【下巻:理性の黄昏】第一章 嵐の前の静寂
1944年の夏、ベルリンの空は、連合軍の爆撃機が投下する焼夷弾の煙で、鉛色に淀んでいた。街は瓦礫と化し、人々は空襲警報のサイレンに怯えながら、配給の列に並んでいた。私がかつて誇った「奇跡の首都」は、見る影もなかった。戦争は、ドイツ自身の肉体をも喰い始めていたのだ。
私たちの計画は、この絶望的な状況下で、密かに、しかし着実に進んでいた。私は、昼間は経済省のオフィスで、敗戦処理同然の無意味な数字と格闘した。戦車の生産台数をどうやって5%増やすか、合成燃料の配分をどう見直すか。もはや誰も信じていない「最終的勝利」のための議論を、やつれた顔の将軍たちと延々と繰り返す。
だが、夜、官邸の自室に戻ると、私はもう一人の自分になった。私は、反逆者たちの頭脳となった。シュタウフェンベルク大佐が「狼の巣」で爆弾を炸裂させた後、ベルリンの予備軍が「ワルキューレ作戦」の名の下にSSとゲシュタポの中枢を制圧する。その後の数時間が、全てを決める。
私は、その数時間のために、考えうる限りの準備を整えた。
全国のラジオ局を瞬時に掌握し、新政府樹立の声明を流すための放送原稿。経済パニックを防ぐため、全ての銀行と証券取引所を一時的に閉鎖する緊急勅令。そして、弟ダニエルを通じて連合国側に送る、即時停戦と和平交渉を求めるための暗号電文。その全てが、私の金庫の中に眠っていた。
それは、巨大な国家という機械の電源を、一度強制的にオフにし、別のOSで再起動させるような、途方もない作業だった。一つでも手順を間違えれば、ドイツは完全な無政府状態に陥るか、あるいはSSと国防軍による血みどろの内戦に突入するだろう。私の肩には、何千万人もの命が乗っていた。
計画実行予定日は、7月20日と決まった。ヒトラーが東プロイセンの総統大本営「狼の巣」で、定例の作戦会議を開く日だ。
予定日の数日前、私は身辺整理を始めた。死を覚悟しての行動だった。成功しようと失敗しようと、レオ・メンデルシュタムという男が、この先も安穏と生き長らえる可能性は万に一つもなかった。
私は、妻のクララに、スイスの銀行の貸金庫の鍵と、偽造された身分証明書を渡した。
「クララ、もしもの時は、これを持って大使館へ逃げるんだ。手はずは整えてある」
彼女は、全てを察していた。彼女は何も聞かず、ただ黙って鍵を受け取ると、私の胸に顔をうずめた。
「あなた……」その声は、涙で震えていた。「あなたと出会ってから、私の人生は、いつも嵐の中にありました。でも、後悔したことは一度もありません。どうか、ご無事で」
「ああ」私は、彼女の髪を撫でながら、それだけを答えるのが精一杯だった。
私は、書斎の奥から、一枚の古い写真を取り出した。それは、第一次大戦の戦場で、若き日の私とダニエルが、泥まみれの軍服で肩を組んでいる写真だった。あの頃、私たちは、同じドイツを愛し、同じ未来を信じていた。どこで、道を間違えてしまったのだろうか。
いや、と私は首を振る。道を間違えたのは、私の方だ。私は、悪魔の合理性に魅せられ、その悪魔が国を滅ぼすのを手助けしてしまった。このクーデターは、私の贖罪だった。たとえ、それが私の命と引き換えになったとしても、成し遂げなければならない。
7月19日の夜。作戦前夜。
私は、クーデターの同志であるヴィッツレーベン元帥の家で、最後の打ち合わせをしていた。その時、官邸の私室に直通の電話が鳴った。ゲシュタポからだった。
「大臣、今すぐ戻られたい。緊急の要件です」
血の気が引いた。計画が漏れたのか。罠か。私は同志たちに目配せをし、冷静を装って官邸へと車を走らせた。
ゲシュタポ長官カルテンブルンナーが、私のオフィスで待っていた。彼の爬虫類のような目が、私を値踏みするように見つめる。
「大臣、あなたの管轄下にある『帝国才能誘致局』のゲストハウスの一つで、奇妙な金の動きがありましてな。どうやら、国防軍の一部の将校たちが、ここを隠れ家として利用しているようなのです」
心臓が凍りついた。ベック将軍たちが家族を隠している、あのアジトだ。
「……何かの間違いではないかね」私は、必死に平静を装った。「そこは、重要な研究をしているハンガリー人の物理学者一家が使っているはずだが」
「ほう、物理学者ですか」カルテンブルンナーは、粘つくような笑みを浮かべた。「我々もそう思いたいものです。念のため、明日の朝、家宅捜索を行いますが、よろしいですな?」
万事休すだった。明日の朝、家宅捜索が入れば、全てが露見し、我々は作戦決行前に一網打尽にされる。
官邸を出た私は、公衆電話からカナリス提督に緊急連絡を入れた。
「計画は中止だ。漏れている」
『……いや』受話器の向こうで、提督は静かに言った。『もはや、中止はできん。シュタウフェンベルク大佐は、すでに爆弾を持って東プロイセンへ向かった。我々は、進むしかない。ゲシュタポが動く前に、我々が動くのだ』
彼の言葉は、絶望的であると同時に、奇妙なほどの決意を私に与えた。そうだ、もう後戻りはできない。賽は投げられたのだ。
私は、自宅には戻らず、経済省の地下にある通信室へと向かった。そこは、ドイツ全土の通信網を掌握できる、私の牙城だった。
通信室の重い扉を閉めると、私は外の世界から完全に遮断された。壁には、ヨーロッパ全土の地図と、無数のランプが点滅する交換機が並んでいる。
私は、コートの内ポケットから、一枚の紙片を取り出した。弟のダニエルから最後に届いた、短い電文だった。
『幸運を祈る。ゲーテと共にあれ』
私は、目を閉じ、深く息を吸った。
ゲーテ。理性とヒューマニズムの光。私がこの手で裏切ってしまった、古き良きドイツの魂。
今から私がやろうとしていることは、その光を、この国に取り戻すための戦いなのだ。
私は、交換機のヘッドセットを装着した。耳元で、オペレーターたちの声が、遠い世界の喧騒のように聞こえる。
私は、ただ一人、静かにその時を待った。
東プロイセンの森の奥深くで、歴史を変える爆発音が轟く、その瞬間を。
嵐は、もうすぐそこまで来ていた。
(下巻・第一章 了)
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