第9話 初任務

 「あ、起きたよ! 龍雷!」

 「おお! 大和! 大丈夫か?」


 冬香と響の声が耳に届く。


 ……ん? たしか俺、家のソファーで横になって、そのまま寝てたはず――。


 「大和、心配したぞ!」


 バンッ!

 扉を勢いよく開けて、龍雷が駆け込んでくる。


 ――ああ、そうか。

 また……こっちの世界に来たのか。


 視界の端には、見慣れない石造りの天井。

 空気の匂いも、光の色も、現実とはどこか違う。


 現実と異世界を行き来するこの生活には、

 まだどうしても慣れない。


 夢なのか、現実なのか。

 目を覚ますたびに、少しだけ不安になる。


 ――手には、盾の姿をした“ミラ”がしっかりと握られていた。


 「大和、この武器を持った瞬間に倒れたのよ」

 冬香の声が少し震えている。


 「でも、全然離そうとしなくて……」


 「俺たちがどれだけその盾を引き剥がそうとしても、

 ガッチリ掴んでてさ。まるで生き物みたいだったんだ」


 龍雷が、息を呑むようにそう言った。


 冬香が俺の顔を覗き込み、心配そうに言う。


 「……大和、まだ無理しないで。さっき、本当に怖かったんだから」


 その声が、やけに優しくて――少しだけ胸が痛んだ。


 現実と異世界、どちらが“本当”なのか。

 その境界線が、また少しだけ曖昧になっていく。


 「俺は大丈夫だよ! それよりも今日は初ミッションだろ!」


 混乱も、困惑も。

 全部、胸の奥に押し込んで。

 無理にでも笑顔を作る。


 『……不器用な奴め』


 ミラの声が、どこか呆れたように響く。

 けれど、その響きはどこか温かかった。


 「本当に大丈夫なのか?」


 龍雷が俺の頭に手を置きながら、心配そうに尋ねる。


 「師匠も大丈夫だって言ってる。問題はない、か……」


 どうやら脳内の“師匠”と話していたらしい。


 「よし! じゃあ任務こなしに行くか!」


 龍雷が拳を突き上げる。

 冬香と響も笑ってうなずいた。


 ――こうして、俺の初任務が始まった。


 「龍雷! おはよう!」

 「響くん! 冬香ちゃん! 頑張ってね!」


 街を歩いているだけで、三人の人気ぶりがよく分かる。

 今ではまだ新人冒険者のはずなのに、もう何件もの依頼を成功させ、注目を集めている。


 声をかけられるたびに、三人は笑顔で手を振って応える。

 その自然さが、きっとみんなに好かれる理由なんだろう。


 少し後ろを歩きながら、その背中を見つめる。

 頼もしくて、まぶしくて――どこか遠い存在のように感じた。


 “この世界の中で、生きている”

 そんな当たり前のことが、どうしようもなく不思議で、嬉しかった。


 王都の近くの森までやってきた。

 風がヒュウと音を立てて、木々の枝を揺らしている。


 「少し肌寒いね」


 冬香が肩をすくめると、


 「これ、着とけ」


 と、響がさりげなく自分の上着を差し出した。

 まるで絵に描いたようなイケメンムーブだ。


 それぞれがリラックスしているように見えるが、俺の心臓だけは、ドクンドクンと高鳴っていた。


 「おいおい、緊張がこっちまで伝わってくるぞ!」


 龍雷が笑いながら、俺の背中を軽く叩く。

 その手の温かさに、少しだけ肩の力が抜けた――その時だった。


 「二キロ先、ゴブリンだ! こっちに向かってきてる!」


 響の声が鋭く響いた。


 俺には何も見えない。

 二キロ先なんて、常人の目で見える距離じゃない。


 「大和、準備しとけよ〜。これはお前の試練だ」


 龍雷がにやりと笑い、俺を前へ押し出す。


 そして――


 森の陰から、そいつは“ぬるり”と姿を現した。


 灰色がかった緑の肌。

 ぶつぶつとした湿った皮膚が、光を受けてねっとりと光る。

 小さな体に釣り合わないほど大きな口が裂け、

 そこからは黄ばんだ歯が、不規則に並んでいた。


 ――うわ、気持ち悪い。

 これが、“現実”のゴブリンか。


 皮膚は泥と血の膜で覆われ、ところどころ剥がれ落ちている。

 体毛はベトつき、腐った獣のような臭いが風に乗って漂ってきた。

 口の端からは茶色く濁った唾液が糸を引き、黄色く濁った目がこちらを舐め回すように動く。


 胃の奥が反射的にひっくり返りそうになる。

 自分が作り出した見た目と特徴、何回も頭の中で創造した姿。

 もう慣れていると思ったが、

 今、目の前に立つそれは、本能が拒絶する生き物だった。


 それでも、俺は前に出た。


 震える手でミラを構える。

 「【ミラジェイラ・ブレード】!」


 呪文の響きとともに、盾が眩い光を放つ。

 光の粒が俺の腕を包み、形を変えていく。

 重さと質感が、確かに“現実”として手に伝わった。


 俺の身長にぴたりと合う、銀の両手剣。


 『ほう……俺の扱いを心得ているとはな』


 ミラの声が、鋭く笑ったように響く。


 「言ったろ? この世界は――俺が作ったんだ」


 口では強がってみせたものの、足の震えは止まらない。

 剣を握る手の汗が、指の間をつたって滴り落ちた。


 “知っているはず”の世界なのに。

 “作ったはず”の怪物なのに。


 ――どうして、こんなにも怖いんだ。


 「盾が……剣になった?」

 「おい、今の見たか?」

 「私は初めて見た……」


 三人の驚きが、森の静寂を裂く。

 それも当然だ。この変形の仕組みを知るのは、この世界で俺ただ一人。


 額の汗を拭う余裕もなく、俺は小さく息を吐いた。

 震えを抑えろ。考えろ。これは“作った世界”のはずだ。


 「ミラ、もっと軽くなって」

 『まったく……こき使いやがって!』


 そう悪態をつきながらも、ミラは素直に応じた。

 金属が軋むような低い音を立て、剣の重みがすっと消えていく。

 次の瞬間には、羽のように軽い感覚だけが手の中に残った。


 ――ギャアアアアッ!


 耳をつんざくような金切り声とともに、ゴブリンが飛び出してきた。

 皮膚は泥と血にまみれ、ぶつぶつと泡立つような緑。

 体液の匂いが鼻を突き、胃がひっくり返りそうになる。


 「う、わ……ッ!」


 吐き気をこらえながら剣を構える。

 ゴブリンはナイフのような骨片を握り、舌を垂らしながら俺に突っ込んできた。

 速い――!


 間一髪、横に転がってかわす。

 地面に擦れた腕が焼けるように痛い。

 心臓の鼓動がうるさくて、思考が途切れそうになる。


 『落ち着け、大和。俺を使え』


 ミラの声が脳に響く。

 ――そうだ、使い方次第でどうにでもなる。


 「【ミラジェイラ・シールド】!」


 剣が瞬時に盾へと変わり、銀色の光が反射する。

 ゴブリンがその光に怯んだ。

 その一瞬のスキを、俺は逃さない。


 「――今だッ!」


 反射光で奴の目を眩ませ、足元の小石を蹴り上げる。

 目に飛び込んだ小石に悲鳴を上げるゴブリン。

 そこへ一気に間合いを詰め、盾を再び剣へと変える。


 「【ミラジェイラ・ブレード】!」


 刀身が青く光を帯びた。

 振り下ろす。

 手応えは、肉を断ち、骨を砕く。

 温かい血が飛び散り、頬をかすめた。


 ゴブリンの体が痙攣し、地面に崩れ落ちる。


 「はぁ……はぁ……!」

 手が震えて止まらない。


 『ふん、よくやったな。初戦にしては上出来だ』


 ミラの声が、どこか誇らしげに響く。


 手が勝手に震える。剣が重い。

 心臓が嫌な音を立てて、喉の奥までせり上がってくる。

 呼吸が乱れ、胸が締めつけられる。


 俺が、殺した。


 『それが、命を奪うということだ』


 ミラの声が静かに響いた。

 いつもの軽口も、皮肉もない。淡々とした、重い声。


 『これが現実だ、大和。

 生きるために、他を殺す。――この世界では、それが“正しい”』


 血の匂いが、風に乗って広がる。

 吐き気と罪悪感が胸の奥でせめぎ合い、何も言葉が出なかった。


 ただ、わかった。

 “作り物の世界”じゃない。

 ここには、確かに“生きていた命”があった。


 俺は膝をつき、地面を見つめる。

 もう動かないゴブリンの体が、冷たく、静かにそこにあった。


 ――初めて、この世界の重さを知った。


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