03

 母が生きている。

 それは、奇跡みたいで――でもちょっと違う気もした。


「いづつ、今日の夕飯、何がいい?」


 母は、いつもみたいに笑っていた。


 けれど私は知っている。これは、いつも道りの「いつも」じゃない。


 図書室の奥――私が勝手に《記憶の書架》と呼んでいる棚の、本の一冊。

 昨日、母の死が書かれていたページが、真っ白になっていた。


 運命が、書き換えられた?

 そんなの、あるわけない。……でも、私はもう一度生きている。

 ありえないことは、すでに起きているのだ。


「お父さん、今日遅いの?」


 朝食のとき、何気なく聞いた。


「うん、最近忙しいみたい。帰りも遅くなるって」


 母は笑って答えたけれど――私は昨夜、二人が言い争う声を聞いていた。


「このままじゃ、家が壊れる」

「いづつのこと、ちゃんと見てあげてよ」

「俺だって、精一杯やってる!」


 あの声が、まだ耳に残っている。


 子供のふりをしているけど、心は二十八歳。

 でも、何も言えない。何もできない。




 翌朝、私はまた図書室に行った。

 先生には「お腹が痛い」と言って、保健室を抜け出した。


 《記憶の書架》の前に立つ。


 白いままのページ。

 でも、隣のページに、見覚えのない文字が浮かんでいた。


 ――美空 こずえ 享年三十六歳。


 やっぱり、死ぬんだ……。

 けれど、日付が違う。昨日でも、明日でもない。

 そこには、「未定」とだけ書かれていた。


 私は、その文字にそっと触れた。

 指先が、ひんやりと冷たくなった。


「いづつちゃん?」


 振り返ると、吉川先生が立っていた。


「その棚、あまり触らない方がいいよ。古い本だから、カビっぽいの」


 私はうなずいて、本を閉じた。




 帰り道。

 母が迎えに来てくれていた。

 コンビニの袋の中には、私の好きなプリン。


「今日はね、ちょっと疲れちゃって。夕飯、簡単にしちゃおうね」


 母の笑顔が、少しだけ弱って見えた。


 家に帰って、プリンを食べながら考えた。

 運命は、変わったのか。

 それとも、ただ遅れているだけなのか。


 夜、父が帰ってきた。母と何か話して、すぐ部屋にこもった。

 私は、母の隣でテレビを見ながら、そっと手を握った。


「どうしたの?」

「ううん、なんでもない」


 母の手は少し冷たかった。

 でも、まだ生きている。

 それだけで、今日という日が、少しだけ救われた気がした。


 その夜、夢を見た。

 《記憶の書架》の白いページが、真っ赤に染まっていく夢だった。

 まるで、運命が血を流しているみたいに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る