、リアルな痛みだ。

 少し遅れて立ち上がった男性は、私より頭一つ分背が高い。

 私の顔を覗き込んで、少し心配そうに頬をゆがめた。

「とても、大丈夫そうには見えないけれど……」

 困ったように眉根を寄せる。

 少し頬を赤らめて、視線を逸らした。

 チラチラと、私の体を彼の視線が行き来する。

 はっと我に返り、自分の体を見直せば、薄手のワンピースからは、くっきりと体のラインが浮かび上がっている。

 

 しかし、今はそんな事にかまっている暇はない。


「あの、一つ訊いてもいいですか?」

 私の問いに、彼は神妙な顔を見せる。

「ええ、私に応えられる事なら、何でも」

 とても堅苦しい物言いは、どこか教師のようだった。

「今は何年、何月、何日ですか?」

 その問いに、彼はぎょっとした顔で、視線を泳がせた。

 引いたままの姿勢で、ゆっくりとこう答えた。

「2025年8月12日」

 やっぱり!

 ここは、30年前の世界。

 私がまだ5歳だった時代だ。


 薄々は察していた物の、真実を突きつけられて膝が震える。

 しかし、迷いはない。

 きびすを返す。

 幼い私が去って行った方に、勢いよく駆け出した。


「ちょっとー!」

 背後から男性の声が追いかけて来たが、立ち止まる気はない。

 ふと、足元を見れば、裸足だ。

 熱したアスファルトに灼かれながら、私は走った。


 やり直せる!

 5歳の私を救える!

 あの地獄のような暮らしから私を救う。

 ちゃんと愛して、心から愛される女に育てたい。

 人生を変えたい。

 素直に笑える私を、夜空に届けるために――。


「ダメだ! 行っちゃダメだー!!」

 そんな声が追いかけて来る。


 けれど、もう止まらない。


 おんぼろ長屋の一番右端。

 かつて暮らしていた祖母宅の前に立った。

 気性が荒く、優しさの欠片もなかった祖母。

 母子家庭で、昼夜問わず働いていた母に代わって、私と兄の世話をしていたのは、母方の祖母だった。

 世話と言えば聞こえはいいが、私達兄妹はいつも祖母のサンドバッグだった。

 酷い言葉に傷つけられ、暴力は日常茶飯事。

 この閉ざされた町では、誰もが見て見ぬふり。

 虐待で通報、保護されるのは、ごくわずかな恵まれた子供たちだ。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 5歳の私がまた泣いている。

 ドゴっと激しい音が聴こえる。

 庇おうとした兄が突き飛ばされたのだ。

 いつもの光景。

 毎日、いわれのない痛みが降り注ぐ日常で、どうやって幸せになればよかったのだろう……。


 私は、ドアノブを握った。

 途端とたん、勢いよくドアが開き、幼い私の首根っこを掴んだ祖母が顔を出した。

 酒の匂いを漂わせ、目はつり上がり、息は上がっている。

「あ? あんた誰?」

 怪訝けげんそうに私をにらみつける。

 5歳の私と、目が合った。

 怯えた表情。涙で濡れた瞳。


 私は思わず彼女の細い腕を掴んだ。

 急いで抱きかかえ、きびすを返す。


 もうあの家には戻さない。

 この子と二人で暮らす。


「待てーーーーー! 誘拐だーーーー!! 誰か警察を呼んで!!!」


 祖母の怒号が響き渡る。

 10キロにも満たない私の体は、腕の中でふわふわと揺れる。


「ああ、可愛い。詩織、詩織は可愛いよ」

 ずっと言われたかった言葉を耳元で囁きながら、行く当てもなく走った。


 ふわふわ、ふわふわ……。

 腕の中の温もりが、上下に揺れながら、空気みたいに軽くなる。

 泣いていた幼い私の頬が、陽の光に透けていく。

 その輪郭が、指の隙間からこぼれる砂みたいに溶けて――。


 世界の音が遠のいた。


 どくん。

 どくん。

 鼓動が二つ、重なり合う。


 私は、息を吸った。

 同じタイミングで、あの子も吸い込む。

 幼い胸が小刻みに上下し、私の胸の奥も同じように震えた。


 目を閉じると、この子の記憶が流れ込んできた。

 冷たい床の感触。

 祖母の怒号。

 兄の泣き声。

 震えながら隠れていた押入れの匂い。

 すべて、私と同じ痛み。

 ぎゅうっと抱きしめる。

 もう大丈夫だよ。


 光が差した。

 それは、夏の午後のようなやわらかい光。

 まぶたの裏で金色の粒が踊り、幼い私の体が私の胸の中にゆっくりと溶けていく。


 温もりが、腕から胸、そして全身に広がった。

 指先から足のつま先まで、血が巡る。

 脈打つ。

 満たされていく。


 見開いた瞳の中、二つの景色が重なった。


 5歳の私と――

 35歳の私——。


 風が止み、せみの声が響いた。

 その音の中で、私は――自分を抱きしめていた。


 抱きしめていたはずの幼い私の姿はどこにもなく、少し高くなった空を見上げた。


 そして、空が高くなったのではなく、私が小さくなっている事に気が付いた。


 思いもよらない結果に戸惑い、全身から汗が噴き出す。


「どうしよう。なにこれ? もしかして……融合? したの?」

 舌足らずの声が宙を舞う。


「詩織ーーー、詩織ーーーーーー」

 息を切らした祖母が、鬼の形相でこちらに向かって来る。


 この体では、もう逃げきれない。

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