第23話 Allegro con brio(アレグロ・コン・ブリオ)ー第一楽章:共鳴
ステージの上に、私たちのための静寂が用意されていた。
客席を埋め尽くす数百の視線。審査員席で、私たちのすべてを値踏みするかのように光る数対の眼鏡のレンズ。
肌を焼くスポットライトの乾いた熱。
その圧倒的なプレッシャーが、一つの巨大な透明な膜となって私たちを包み込んでいた。
私は自分の立つべき位置についた。隣には詩織さん。その向こうには美紀。
私たちの視線の先、数メートル離れた指揮台の上で、綾先輩が静かに私たちを見つめている。
その表情は相変わらず能面のように読み取ることができない。
だが、その握りしめられた指揮棒の先端が、ほんのわずかに震えているのを私は見てしまった。
――綾先輩も戦っているのだ。
私たちと、そして彼女自身の過去と。
やがて彼女はゆっくりと腕を上げた。
だが、その指揮棒は振り下ろされなかった。
始まりの合図は音ではなかった。
――呼吸。
すう、と綾先輩が静かに息を吸い込む。
それに呼応して、私たちカノンの先行者であるソプラノ全員がゆっくりと息を吐き始めた。
それは音を伴わない、ただの温かい空気の流れ。
だがその息には、私たちの歌への祈りにも似た意志が込められていた。
そして、その吐き出した息を受け取るかのように、
詩織さんたちアルトとメゾの後続者たちが静かに息を吸い始めた。
与える息と、受け取る息。
陰と陽。
私たちの間に、目には見えない、しかし確かなエネルギーの循環が生まれる。
そして私は歌い始めた。
「手離しカノン」の第一楽章。
それはどこまでも穏やかで清らかな祈りのようなメロディ。
Affectionを意図的に排除し、Cohesionの極致だけを目指して設計されたパート。
私の声がホールに響く。
それは客席に向かって一方的に放たれる声ではなかった。
私の声は、私たちの間で循環する呼吸の輪の中にそっと置かれた。
すると、その声は次の瞬間には詩織さんの声となり、真帆先輩の声となり、凛さんの声となって、
タペストリーの美しい模様のように次々と編み上げられていく。
私たちは歌っているというよりも、もっと大きな一つの呼吸する生命体になったかのようだった。
壁のランプが、深い深い青色に輝き始めた。
それは私たちが今まで一度も見たことのないほど純度の高い青。
まるで深海の底の、どこまでも澄み切った水の色。
Cohの数値がぐんぐんと上昇していく。
綾先輩の「安全改変」では決して到達することのできなかった領域へ。
ホール全体が、私たちのその青い響きに支配されていくのがわかった。
客席のざわめきが消える。審査員たちのペンを走らせる音が止まる。
誰もがただ息を飲んで、この静かでしかし圧倒的な共鳴の奇跡に聴き入っている。
フレーズの切れ間。ほんの一瞬。
私の視線が詩織さんの視線と自然に交わった。
それはスコアのためでも演出のためでもない、ただの確認。
彼女は私に向かって、ほんのわずかに頷いてみせた。
その瞳が、こう語っていた。
――大丈夫です。繋がっています。
その無言の対話だけで、私の心は温かい信頼感で満たされた。
床から微かな振動が伝わってくる。
綾先輩が警戒していた、このホール特有の低周波共振。
それはまるで私たちの歌に割り込もうとする不協和音の兆し。
だが、その不穏な振動は、私たちの安定した呼吸の大きな円環の中に触れた瞬間、
すうっとその毒気を抜き取られていくようだった。
私たちはノイズと戦っているのではない。
ノイズごと、私たちのハーモニーに取り込んでしまっているのだ。
ちらりと綾先輩の顔を盗み見る。
彼女の能面のような仮面が、わずかに揺らいでいた。
その瞳に浮かんでいたのは――驚き。
まさかこんなことが。理論では説明のつかない現象が、目の前で起きていることへの、純粋な研究者としての驚愕の色。
それはまだ肯定ではなかった。だが、確かな変化の兆しだった。
やがて第一楽章が終わる。
最後の和音がホールに溶けるように消えていく。
そして訪れた、完璧な静寂。
壁のランプは、まるで夜空に輝く星のように強く、そして静かに青い光を放ち続けていた。
私たちの土台はできた。
だが本当の戦いはここからだ。
これから始まる第二楽章。Affectionの甘い誘惑、そしてΣの禁断の旋律の記憶。
その蜜色の嵐の中へ、私たちは今、足を踏み入れようとしていた。
私の喉が、ごくりと緊張に鳴った。
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