ムスクの香り
@11hsk
あなたのことが...
「おはようー!」
私は扉を勢いよく開けて、教室にこの一言を殴り込む。軽やかな空気に乗せられて、言葉が部屋中に充満していく。私の肌に張り付いたカッターシャツは教室からのエアコンと思われる涼やかな風と私に押しつぶされる。もうすぐ、夏になるのだ。
私の怒号に近い挨拶に、私より先に教室にいたクラスメイトたちは各々がしていた作業を一時停止させて、こちらに視線を一斉に集める。「おはよー」とか、「今日も元気だね」とか、返してくれる。
だけど、私は彼女たちの返事なんて一切頭の中に入っていない。だって...
私は成瀬くんのことで頭がいっぱいだから。
”やめよう”といっつも思うのに、教室に入ると無意識にいつも彼の姿を探してしまう。でも、私の視界に一度彼を捉えてしまったら、世界に私と彼しかいないような感覚に陥ってしまう。彼は私の視線を引き付けて、離してくれない。
少し茶色がかったストレートの髪。マッシュヘアー。部活動をやっている人特有のスラッとした、でも筋肉がついているスタイル。勉強をしているのに、一切曲がらない背中。細くて長い指。色白い、女子たちも羨むような肌荒れを知らない肌。
これだけ彼の事が出てくる、私は自分で少し気持ち悪いな、とも思う。でも、こうやって彼が勉強をしている光景を見るだけで心臓を握りつぶされるように苦しめられる。彼のことが好きなんだとわからされる。私だけ時が止まっているみたいだった。
「うさちゃん、どうかしたの?」
なんて、友達たちが聞いてくるので、私が密かに抱いているこの青い気持ちを周囲の誰にも気づかれないように、心の奥底にそっとしまう。そして、何もなかったかのように、
「なんでもないよー!」
と彼女らに疑問を抱かせないように、のらりくらりと躱していく。
カバンを自分の席に置こうとすると、机の横には、別の人のカバンがすでにかかっていた。ここ、前回の席だった。先月、席替えをしたことをすっかり忘れていた。
そう思いながら、窓側の一番うしろの席に近づく。この席は夢だったのではないかと思うほど運がいいから、未だに信じられないし、だからこそ、毎日のように席を間違えてしまうのかもしれない。だって、授業中に間違えて、寝落ちしてしまっても先生にバレないし、なにより...
目の前の席は私が愛してやまない彼がいる。いつでも彼の後ろ姿を見放題だし、彼の良し悪し関係なく、彼の近くにいることができる。
「おはよう。」
私の机にカバンを掛けて、勉強をしている彼に後ろから挨拶をする。
彼の机の上を見ると、整然と並べられた使い古したボロボロ参考書とパッと見では何がなんだかわからない数式が書き込まれたノートが置いてあった。
(さすが、学年上位者。)
そんなことを思っていると、彼は数学の参考書とノートを机の上に置いてけぼりにして、私の方を向く。彼の漆黒の瞳が私を捉えて、目が合ってしまう。心臓の鼓動が早くなる。目を逸らしたいのに逸らせない。私がそんなことを思っているとは知らないと言わんばかりに、彼はしばらくの沈黙のあと、控えめだけど優しい笑みを浮かべて、
「おはよう。」
と答えてくれる。トドメとして、私の心臓は彼のこの表情に射抜かれてしまった。普段では、絶対に見せないような、時々見せてくれる表情。これを見てしまったら、私はキュンキュンしちゃう。とても平静ではいられない。彼なら、無意識の内に私の殺し方を知っていそうだ。
と、彼の隣の窓から、風が吹き込んできた。それは、私を牽制するかのようにべっとりと張り付いた制服を少し重たい空気で撫でた。
そんな空気を吹き飛ばすようにいつメンの2人が次々とやってくる。
「うさちん、おっはよー!今日は寝坊しなかったんだねー!」
そんな調子でみんなは私をからかってくるけど、それがひどく心地よい。
「そうだよ!昨日、家帰ったら、寝落ちしちゃって!で、目が覚めたら、4時だったからびっくりしたんだよ!」
そんなくだらないことを話しながら、今日の科目の教科書を机の中に入れていく。と、左側に私が覚えていないプリントが入っていた。取り出してみると、生物の課題プリントだった。
「あっ、それ、結局もらえたんだ!」
「えっ?どういうこと?」
「あんた、昨日、生物の時間寝てたでしょ。で、授業中に先生が前にプリントを取りにこさせてたんだけど、取ってない人は自己責任って言ったから、もらえてないもんだと思ってた。」
じゃあ、誰かが、私のも取っておいてくれたの?誰だろう。
「えっ?まじ!?。てか、そんなことあったなら、教えてよ!」
「寝てたあんたが悪い。」
「ごめ〜ん。忘れてた☆彡」
「テヘペロで済ますな!」
少なくとも、コイツらではないな。そう、心の中で思った。ちょうどそのタイミングで担任の先生が教室に入ってきたので、友達たちは自分の席に戻っていった。
先生の朝礼は特に重要なことは滅多に言わないので、彼のことを後ろから存分に眺める。そんなときに、彼との最初の出会いをふっと思い返していた。
※
私の中で彼の雰囲気や印象が変わったのを見たのは去年の年末のこと。私は冬休みという短い期間に出された大量の課題に疲弊をしきって、閉じ込められた空間から飛び出した。
外は肌を刺すような寒さで、家から持ってきたカイロを必死に振って、ポケットに突っ込んで、マフラーを口まで覆った。初めは、鬱憤を晴らすために、走っていた。
が、体力のない私は当然、すぐに走るのをやめて、歩くことにした。あてもなく、ぶらぶら歩いていたけれど、私は、無意識の内に私のお気に入りのところまで来ていた。そのときはまだ知らなかった。好きなだけでこんなにも人が違って見えるとは。
私のお気に入りの場所は歩道から海と夕やけが見ることができる。海が波打つ音を聞きながら、夕焼けを見ると、なんだか、心が洗われるような感覚がする。私の脳はこの癒やしを求めていたのかもしれない。
オレンジに滲ませた海に沈みかけの夕焼けが浮かんでいた。地平線と夕焼けの境目は見えなくなっていて、私までもが景色に溶け込んでいるような感覚になる。
はぁ〜、とため息混じりのに息を吐くと、そこには白い空気が現れ出た。年末であることと、寒いこともあってか、道路には歩行者も車もいなかった。道路脇にある柵に体を預けて、かじかんだ手をこする。
一人だけ得をしたような感覚が私を纏う。その感覚を断ち切るように下から犬の鳴き声と楽しそうな笑い声がした。
夕日から少し視線を落とすと、浜辺の上には赤いリードに繋がれた犬と、一人の男の子がいた。沈みかけている船に乗っている私と違って、楽しそうに走り回っていた。成人男性でも抱えるのに苦労しそうな大きな犬は尻尾をブンブンと振り回して飼い主の上に覆いかぶさる。当然、男の子は犬の大きさ故、浜辺に押し倒されてしまう。そんなことはお構い無しに、犬は飼い主の顔をペロペロと舐めていた。飼い主の方も
「ちょっ、ストップだってば」
と、堤防の上に立っている私にも聞こえるぐらい大きな声でボールが跳ねるように楽しそうに犬に喋りかけていた。聞いたことある声だと気づくまでに私はすごく時間がかかった。
その様子を見て、私は楽しそうだなぁと微笑ましく思いつつも、ああいう人は私が抱えている悩みとかもないんだろうなぁとか、羨ましいとか、私にそんな姿を見せつけるなとか、自分の暗く影を落とした感情も同時に私の脳に顔を見せた。みんなに知られたくない私の影の言葉はいつも私の本心に一番近かった。だからこそ、この影は私は嫌いだった。
この感情に仕方ないなんて思う自分もいた。だって、いかにも、”今、とても幸せです!”みたいなオーラが犬からも男の子からもその空間を満たすくらいにじみ出ていたのだから。
そんな微笑ましいような光景を見下ろしていると、飼い主であろう男の子がこちらに気付いたのか、私の方を見た。目が合った。その人の顔をよくよく覗き込むと私の見知った人だった。驚いた。
その人物こそがクラスメイトの彼だった。
”普段は無表情な彼もあんな犬にデレデレになるんだ”
と。
その頃の私が彼に抱いている印象といえば、私の学校のバスケ部のエースを張っていて、勉強も常に上位をキープしている文武両道の超人だということだった。あと、教室では部活の人や友達に話しかけられる以外はずっと勉強をしているっていうこと、とか、無表情だけど、誰が見ても整った顔であるがゆえ、密かにファンクラブがあること、とか。とにかく、なんか近寄りがたそうな、モテてる人っていうのが大きな印象。
だから、犬と戯れていた人物がまさか、彼だとは夢にも思わなかった。
彼も私が誰であるのかに気づいたのか、こちらを見て、少し鋭い目つきが丸くなっていた。気がついたら、私は浜辺の上に立っていた。私は、ここの間の記憶は一切なくて、なんで彼に近づいたのか、全くわからない。だけど、運命だから、引き寄せられたのかも、とも思ってしまった。
最初の一言は彼だった。
「宇佐美さん...?なんで、あそこに、というかいつから、居たの?」
「いや〜、課題やってたんだけど、飽きたし、疲れちゃったから、お気に入りの場所に行こう!って思って、ね。」
彼とはあまり、というか入学して、もう9ヶ月も経ったのに、一度も話したことがなかった。だから、どんな風に接すればいいのか、わからなくて、なぜか前のめりに返事をしてしまう。その後の言葉に何を続ければいいのかわからなくて、黙って、彼から目を逸らしてしまう。
正直、私は波にどこか遠くへ連れ去ってほしかった。だけど、そんなことはなくて、夕焼けの反射でキラキラ光る海がただ広がっているだけだった。
そんな空気を察したのか、彼の犬は首輪についている鈴を鳴らして、一声
「ワン!」
と元気よく私たちに向かって吠えた。彼はその声で我を思い出したかのように、話し出す。
「あー、冬休み課題か。あれ、めんどくさいよね。たった、2、3週間しかない間に出す課題の量じゃないよね。」
「そうはいいつつも、成瀬くんは課題は終わってるんでしょ〜。」
カマをかけたつもりだった。どこかで、”さすがに彼でも終わってないだろう”と高をくくっていた。だって、冬休みが始まってまだ1週間程度しか経っていなかったから。
「まぁ、ね。量が無駄に多いだけで、めちゃくちゃ難しいわけでもないし。」
この言葉に無性に苛立った。私もそれなりに勉強を頑張っているのに、解けない問題ばかりだった。それを”量が多いだけ”と彼は言い切ってしまった。私を否定されたように感じた。
私の中で嫌な記憶が次々に思い返された。他人に比べられる日々。コンプレックスをいじられる日々。”不出来な子だ”と言われる日々。努力をしているのに報われない日々。
勉強の気分転換のために散歩に出たのに、これでは何のために外に出たのかもわからない。
私の頭は悲しみと怒りで沸騰していた。
「あぁ〜、いいよね〜。頭がいい人は。私が持ってる悩みとか全部なさそう。」
気づいたときにはもう遅かった。知らないうち、って言えば、言い訳に聞こえるかもしれないけど、本当に私の意識は真っ黒のもう一人の私に支配された。そのせいで、私の理性と言う名の意識が起き上がった時に後悔にまみれた。
「やってしまった。」と。
初めて話した彼にこんなことを言うなんて自分でも信じられなかった。どんどん私は自分が嫌いになっていく。私の視界はにじみ、私のくつと浜辺の砂しか見えていない。
「そんなことないよ。」
「えっ...」
彼が私の何を知っているのだろうか。話したことないくせに。そう思った。顔を上げると、彼の瞳と目が合う。雰囲気からも、彼が真剣だということが伝わる。
冷たい空気が私たちを二人だけの世界へと連れ去っていく。
「俺、人付き合いとか苦手だから、どうやって接すればいいのか、今も困ってる。勉強だけができたらいい、ってわけでもないと思う。むしろ、君が持ってるコミュ力が俺は羨ましい。」
「___っ。ありがとう。」
彼の真剣な言葉は私の胸をまっすぐに貫いた。こんな真っ直ぐな言葉はいつぶりに聞いただろうか。恥ずかしいのと、泣いているのを見られたくなくて、彼から目を逸らしてしまう。喉で涙がこぼれ出そうになるのをこらえた。そのせいで、私の声は彼に届いているのかも、わからない、小さな、かすれた声だった。
彼が私に似ているところがあると思ったからか。彼は私でさえ気づかないことも気づいていてくれたことが私の心の中でなんとも言えない、幸福感が広がっていく。
昔から、何をやっても良くて中の上だった私は称賛を受けることなんて全く無いに等しかった。だからこそ、彼に褒められたということに過剰に反応してしまったのかもしれない。彼にとっても他の人にとっても普通のことかもしれないのに。
私の心臓の鼓動が早くなっていく。私の頭の中は彼でいっぱいになっていった。
恋に落ちた。彼は生物学的に見ても、かっこいいのかもしれない。だけど、私は彼のことが好きだから、かっこいいと感じている。そう確信した。
そして、あんな醜態を晒したあとに、なぜだか、わからないけれど、二人(と一匹)で一緒に帰ることになった。彼いわく、
「女の子、一人、夜道を帰るなんて、危ない」
とのこと。
帰ろうと思った頃には、日は沈んで、空の支配権が、太陽から、星へと変わっていた。街灯が少ない、この街では幾千ものきれいな星が空いっぱいに占めていた。
今日知り合ったばかりの彼と帰るのは少し気まずかった。悪気はないとはいえ、トゲのある言い方もしてしまったし、気づいているかはわからないけれど、泣いてしまった。その上、彼に恋してしまったのだから。それも相まって、彼の隣を歩いていると、服の裾を触ったり、マフラーで口元を隠したりと、落ち着きがなかったように思う。
と、そのとき、私の宙ぶらりんとした手は、誰かに握られた。そんなの、隣りにいる彼しかありえないのだが。表面は冷たいはずなのに、奥深くに温かさを感じた。
なぜ彼が私の手を握ったのか、わからなかった。彼は、私の顔を覗き込み、私に手を繋いでいることを見せつけて、私を見透かしたように
「彼氏面、してみようと思って。その方が安全でしょ。」
恋人つなぎってわけではなかったけど、私の心臓はバクバクしていて、本当に心臓が体の外に飛び出てしまうのではないかと思った。彼の顔は相変わらずの無表情だったけれど、それにそぐわない発言をしたものだったから、恥ずかしくなった。彼と繋いでいる手から汗がダラダラと流れ出て、彼に変だと思われていないか、とても不安だった。
早く家に着いてほしいと思うと同時に、このままで、ずっといたい、と思う自分もいた。が、家はもう目に見えていた。この時間が終わると思うと、残念で仕方なかった。でも、私には彼を引き止める術も言葉もなかった。
「今日はありがとう。それと成瀬くん、ごめんなさい。なんか嫌味っぽいこと言っちゃって。」
「いやいや、大丈夫だよ。俺が好きでやったことだし、人は誰しもそんな部分は抱えてるでしょ?もちろん、俺もそういう部分があるし、抱えていないほうが逆に怖いしね。」
なんで彼は私が欲しい言葉を的確に言ってくれるんだろう。彼の言葉に再び、涙が出そうになった。喉元をぎゅっと締めたせいで少しだけ痛い。
「というか、迷惑じゃなかった?」
「ううん!むしろ、よ...」
むしろ、よかった、なんて今日初めて話した彼に言えるわけなんてなくて。その後に続ける言葉に悩んだ。その間に彼は、
「じゃあ、また、冬休み明けに。」
なんて言って、帰ろうとしていた。なんとかして、彼をもう少しだけここに縛り付けておきたかった。
「待って!スマホ、持ってる?」
「持ってるけど...」
彼の言葉に疑問が乗る。
「L◯NE、交換してください!」
彼は私に理由を聞くことなく、すぐに、L◯NEを教えてくれた。その後、すぐに帰っちゃったけど、連絡先を聞いた日の夜は、好きな人ができたのと、L◯NEを交換できた嬉しさの反動で、夜はぐっすりと夢の中へと入っていった。
※
その後、L◯NEで言葉を交わすこともなければ、学校でも言葉を交わすことはなかった。
だけど、高校2年生に進級するとき、神に祈った。”彼と同じクラスでありますように”って。仲のいい友達たちと同じクラスでみんなで大喜びしていた。けど、私だけは違う意味でもこのクラスであったことを心から、幸せを感じていた。
そして、私は先月の私にとても感謝したい。あみだくじで引いた席がこんなにも神席だとは露にも思わなかった。
5分休みには、彼と話すことができる。最近では、もはやこれのために学校に来ていると言っても過言ではない。
「今日も眠たいの?」
時々、彼から話しかけてくれることもある。そんなときは、一日中、私の背中に羽がついたような嬉しさを感じている。もちろん、今もだ。少しだけ、顔に出ていないか、不安になるけど。心の中のわたしが喉から飛び出るくらいガッツポーズをする。
「眠たいけど...今日こそは絶対起きるよ!昨日も寝ちゃって、授業内容が割と頭に入ってないだよ〜。マジで受験がヤバい///」
「俺も、眠いんだよね〜。なんでだろう?次の授業寝ちゃいそう。」
彼は自身の眠気に本気で疑問をいだいていた。腕を組んできょとんとした姿はとてもかわいかった。
キーンコーンカーンコーンと、授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。先生は黒板にある、前の授業の残骸を消して、挨拶をする。彼の背筋はいつものようにピンとしていた。
授業が始まっても、彼との会話を思い起こして、頭の中で反芻する。彼の無表情の端に出る感情を頭に刻み込んで、私だけが見れる彼専用のファイルに挟んだ。一枚、また一枚とどんどん増えていっている。
先生の言葉は私の右耳から左耳に抜けていき、私の意識は彼だけに向いている。数学の時間は先生が答えを当てるときもあるから、問題を解かないと、とは思いつつ、教科書を開いているわけでもない。
頭がふわふわしてきた。私の頭の中は彼のことでいっぱいになっていく。授業中であることも忘れて。
...う〜ん。誰だろう。私の腕に鋭利なものが突き刺さる。誰かが私の名前を呼んでいる気がする。体を起こしても、脳はまだぼんやりしている。
私の意識がようやく、私の操縦席に座ると、今が授業中であることを思い出させた。私は寝落ちしてしまっていたみたいだ。おぼろげに見えたのは、私の大好きな彼が、肩をビクビクと震わせて、笑っている姿だった。彼がちょっとだけ横を向いていたので、その表情が見えてしまった。寝起きにはとても悪かった。私の心臓はドンと大きな音を鳴らした。ぱっちりと目が冴え渡った。
彼の笑顔に、その前からだけど、クラスがどっと湧き上がった。特に、女子が。心の中で舌打ちをしたけれど、彼のその笑顔をうっとりと堪能していると。
「宇佐美!授業中、寝るな、と何度も言っているだろ!とりあえず、この問6の答えは?」
頭にガンガンと響く声で、先生は私に答えを聞いてくる。私はノートを開くが、当然、真っ白。しかも、sin,cos,tanは数学の中でも苦手な部分。この短時間ですぐに解ける問題でもない。どうしようかと焦っていると、机の右上にふせんが貼ってあった。
黄色のふせんの内容を見ると、この問題の答えと思わしき数式が書いてあった。試しに、その数式を言ってみる。
「えぇーっと、y=sin(θ-π/4)です。」
「なんだ、聞いてたのか。ややこしいから、授業中に伏せるな。」
「はーい。」
本当に、答えだったんだ。一体、誰がこのふせんを貼ってくれたんだろう。綺麗な字だなぁ。
てか、珍しく、先生に寝ていることがバレてしまった...
そのことが悔しすぎて、私は頭を抱えた。と、そこに低く、心地良い声が私の耳をくすぐる。
「今日も寝ちゃってたね。」
少し、笑いの混ざった声。声の主を見ると、彼の口角は少しだけ上がっていた。必死に笑いを堪えているのが目に見えてわかる。 彼にからかわれるのは、とても気恥ずかしかった。大好きな彼に失態など見せたくないものなのに。
心臓がキューンとして、苦しい。
※
「なぁなぁ、今週末空いてる?あそこにいる女の子たちと遊びに行かね?」
「断る。」
終礼も終わり、みんなが片付けをしている間、私は彼の会話を盗み聞きする。だめだと思っても、彼のことを知りたいと思って、気がつけば、彼の会話が頭の中に入ってくる。
まぁ、でも?彼の後ろの席なんだから、聞こえてもしょうがないよね?
彼の親友(?)は彼と正反対だけど、仲がすごく良さそうに思う。彼が気を許してる相手なんだろうな、と感じて彼を羨ましく思う。私が勝手に頭の中でそうしてるだけだけど。
「なんでだよ〜!お前が来ないと、あの子達も来ないじゃんか!」
「知らない。」
クールに対応する彼もかっこいいなぁ。たった一言なのに、声が低温でイケボ過ぎる。
「マジで頼むから、来てくれ!部活の奴らがあの子達と遊びたいから、成瀬誘ってくれって頼まれてるんだよ!!!」
「そんなことに俺を巻き込むな。」
やっぱり、成瀬くんはモテるんだなぁ。嬉しいけど、嬉しくない。私にだけ、モテててよ。
「ったく、相変わらず、つれねぇなぁ。あのこと、言ってもいいのかよ。」
あのことって何のことなのかな。やっぱり、親友さんにしか言えない秘密とかもあるのかな。彼の恥ずかしいところも、全部知りたい。そんなことはできないだろうけど。
「脅してるのか?」
目つきが鋭くなり、彼の周りには絶対零度の吹雪が吹く。私も雪を被るけれど、それ以上に私の恋心は熱いので、問題はない。
「おぉおぉ、怖い怖い。いや、冗談だってば。」
「たちが悪いぞ。まぁ、いいや。そろそろ部活に行くぞ。時間に遅れる。」
「はいは〜い。」
彼とその親友さんは自分の鞄を持って、教室を出ていった。クラスの女子に見つめられながら。彼はいろんな女子を魅了していく。こんなことは無理だってわかってるけど、惚れさせるのは、私だけにしてほしい。彼の背を見つめながら。そう考えた。
「ねーねー、聞いた?この子のこと。」
と、すぐそこにいつメンの3人がやってきた。彼女らはすでに鞄を持っていた。それにならって、私も鞄を持つ。サバサバしている子が、ちょっと天然じみた子の肩を組んで彼女に指を指していた。
「えっ、何?なにかやらかしたの?」
私は、人がやらかしたり、人のちょっと暗い部分の話がとても好き。自分でも性格が悪いと思うけど、あの日の彼の言葉を思い出すと、こんな暗い部分ともうまく付き合っていけている。それでも、やっぱり面白そうで、私の中でワクワクしてしまう。なんの話か、期待を胸にふくらませると、
「あ、あのね、私、彼氏ができたの。」
「カレシ...って、えぇー!彼氏できたの?!」
話がリアルタイム過ぎて、一瞬”彼氏”という言葉が理解できなかった。唐突なことに、私は教室なのに、大声を出してしまう。心の中で、ヤベって思い、口を抑える。
一段落ついて、口を開き、
「えっ、待って。よく聞かせてよ。」
当然、恋バナも好きなので、こういう場合は彼女のことを知っている人に根掘り葉掘り聞いていく。どうやら、私以外の3人はもう、この話を知っていそうだ。だって、驚いてなかったし、ニヤニヤしてるし。
「この子さ〜、ちゃっかり、もうデートもしっちゃってんの。すごいよね〜。」
「そうそう、こないだ、デートしてるとこ、見ちゃったし。」
ツルツルと滑る廊下を歩きながら、私の疑問には張本人ではなく、他の子達が答えていく。疑問も少しずつ解消されて、彼女を羨ましく思う。
「やっぱりさ〜、付き合ったら、デートとかするんだ〜。他にどんなことしたの?っていうか、L◯NE見せて。あと、彼氏さんのどこが好きなの?」
「えぇと、今の彼氏はね、とにかくめっちゃ優しいし、私のことをとても好いてくれてるの。休みの日とかにたくさん会ってくれるし、一緒に帰ったりするの。あと、L◯NEはね。」
そう言いながら、彼女はスマホと取り出して、自身の彼氏との連絡を開いて、見せてくれた。ほとんどの内容はデートの日にちや場所しか書いておらず、その他は電話履歴だった。
「ほぼ、毎週デート行ってるの?!というか、なんでこんなに電話履歴が多いの?」
「ほんとだ〜。何を話してたの?」
帰宅路につき、彼女の恋愛事情を詳しく聞く。彼女の話を聞く傍ら、私は成瀬くんと付き合ってそれらをしている自分を想像していた。
校内靴から、外靴に履き替え、靴の踵を踏まないように、指を少し痛めながら、本来あるべき姿に戻していく。
「あのね、彼が寝る前に聞きたいのは、君の声だから、って言ってくれて、どっちかが寝落ちするまで電話してるの。」
彼女の彼氏のあまぁ~いセリフに私たちは思わず、
「キャーー!///」
と周りに大勢の生徒がいて、ここが学校の下駄箱であることも気にせず、思いっきり叫んでしまった。
※
家に帰って、お風呂や夕食を済ませた私は、自室で机に向かっていた。そばにあるスマホを開いて、今日、みんなで取った写真をストーリーにして、ネットに上げる。
”彼氏ができた友達、幸せそうでなにより”
という文言を添えて。
「よしっ、数学するかー。」
私も文系とはいえ、国立大学を目指しているから数学も捨てられない。とはいっても、全く公式が頭に入ってこないし、先生が何を言っているのか、他言語を話されているよう気分だった。まっ、だから授業中に寝ちゃうんだけどね。
教科書を開くが、授業中に寝てしまうやつが家で集中できるはずもなく。不意に授業中のふせんを思い出したので、そちらに思考を巡らせていた。あれは、一体誰が書いたものなのか。私が、目が覚めたときにはすでにふせんが貼ってあった、と思う。
成瀬くんが書いてくれたんだったら、いいなぁ。そうしたら、私はもっと彼に沼ってしまう。そんなわけはないだろうけど。彼は女子に対して、どこか一線を引いていて、少し冷たい。だけど、彼はどんな人に対しても優しいから、私のことが好きなわけじゃないんだろうなぁ。
でも、あれは、よきすぎた。めったに見せない顔を授業中に、しかも寝起きに見るのは絶対にダメ。心臓に悪すぎる。
彼のことを思い出して、私の鼓動はどんどん早くなる。彼のことを思い出して、心の中が満たされる。彼のせいで夕食に手をつけられなかった。彼が存在するだけで、私はこんなにも狂わされる。
あー、好き。
彼に意識されていないのは、わかるけど、それでも、なんとかして付き合いたい。彼のことでやっぱり悶々としてしまう。いっそ、告白すればいいって言う人もいるだろうけど、私は今の微妙な関係を壊したくはない。
付き合えるって保証があったらいいのに。
でも、そうじゃないから、恋は面白いんだろうけど。
そんなことを考えて、ベッドにダイブして、仰向けになる。彼の一挙一動を思い出しては、一人でキュンキュンしてしまう。ベッドの上で何度も左右にゴロゴロする。
彼のこと、全部知りたい。一挙手一投足、余すことなく。彼の心が欲しいのも、そうだけど、それ以上に、私が彼のものになりたい。彼と一緒にいるだけで、私は幸せになれる。
いつメンの子みたいに、付き合って、いろんなことしたいなぁ。一緒に帰りたいし、L◯NEもくだらない会話をしてみたいし、休みの日も会って、デートしたいし、ずっとずっと彼のことだけ、考えていたい。
”明日こそは、成瀬くんに...”
明日の自分はスーパーマンになって、告白する勇気が出ているような、そんなことを考える。そして、彼の横に立って、幸せな姿を想像していたら、いつの間にか私は寝てしまっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます