これが桃花の生きる道!
鷹森涼
1
八月の太陽が、
焦熱地獄が顕現したかのごとき今年の夏は、日本全土を阿鼻叫喚の坩堝に叩き落している。避暑地として有名なS県とて、例外ではない。特に県庁所在地のS市は盆地の真ん中に位置しており、他と変わらずめちゃくちゃ暑い。まだ午前八時にもなっていないのに三十度を超える猛暑酷暑の中を、桃花はニコニコしながら、弾むような足取りで軽やかに行進していた。
大通りわきの歩道を進み、県庁東交差点を渡る。そのまま県庁舎の敷地へ入り、スキップしながら裏へと回る。職員用の通用口をくぐると、守衛のおじさんが、「おはよ……う、ござい、ます」と、なぜか途切れ途切れに挨拶してくれた。いつもハキハキしている彼にしては珍しいな、風邪でも引いたのだろうか、なんて考えながら、桃花は元気よく返事をし、廊下を進んでエレベーター前までやってきた。
くるりと、意味もなくその場で一回転した後、上矢印のボタンを押し、エレベーターの到着を待つ。鼻歌を唄い、時々くるりくるりと回転しながら、「くふふ」と忍び笑いを漏らす。ふと気づくと、なぜか桃花の周りに人がいない。他のエレベーター前にはたくさんの人が待っているのに。何かあったのだろうか。
(ま、私には関係ないか)
「ふん、ふ~ん、ふふふ~ん。くふふふ」
いつもなら、なかなか降りてこないエレベーターに悪態の一つでもつくところだが、今日はそんなことはしない。桃花の機嫌は極上だった。
『八』『七』『六』と、数字が減っていくディスプレイを眺めていると、背後から太い声がした。
「えらくご機嫌じゃねぇか、新山……って、お、お前、新山か?」
「あ、
頬に一筋の傷があり、眉が片方丸々ないガタイのいい男が、桃花に声をかけてきた。年は四十半ばぐらいの、既製品の黒いスーツをオーダーメイドのように着こなしている、ヤクザにしか見えないその男に、桃花は気さくに返事をする。
「やっぱり、新山か。前にも言っただろ、寝起きにその声はこたえるって」
「そうでしたっけ? うふふふふ」
「……お前と絡むと疲れる。それ、他で言うなよ。それはそうと、お前、その顔――」
樫山が何か言いかけたが、その瞬間ピンポンと音が鳴り、エレベーターが到着した。扉が開くなり、桃花はすすすと乗り込むと、『五』のボタンを素早く押す。
「さ、樫山さん、どうぞ!」
「だからうるせえって、ったく」
がくっと肩を落としながら、樫山もエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まり、垂直上昇が始まる。
エレベーター内でも、桃花は「くふ、くふふ」と忍び笑いを続けていた。樫山が、気味悪そうに自分を見ているが、そんなことはどうでもいい。
(なんせ今日は、人生最良の日なんだから! それにしても、一体どんな人なんだろう? わざわざ私を呼んでほしいなんて言う、スーパーエリートって!)
桃花は笑いながら、先日かかってきた、高校からの親友、沙和との電話のことを思い出していた。
「え、マジ⁉ そんなハイソな合コンが!?」
後輩と家賃を出し合って借りているマンションにて、共用スペースのダイニングで夕飯のカップラーメンをすすっていた桃花は、電話に向かって叫んだ。
『声でけえって。ハイソってなんだよ』
「そんなんどうでもいいよ! え、ほんとに私も参加していいの⁉」
『うん。私は、やめた方がいいんじゃないかって思うんだけどね』
「うわ、めちゃうれしい! ありがとう沙和! やっぱ、持つべきは親友だね!」
『だから声でけえって言ってんだろ! 鼓膜やぶれるっつーの!』
電話越しで沙和がブチ切れているが、そんなことが気にならないくらいうれしいお誘いだった。
外資系有名企業勤務、国内最大手企業勤務、国際線パイロット、弁護士、医者、官僚。スーパーエリートたちが参加する合コンに、桃花が誘われたのだ。今まで参加した合コンが、こう言ってはなんだが、まるで味噌っかすに思えるような超豪華なメンバー構成。
『
一高とは、S県トップの公立高校、県立第一高校の略称で、毎年二桁のT大合格者を出す超超進学校だ。桃花たちの通っていた高校を野良のスッポンとすれば、一高はまさにスーパーブルームーン。県立という一点しか共通項のない、別世界の住人たちが通う高校だった。
そんな雲の上に住まう天上人と、高校で同じグループのメンバーだった瞳が付き合っていたことは、いまだに信じたくない悪夢のごとき現実だった。家が隣同士で、小学生の頃から将来を誓い合っていた仲だったらしい。桃花の『破局しろ』との願いもむなしく、二人は大学卒業と同時に結婚。桃花たちのグループでは、頭八つぐらい抜けた勝ち組になっている。
「売れ残りっつっても、私らとはくらべもんになんないでしょ。私らが規格外野菜でも特に形が悪くて敬遠されて一山百円でも残っちゃうくず野菜だとしたら、向こうは高すぎたり時季外れだったりで売れ残っちゃっただけの超高級野菜みたいなもんじゃん」
沙和がひゅっと息をのんだ気配がした。
『……さすがに私、そこまで自分を卑下したくないんだけど』
「客観視って、大事だよ?」
『う~ん、いや、でもなぁ……。だめだ、めっちゃへこんできた。……まあいいや。で、桃花、ちゃんと参加できんの? あんたの仕事、結構不規則でしょ』
沙和が心配そうに尋ねる。
「だいじょぶ! 内偵かけてた店こないだ潰したから、いまは暇だし!」
『……それ、聞いてもいいやつ?』
「いいって。店の名前までは言わないし」
『ほんとか? ……でも、桃花にとってはマジでチャンスかもね。なんか、あんたをご指名の人がいるんだってさ』
「え⁉ そうなの⁉」
そんなエリート様に見初められる機会なんて、心当たりがまったくない。
『うん。桃花が来るなら、その人も参加するって言ってるらしくてさ。なんか、超レアな人らしいよ? 普通なら、誘ってもこんな合コンなんかには絶対参加しない人らしくてさ。瞳も驚いてたよ。なんでよりにもよって桃花なんだろって』
「どういう意味だよ! ……でも、マジな話、なんで私?」
『さあ? あんた一高生と関わったことあったっけ?』
「記憶にないなぁ。いや、なんか一回だけ、あったような……ま、なんでもいいや! とにかく呼ばれたのは間違いないし! ほんとにありがとね、沙和。今度なんか奢るよ」
『お礼は私じゃなくて、瞳に言いなよ。じゃあ、三日後、午後六時、遅れないでね』
通話が切れた後、桃花は腹の底から湧き上がってくる興奮に、身を震わせていた。
(ついに、ついに訪れた、最大級のチャンス! この幸運、絶対、逃がすわけにはいかないっ! 当初描いた人生設計は既に破綻。仕事のせいで出会いもなく、合コン行っても避けられて、いつの間にやら数えで三十。桃花、頑張れ、気合を入れろ! ここが、今こそが、人生の分水嶺だっ)
「うわははは!」
桃花は、獲物を射程にとらえたハンターのような気持ちで、衝動のままに高笑いをしていた。その姿を、ルームメイトの後輩が自室の陰から気味悪そうに見ていることに、桃花はまったく気付かなかった。
新山桃花。二十九歳女性。独身。S県警察本部に勤務する刑事である。
S県警察本部は、日本でも数少ない独立庁舎を持たない警察本部の一つだ。桃花も毎日、県職員の人たちに紛れこみながら、県庁へと日参している。
階級は巡査部長。所属は組織犯罪対策課第六係。
桃花の属する組対六係は、二年ほど前に新設された係で、正式名称は『S県警察本部刑事部組織犯罪対策課第六係(特命係)』。特命係というと、どうしてもどこかのドラマを思い出してしまうので、基本的には六係、または
たまにガサ入れ、いわゆる家宅捜索の人員として駆り出されたり、暴力団が経営していると思しき夜の店なんかにちょっとした扮装をして内偵をかけたりすることはあるが、それだけだ。ならず者ども相手に切った張ったの大捕物を演じる、なんてことはまったくない。そういうのは、二係や三係に跋扈する、どっちがヤクザかわからん風体のおっさんどもがやればいいのだ。
ちなみに、エレベーターで一緒だった樫山は、二係の主任。バリバリのマル暴で、県内のヤクザどもからはかなり恐れられているらしい。
高三のとき、どこに就職しようかと考えていた桃花に進路指導の先生が言った、「お前体力あるし、身体能力もすごいから、それを活かせる職にした方がいいぞ。警察なんか、向いてるような気がするな」の助言を真に受けて、採用試験を受験、一発合格した。ドロップアウトすることもなく警察学校を卒業し、地元の
元々、腰掛のつもりだった。手早く相手を見つけて、さっさと寿退社するつもりだったのだ。だから、崇高な使命感に燃えてとか、手柄を立てようとか、そんなつもりは一切なく、適当に、まじめに見えるように仕事をこなしつつ、二十五、六ぐらいまでには結婚したいなぁ、なんて考えていた。
ところが、桃花と警察というのは、例えるならキャベツととんかつ、ネギと納豆、鰹節と豆腐、などなど、挙げればきりがないが、とにかくものすごく相性がいい食い合わせだった。進路の先生は、恐るべき慧眼の士だったのだ。
最初に配属された交番で勤務していたとき、巡回に行くたびに盗犯や薬物犯、挙句の果てには殺人の指名手配犯にまで出くわして、桃花はそのいずれをも取り逃がすことなく、見事な手際で逮捕した。
ごくごく短期間で立て続けに業績を上げた桃花は、俄然注目を集めた。とんでもない逸材がきたと喜ぶ署長が直々に手を回し、刑事講習へと送り込まれ、何が何だかわからぬままに刑事になった。
その後、なんだかんだあって、昨年から本部、しかもなぜか組対に配属されてしまう。
ただでさえ、刑事というのは忙しい。合コンに参加することすらままならない。そのうえ、なんであんなヤクザ紛いの連中のなかに放り込まれなければならないのか。
辞令が出たときには、そんなことを、人目もはばからずブーブー言っていた桃花だったが、いざ配属されてみると、借りてきた猫みたいに大人しくなった。組対六係は、極楽浄土もかくやあるらんという勤務先だった。ほぼ毎日定時で帰れるし、宿直も月に二、三度あるだけ。しかも、上司が美人で優しい。
(こんな楽でいいの? ほんとに? 夢でも見てる?)
ほっぺたをつねりながら毎日を過ごしていた桃花だったが、そのうち気づく。好機到来と。
それからはあらゆるつてを頼って、あっちこっちの合コンに何十回と参加し、相手探しに血道をあげている。だが、なかなかいい相手が見つからないわ、三十路の足音はだんだん大きくなるわで、最近は気が滅入る一方だった。そこへ来て舞い込んできた、人生でも二度あるかないかの大チャンス。
桃花の気合が尋常ならざるものであることは、言うまでもなかった。
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