でたらめなサイン

ゴンザレス夫婦

でたらめなサイン

 耳が聞こえないふりをするようになったのは、ただ世界の音がうるさかったからだ。風の音も、車のクラクションも、人の声も、全部が同じ音量で押し寄せてくる。誰かの怒鳴り声と笑い声の区別がつかなくなるときがあった。

 

 大学をやめ、働くこともやめ、朝と夜の違いもよくわからなくなっていた頃。公園のベンチが僕の居場所になった。


 そして桜が散りかけた春の夕方、彼女は現れた。

 中学生くらいの女の子で髪を肩で切り、制服のリボンが少し曲がっている。小さなトートバッグを持っていた。


「ねえ、お兄さん。何してるの?」


 その声が聞こえた瞬間、胸の奥がざわついた。久しぶりに人の声が自分に向けられた気がした。けれど、出たのは反射的な嘘だった。


 指を軽く動かして、耳に手をあて、ゆっくり首を横に振った。


「聞こえません」


 その瞬間、彼女と自分の間に薄い膜ができたような安心感があった。彼女は一瞬きょとんとした顔をしてから、ふっと笑った。


「ふうん、そうなんだ。でも私、話すね。」


 そして、一方的に話し始めた。

学校での出来事、友達のこと、部活での失敗。


 僕は頷く代わりに親指を立てたり、手をひらひらさせたり、両手で丸を作ったりした。

もちろん意味なんてない。ただのでたらめなサインだ。けれど、彼女はそれをまるで手話のように受け取って、嬉しそうに笑った。

 次の日も、またその次の日も、彼女はやって来た。放課後になると、夕陽のオレンジ色の中を走ってやってきて、僕の隣に座る。


 最初のうちは明るい話ばかりだった。


「私、クラスで人気者なんだ」

「友達が多すぎて大変」

「先生も私のこと気に入ってるみたい」


 僕は手を動かして、すごいねのつもりのジェスチャーをした。彼女は満足げに笑う。

その笑顔を見るたびに、胸の奥で何かが温かくなる。けれど、同時にその笑顔には少しの歪みがあった。話に出てくる友達の名前が毎回違うのだ。


 でも僕は気づかないふりをした。

彼女が作る理想の世界は、僕が逃げ出した現実よりもずっと綺麗だったからだ。僕にとっても、それは救いの物語だった。

 ある日、彼女は少しだけ疲れた顔をして現れた。


「ねえ。今日ね、変なこと言われたの。私のこと、ウザいって」


 僕は手を動かした。両手のひらを前に出して大丈夫というつもりの動作。彼女はそれを見て笑う。


「お兄さんってやさしいね。でも本当は、何言ってるか分かってないでしょ」


 その言葉に胸の奥が一瞬止まったように感じた。いや、分かってるよ。そう伝えたかった。



彼女は笑う。


「でも、それでもいいよ」


 それ以来、彼女の話は少しずつ変わっていった。明るい話の中に、時々沈黙が挟まるようになった。声の調子が下がる。話題が途切れる。


「今日ね、体育の時間に転んだの」


 と言いながら、彼女は袖を少しだけまくった。腕に薄いあざが見えた。僕は息を呑みそうになったが、表情を変えないようにした。

 大丈夫のサインをまた送る。彼女はうん、と笑ってみせたけど、その笑顔は痛々しかった。



 その夜、僕は眠れなかった。彼女の声が頭の中で何度も再生された。


「ウザいって言われた」

「消えたいな」


 小さな言葉の断片が暗闇の中で膨らんでいく。僕はスマートフォンを取り出して、彼女の話の中に出てきた友達の名前を検索した。

それはすぐに見つかった。

 SNSでは笑いながらふざける中学生たちのアカウント。そこには誰かを影で嘲笑うような投稿が並んでいた。アイコンの下には、彼女の名前がタグ付けされている。胸の奥が何か冷たいもので満たされた。僕は無意識のうちに画面を保存していた。


 次の日、彼女はまた公園に来た。少し泣きはらした目で。


「お兄さん、聞いてよ。あの子たち、私のこと……」


 僕は彼女の声を最後まで聞かずに、ただ手を動かした。大丈夫。君は悪くない、意味のないサイン。でも僕の中では確かな誓いだった。


 その夜、僕は彼女のいじめの証拠を匿名掲示板に投稿した。画像を添え、彼女の名前は隠し、加害者たちのアカウントを晒した。罪悪感はなかった。誰かがやらなければ、彼女が壊れてしまう気がした。


 数日後、ネットは騒ぎ始めた。中学生によるいじめ動画が拡散し、テレビでも報道された。学校が謝罪するニュースを見ながら、僕は音量をゼロにして画面を見つめた。音のない世界のほうが、ずっと静かで落ち着く。


 次の日、彼女は久しぶりに笑っていた。


「もう大丈夫になったの。最近、みんな優しくしてくれるの」


 僕は手を動かした。

よかった、彼女はにこりと笑う。

少しの沈黙のあと、彼女は言った。


「ねえ、お兄さん。ほんとは聞こえるでしょ?」


 僕の手が止まった。心臓の音がやけに大きく響く。彼女は笑ったまま続けた。


「だってね。ちゃんとお話し聞いてなかったら、あんなことできないよね?」


 僕は小さく笑って、肩をすくめた。彼女は目を細める。


「でも、それでもいいよ」


 言葉の意味を測りかねているうちに、彼女は立ち上がり、またねと手を振った。僕はでたらめなハンドサインを返した。


 それが最後だった。

次の日も、その次の日も、彼女は現れなかった。ベンチの上には制服の曲がったリボンが落ちていた。多分、彼女のものだ。

 指先で拾い上げると、皺を広げた。

風が吹いて、木々の葉がざわめく。遠くで子どもの笑い声が聞こえる。


 世界は相変わらずうるさい。けれど、その騒がしさの中で、ふと小さな声がした。


「ありがとう」


 誰の声かはわからない。確かに聞こえた。

僕は空に向かって、もう一度あのハンドサインを送った。丸でもバツでもない、意味のない形。けれどあの子の笑顔が目に浮かぶ。


 これでいいと思った。僕が音のある世界に戻るには、まだ少し時間がかかりそうだ。

 でもいつかまた誰かに声をかけられたとき、今度はちゃんと、聞こえるふりではなく、聞く勇気を出せるかもしれない。



 僕の耳には、まだ彼女の声が残っている。

風と一緒に少しだけ、優しく響いている。




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