第30話 cantabile grandioso(カンタービレ・グランディオーソ)ー恋を生む歌、歌います
あれから数日が過ぎた。
綾先輩の特別な計らいで、私たちは二日間の完全な休養を与えられた。
その間、私は一度も歌のことを考えなかった。ううん、考えないようにしていた、というのが正しい。あのステージの上で見てしまった、あまりにも強烈な景色。その記憶の光から目を逸らすように、私はただ平凡な高校生としての日常の中に逃げ込んだ。
だが、逃げ切れるはずもなかった。
私たちのあの演奏は、すでに私たちの手を離れていた。
ネットの合唱専門フォーラムは私たちの演奏のことで持ちきりだった。『浅葱色の奇跡』『制御から解放へ』『Σの正統なる後継者か、あるいはアンチテーゼか』。そんな大げさな見出しが画面の上で躍っていた。
私たちは、いつの間にか、ただの高校の合唱団ではなくなっていた。新しい音楽の可能性を示すアイコン。あるいは、危険な禁断の領域に足を踏み入れた異端者。
そのどちらかとして、世界から注目される存在に。
「……なんだか、私たちの歌が」
三日後の放課後。
私はあの川沿いの公園で一人、水面に向かって石を投げながら呟いていた。
「私たちのものじゃなくなっちゃうみたいで……少し怖いな」
石が、ぱしゃん、と小さな音を立てて水面に吸い込まれていく。広がっていく波紋を見つめながら、私はこれから始まる全国大会までの日々の重さを考えていた。
期待という名のプレッシャー。
研究対象としての好奇の視線。
私たちはこれから、そんな無数のノイズの中で歌い続けていかなければならないのだ。
あのステージの上で見つけた私たちの本当の自由を、守り抜くことができるのだろうか。
「……大丈夫です」
不意に背後から静かな声がした。
振り返ると、いつの間にかそこに詩織さんが立っていた。彼女は私の隣にそっと腰を下ろすと、同じように川面を見つめた。
「私たちの始まりはここですから。IDSもスコアも審査員もない、この場所が」
その言葉に、私ははっとした。
そうだ。
私たちはここから始まったのだ。
綾先輩の完璧な制御から逃れて、二人だけで見つけ出したあのささやかなメロディ。
ここには、私たちを評価する誰もいない。
ただ川のせせらぎと風の音と、そして互いの呼吸だけがある。
「……歌わない?」
どちらからともなく、私たちは顔を見合わせて笑った。
練習のためではない。
誰かに聴かせるためでもない。
ただ今、この瞬間に、私たちが歌いたいから歌うのだ。
私たちはベンチから立ち上がると、川に向かって並んで立った。
そして、あの呼吸を始める。
私が吐く。
詩織さんが吸う。
その穏やかな循環の中に、私たちはそっとハミングを乗せた。
それはもう「手離しカノン」という名前のついた作品ではなかった。
ただの即興のハーモニー。
私のソプラノが自由に空を舞えば、詩織さんのアルトが大地のように雄大にそれを支える。
ホールのような反響はない。
私たちの不完全な歌声は、ただ川風に乗ってどこかへと流れて消えていく。
だが、それでよかった。
これこそが私たちの原点。
誰にも評価されず、誰にも消費されない。
ただ私たち二人のためだけに存在する音楽。
どれくらいそうしていただろう。
歌い終えた私たちの耳に、不意に背後から小さな拍手の音が聞こえた。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは綾先輩だった。
彼女はもう指揮者の厳しい顔ではなかった。いつもの練習着でもない。ただの、少し年上の女性が着るような柔らかなセーターを身につけて。どこかはにかむような、それでいてひどく優しい顔で、私たちを見ていた。
「……いい歌ね」
彼女はゆっくりと私たちに近づいてきながら言った。
「……私がずっと忘れていた歌だわ」
その声には羨望と、そしてほんの少しの寂しさの色が滲んでいた。
彼女は私たちの前に立つと、一つの分厚いファイルを差し出した。
「これは私の今までの研究のすべて。安全改変の理論。そして……Σの分析データも少しだけ。……あなたたちに預けるわ」
「え……!?」
「これからの道を作るのは、もう私じゃない。あなたたちだから」
綾先輩は静かにそう言った。それは彼女なりの覚悟の表明だった。
「私は指揮者として、あなたたちの進む道が決して危険なものにならないように全力でサポートする。安全な航路を示す。でも、どこへ向かうのか、その行き先を決めるのはあなたたちの役割よ」
そして彼女は、私の目をまっすぐに見つめて言った。
「ただし、一つだけ約束して。決して自分たちの歌を見失わないこと。誰かのための道具にしないこと。いいね」
私はその重いファイルを震える手で受け取った。
それは彼女の過去のすべてだった。
その重みを引き受けて、私たちは未来へと進んでいくのだ。
綾先輩は満足そうに頷くと、何も言わずに去っていった。その背中はもう孤独ではなかった。確かな希望に満ちているように見えた。
残された私たち。
夕日が川面を黄金色に染めていく。
「……私たちの"恋"は」
隣で詩織さんがぽつりと呟いた。
「私たちのものですよね」
その「恋」という言葉が何を指しているのか。
音楽への愛か。仲間への信頼か。
あるいはもっと別の何かか。
私にはわからなかった。
だが、そのどれもがきっと正解なのだろうと思った。
私は夕日を見つめながら答えた。
「うん。誰にも指揮なんてさせない」
私たちの運命は、私たちの手の中にある。
私たちの恋の行方もまた。
私たちはもう何も話さなかった。
ただそこに並んで立って、遠くで響く教会の鐘の音を聞いていた。
これから全国大会で何が待っているのか。
私たちの歌は世界にどう受け止められるのか。
未来は相変わらず不確かで、わからないことだらけだ。
でも、もう怖くはなかった。
隣に詩織さんがいる。
信じられる仲間たちがいる。
そして何よりも、私たちの胸の中には誰にも奪うことのできない、私たちだけの歌があるのだから。
風が私たちの頬を撫でていく。
私たちはこれからもきっと歌い続けていくのだろう。
この世界に、たった一つの恋を生む歌を。
いつまでも、いつまでも。
恋を生む歌、歌いますーー恋愛薬理合唱団 lilylibrary @lilylibrary
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