第10話 命の重み

 「……頭が、痛い」


 目を開けると、天井がぼやけて見えた。

 昨日の光景が、さっき起こったことのように脳裏をよぎる。


 ――初めて、生き物を殺した。


 肉を斬る感覚。

 皮膚が裂け、中の筋肉がむき出しになる。

 骨が砕け、温かいものが飛び散った。


 吐き気がこみ上げ、喉の奥が焼ける。

 あれほど気持ち悪い感覚を味わったことはなかった。


 この平和な世界で生きてきた俺には、想像すらできなかった――“命を奪う”ということが、こんなにも重いなんて。


 呼吸を整えようとしても、胸が締めつけられるだけだった。


 ゆっくりと視線を上げる。

 見慣れた天井。

 聞き慣れた外の車の音。


 ――俺は、こちらの世界に帰ってきたのだ。


 頭が痛い。

 熱でもあるんじゃないかと思うほど、こめかみがズキズキする。


 『……お前にとっては、辛いことだっただろうな』

 「今日は……話しかけないでくれ。頭に響く」

 『けっ、勝手にしろ』


 何もかもが、重い。

 体も、心も。

 まるで自分だけが、この世界の空気に取り残されているようだった。


 「大和くん? 起きてる〜? 今日休みの日だからどこか出かけない?」


 姫野さんがドアをコンコンッと叩きながら声をかける。


 あまりのだるさに、返事も返せない。


 「開けるよー?」


 やめてくれ……。

 俺のかっこ悪いところ、見ないでほしい。


 気になる女の子の前では、少しでもカッコつけたい。

 笑顔を作らなきゃ、頑張らなきゃ……。


 「おはよ〜って、大丈夫!?」


 あれ、笑顔……作れてない?


 「顔色めっちゃ悪いよ、体調悪い?」


 姫野さんはそう言いながら駆け寄ってきて、そっと俺のおでこに手を当てた。


 その手は少しひんやりしていて、気持ちよかった。

 とても落ち着く。

 ――まるで、あの血の臭いも、断末魔の声も、全部遠くに追いやってくれるみたいだ。


 「あつっ! これ熱あるよ! えっと、あー、どうすればいいんだっけ、た、体温計持ってくる!」


 慌てて動き回る姿が、妙にかわいく見えた。

 バタバタと足音を立てて部屋を出ていく。

 こんなに心配してくれるなんて、優しいな。


 「はい! これで計って! 起き上がれる?」


 姫野さんは俺の腕と背中に手を添えて、そっと体を支えてくれた。


 体温計を脇に挟む。

 横になっていないと、頭が割れそうに痛い。

 トンカチで殴られているみたいだ。


 ピピッ。


 「……39.7°C!? ど、どうしよう!」

 「ゴホッゴホッ、大丈夫だよ、姫野さん」


 俺よりも慌てふためいている姿を見て、――落ち着かせなきゃ、と思った。

 でも、本当は、あの手のぬくもりを、もう少し感じていたかった。


 「大和くん……ちょっと、ここでじっとしててね」


 姫野さんは優しく言いながら、毛布をそっと掛けてくれる。

 触れる手の温もりが、少しだけ心の緊張をほどいてくれる。


 「水……飲める?」

 「うん……ありがとう」


 小さなコップに注がれた水をゆっくり口に運ぶ。

 口に含むたびに、冷たさが体の芯まで染み渡る。

 ――それでも、頭の痛みはなかなか消えない。


 「今日は無理しないで、少しは私に頼ってくれていいから!」


 その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

 “守られている”安心感と、“自分は弱い”という罪悪感が入り混じる。

 目を閉じると、昨日のゴブリン戦の光景がふっとよみがえる。

 肉を裂く感触、骨の感覚、温かい血……


 「あ、大丈夫、大丈夫だよ……」

 小さく声に出すけど、体が震えて止まらない。


 姫野さんはそんな俺をそっと抱き寄せ、髪を撫でてくれる。

 「大和くん……何かあったんだね。大丈夫、そばにいるから」

 言葉は優しいけれど、その声の奥に、彼女自身の不安も混じっているのがわかる。


 頭の奥で、昨日の光景がまだ繰り返される。

 ゴブリンの体を斬った感触、温かい血の重み、命を奪った責任の重さ――


 胸が締め付けられ、息が詰まる。

 ――俺は、殺したんだ。

 誰かを守るためとはいえ、生き物の命を、自分の手で終わらせたんだ。


 「大和くん……」


 姫野さんの声が、頭の中のざわめきをかき消すように響いた。

 そっと抱き寄せられ、柔らかな体温が伝わる。

 髪を撫でられる手の感触が、心の奥の重さを少しずつ溶かしていく。


 「大丈夫。大和くんは一人じゃないよ。怖いのも、辛いのも、全部ここにいる私に任せて」


 その言葉に、涙が自然とこぼれそうになった。

 心を押しつぶす重みが、姫野さんのぬくもりに少しずつ吸い取られていくようだった。


 「……ありがとう」

 小さな声が、震えながらも口から漏れる。


 抱きしめられたまま、ふと目を開けると、姫野さんの瞳がこちらを真っ直ぐに見つめていた。

 温かくて、優しくて――でも、どこか強さも感じられる瞳。


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

 ――この人を、守りたい。

 ――そして、そばにいたい。


 大和は、初めて自分の感情が恋心に近いことに気づく。

 頭の痛みも、昨日の戦闘の記憶も、すべてがこの瞬間のぬくもりの前に霞む。


 「大丈夫、ずっと一緒だから」


 姫野さんの言葉が、全てを包み込み、重く沈んでいた心を溶かしていった。

 大和は、心の奥で静かに誓った。

 ――この人を、守りたい。絶対に。


 姫野さんに撫でられて、少しずつ胸の奥の重みが溶けていく。

 体を預ける安心感、温もり、そして自分を気にかけてくれる人がいる喜び。


 ――こんな気持ち、初めてだ。

 自然と、姫野さんのことを意識してしまう自分がいた。


 「……ありがとう、姫野さん」

 小さく呟く声に、彼女は微笑みを返してくれる。


 その時、耳元で小さな鈴の音。


 『おい、大和……なんだその顔は』

 「……ミラ?」

 小さなキーホルダーの姿で、ミラが手の中で話す。


 『姫野に撫でられて赤くなってるぞ? まるで子犬だな』


 大和は思わず、視線をそらし、手を握り締める。

 「うっ……うるさい、今はいいんだ!」


 『ふふっ、まあいい。可愛い顔もたまには見せてやれ』


 ミラの声に、二人の間に少し笑いがこぼれる。

 ――でも、俺の胸の奥には、昨日の戦いの重さと、姫野さんに救われた温かさが、しっかりと残っていた。


 『……よし、大和、少しは落ち着け』

 小さなキーホルダーの姿のまま、ミラがピョンと飛び上がる。

 『任せろ。俺の力で熱も一緒に吹き飛ばしてやる』


 大和が首をかしげる間もなく、ミラの小さな鈴がチリンチリンと鳴る。

 すると、不思議なことに体の芯が少しずつ涼しくなるのを感じた。

 熱が、ほんの少しだけ和らいでいく。


 『ふふっ、効いてるだろ? この俺の魔法はキーホルダーでも侮れんのだ』

 「……え、ミラ、マジで熱下がってる?」

 ミラが手をひらひらさせて、まるでお茶目に得意げに笑う。


 大和は思わず吹き出し、体も少し楽になった気がした。

 『な、何その能力……!』

 『まあな、俺は万能だからな。たまには役に立つんだぞ』


 「大和くん? 大丈夫?」

 「うん、大丈夫! なんか元気になった!」

 「ほんと! よかった! でも横になってなね!」


姫野さんが部屋を出たあと、静かな風がカーテンを揺らした。

ほんの少し軽くなった身体を感じながら、俺はもう一度だけ小さく呟く。

「……守りたい」


その言葉は、まだ熱の残る部屋の中に静かに溶けていった。


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