05

 約束の日。

 夏の空がやけに高く、蝉の声が遠くでじんじんと響いていた。


 待ち合わせ場所は、駅前のカフェ。

 テラス席に、ひとりの女性が座っていた。

 薄い水色のワンピース。肩までの髪が、風にやさしく揺れている。


「……はじめまして」


 かけた声が、少し震えた。


 女性は立ち上がり、私をまっすぐ見つめた。

 そして――泣いた。


「ごめんね……ごめんね……」


 何度も、何度も、彼女は同じ言葉を繰り返した。


 私は、何を言っていいかわからなかった。

 泣きながら笑うその顔は、今の母には似ていなかった。

 でも、どこか懐かしい匂いがした。


「あなたが生まれたとき、私はまだ高校生だったの」

「……」

「どうしても育てられなくて、手放すしかなかったの」


 言葉は胸に刺さるのに、不思議と痛みはなかった。

 たぶん、その涙が、すべてをやわらげていた。


 ケーキと紅茶を前にして、ぎこちない会話が続いた。

 好きな食べ物、子どもの頃の、ちょっとした笑い話――

 言葉を交わすたびに、ほんの少しずつ距離が近づいていった。


 でも、私は心の中で決めていた。

 今の母と、生きていく、と。


 そのことを伝えると、女性は少しだけ目を伏せて、やがて微笑んだ。


「うん……それが、いちばんだと思う」


 


 それから、月に一度だけ会うことになった。

 図書室の《記憶の書架》は、そのたびにページの端を白くしていった。

 未来が、少しずつ書き換えられているようだった。


 やがて、彼女は再婚した。

 新しい家族と暮らし、私との面会は手紙のやりとりに変わった。


 便箋には、いつも季節の花の絵が描かれていた。

 私は学校のことや友達の話を書いて返した。


 会わなくなっても、不思議と寂しさはなかった。

 生きている――ただそれだけで、もう十分だった。


 ある日、図書室で手紙をしまったあと、本を開いた。

 そこには、真っ白なページが広がっていた。

 余白の多いその白は、どこか穏やかで、風の音が聞こえるようだった。


「ふつうって、こんな感じなのかな」


 小さくつぶやいた声が、静かに本の中へ吸い込まれていった。

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