とらわれびと

多菜玻まや

とらわれびと

「ヒロシ、行くわよ」


 母の声は、夜の空気を裂くようだった。


 僕は妹のミヨリを抱えて、白いトラックの助手席に乗り込んだ。運転席には、無言の男。母が手配した運び屋らしい。


 街は眠っていた。

 信号は点滅し、コンビニの灯りだけが遠くに浮かんでいる。

 僕たちは、誰にも知られず、誰にも見つからず、伊豆へ向かった。目的地は、父のDVから逃れるために母が選んだ別荘だった。


 母は、何かから逃げていた。

 それが何なのか、僕にはわからなかった。

 ただ、母の目は、何かを見ていた。誰もいないはずの夜道を、何度も振り返りながら。




 数日前、東京の小学校で、女友達に相談した。


「それってさ……」

「違う!」


 彼女の言葉を遮り、僕は続けた。

 ――違うんだ。母は、間違ってなんかいない。

 そう思いたかった。




 別荘に着くと、母の血走った目が、ほんの少しだけ和らいで見えた。

 妹を椅子に座らせると、母は僕の顔を見て、かすかに笑った。


「ごめんね。少しの辛抱だから」


 その声が、遠くから聞こえた気がした。

 僕たちは逃げている。でも、それがどこへ向かう逃避なのか、まだわからなかった。


 伊豆の空は、東京よりも少し広く見えた。

 別荘の窓から見える山の稜線が、朝の光に溶けていく。

 母はカーテンの隙間から外を見ていた。何かを探すように、何かを警戒するように。


「ヒロシ、今日は病院行くね」


 母はそう言って、白い帽子を目深にかぶった。


 地元の精神科へ――週に二度、通っていた。

 僕はいつも付き添った。母が一人で行くのを怖がるから。けれど、それ以上に、僕がそばにいたかった。


 病院の待合室は静かだった。

 母は問診票を見つめながら、何度もペンを持ち直していた。

 名前を書くのにも、少し時間がかかった。


「ヒロシ……あの人、来ないよね?」


 母が言う「あの人」は、父のことだった。

 母の中で、父はまだ加害者だった。僕は、うなずくしかなかった。


 診察室の扉の向こうで、母が医師に何かを話している。

 壁の時計が、やけにゆっくり進んでいた。


「今日は、あんまり怖くなかった」


 帰り道、母は少しだけ笑った。

 その言葉が、僕には救いだった。


 別荘に戻ると、母は妹の写真を見つめていた。

 僕は、そっと部屋を出る。


 台所で飲んだ冷たい麦茶が、あの日の葬儀を思い出させた。

 ――あれが、すべての始まりだった。




 ミヨリの葬儀の日。


 庭に面した道路から、参列者が静かに並んでいた。

 小学校の同級生たちが、制服のまま列を作っている。

 白い花ばかりの祭壇。母は魂が抜けたような顔をしていた。

 誰の言葉にも反応せず、ただ、ミヨリの遺影を見つめていた。


 父は、参列者に頭を下げ続けていた。

 僕は、ただその場に立っていた。何もできず、何も言えずに。




 二泊三日の家族旅行の二日目。

 宿泊地から次の宿へ向かう途中だった。

 助手席に乗りたいとせがんだミヨリを、母が笑って乗せた。


 交差点で、八十を過ぎた老人の車が逆走してきた。

 家族は助かったが、ミヨリだけが――。


 警察官は、申し訳なさそうに口を開いた。


「今回の逆走ですが……ご家族は否定していましたが、医師は初期の認知症を疑っていたそうです」




 それ以来、母は夜に歩くようになった。

 夢遊病のように、誰かに追われているように。

 自責の念が、母を壊していった。


 やがて、母は父を避けるようになった。

「ヒロシ……あの人、私に……手をあげるかもしれない」


 母の中で何かが崩れた。


 自分の責任を受け止めきれず、恐怖が妄想へと変わっていった。

 父が食卓で手を上げただけで、叩かれる前触れだと怯える。

 物を取ろうとした仕草を、拳を振り上げたと錯覚する。

 そうして、父が加害者である物語を、母は少しずつ自分の中で編み始めた。


「……あいつは、俺が何をしても、もう届かない」


 父は、かすかに笑った。


 かつては声を荒げた夜もあった。苛立ちをぶつけたこともあった。

 だが今は、諦めにも似た静けさと、かすかな優しさだけがそこにあった。


「ヒロシ、お前から言ってやれ。母さんに――逃げようって。伊豆に行こうって。あいつが自分で決めた、と思えるようにな」


 僕はうなずいた。


 父の言葉に、怒りも悲しみもなかった。

 ただ母を守りたい、それだけだった。


 その夜、僕は母の部屋をノックした。


「ママ……伊豆に行こう。しばらく静かなところで休もうよ」


 母は目を見開き、しばらく黙って俯いた。


 そして翌朝。


「ねえ……ヒロシ、私と一緒に伊豆に行かない?」


 まるで、自分の口から自然に生まれた考えのように。

 僕は、静かにうなずいた。




 ――あの夜のことは、今でも夢のように思える。


 母が「行くわよ」と言った瞬間、僕は妹の写真を胸に抱えて、トラックに乗り込んだ。

 父が手配した運び屋は、無言でエンジンをかけた。


 真夜中の街は、静かすぎて怖かった。

 信号の点滅だけが、僕たちの逃避行を見守っていた。

 母は、後部座席で何度も振り返っていた。誰かが追ってくると思っていたのかもしれない。


 伊豆での生活は、最初は不安定だった。

 母は夜になると窓を見つめ、時々外に出ようとした。

 僕は鍵を隠した。母が泣く夜は、僕も泣いた。

 それでも、少しずつ母の目が穏やかになっていった。


 三ヶ月が過ぎた頃、母は朝の光の中で、ふと僕に言った。


「ヒロシ、ありがとう……パパはどこ?」


 その言葉に、僕は息を呑んだ。

 母の中で、父が加害者ではなくなった瞬間だった。


 僕は父に電話をした。母が会いたがっていると伝えると、父はしばらく黙っていた。


「……わかった。行くよ」




 その週末、父は伊豆に来た。

 別荘の前で、母は戸惑った顔をしていた。

 けれど、父が「大丈夫か?」と言った瞬間、母は涙を流した。


「ごめんなさい……私、ずっと……」


 父は何も言わず、母を抱きしめた。

 僕は少し離れた場所から、その光景を見ていた。

 風が、山の木々をやさしく揺らしていた。


 母が笑って、父がそれを見つめていた。

 その穏やかな光景を見ながら、ふと僕は口を開いた。


「……あの夜、運転してたの、パパだったんだよね?」


 父は少しだけ笑った。


「あいつが安心できるなら、何にでもなってやるさ」


 胸の奥がじんと熱くなった。


 母も、父も、僕も――誰かを責めることで、自分を守っていた。みんな、とらわれびとだったのかもしれない。


 その夜、三人で夕食を囲んだ。

 母は少しだけ笑い、父は静かに箸を動かしていた。

 僕はテーブルの中央に、妹の写真をそっと置く。


「ミヨリも、ここにいるよね」


 母はうなずいた。


「うん……ここにいる」


 食卓に沈黙が落ちた。


 誰も言葉を発さなかった。

 ただ、その沈黙の中で、僕たちはそれぞれの答えを探していた。

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とらわれびと 多菜玻まや @tanahamaya

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