第22話 pianissimo / pp(ピアニッシモ)ー静けさのプレリュード
地区大会当日。
ホールの空気は独特の匂いがした。観客たちの期待と興奮が入り混じった甘いような、それでいて少し埃っぽい匂い。ステージの上から漂ってくる、照明機材が放つ熱い金属の匂い。
その非日常的な匂いを吸い込むたびに、私の心臓は緊張で、きりきりと細い糸で締め上げられていくようだった。
私たちはステージ袖の薄暗い空間に集まっていた。
周りでは他の学校の生徒たちが最後の発声練習をしたり、円陣を組んで士気を高めたりしている。
その熱気に満ちた喧噪が、まるで分厚いガラスの向こう側の出来事のように遠くに聞こえた。私たちの周りだけが、奇妙なほど静かだった。
「――顔色が悪いわね」
隣に立った綾先輩が、私の顔をじっと見つめて言った。
「緊張しているの?」
「……少し」
私はかろうじてそう答えた。嘘だ。少しどころではない。足が震えている。指先は氷のように冷たい。今にもこの場の空気に押しつぶされてしまいそうだった。
すると綾先輩は、ふいと私から視線を外した。まるで独り言のように呟く。
「……今日のこのホール、少し厄介かもしれないわ」
「え……?」
「気づかない? このホールの独特の響き方。おそらく設計上の問題でしょうけど、特定の低い周波数が壁に反響して、わずかな共振(レゾナンス)を生んでいる。人間の耳にはほとんど聞こえないレベルの低周波。でも……」
彼女はそこで言葉を切った。そして、これから私たちが立つべきステージの上を鋭い目で見つめた。
「IDSにとってはノイズ源になり得る。このノイズは私たちの、特に昂奮系の感情を意図せず増幅させるトリガーになる可能性がある」
その言葉は、まるで冷たい水を頭から浴びせられたかのようだった。
ただでさえ私たちの「手離しカノン」は予測不可能な危ういバランスの上に成り立っている。
それに加えて、このホール自体が私たちの敵になるかもしれないというのか。
私の動揺が伝わったのだろう。周りにいた他の部員たちの顔にも、さっと不安の色が広がった。
まずい。本番を目前にして、チームの士気が揺らいでいる。
その時だった。
「――皆さん」
静かだが凛とした声。詩織さんだった。
彼女は一歩前に出ると、私たち全員の顔を一人一人見回した。
「大丈夫です。私たちはこの日のために準備をしてきました」
そして彼女は、自分のスクールバッグの中から何かを取り出した。
それは二十数枚の黒い布だった。
「……アイマスク?」
誰かが驚きの声を上げる。
「はい」
詩織さんは頷いた。
「これは叔父のメモにあった、もう一つの『選択的遮断』のための道具です。視覚情報はもっとも簡単に私たちの感情を乱します。観客の視線、ホールの照明、そしてIDSのランプの色。もし本番中、自分の心が乱れそうになったら。周りの熱に飲まれそうになったら――いつでも、これを着けてください」
彼女はそのアイマスクを一枚一枚、私たちに手渡していった。
私の手に渡された黒い布はひんやりとしていて、驚くほど軽かった。
「――これは逃げるための道具ではありません」
詩織さんは続けた。その声には、もう以前のような怯えはなかった。
「これは自分の心を自分の意志で守るための盾です。そして、もっとも純粋な“音だけの世界”に集中するための翼です。――いつでも遮断していいんです。私たちは自由ですから」
その力強い言葉。
それは綾先輩の「制御」とはまったく違う思想だった。
恐怖を無理やり抑え込むのではない。恐怖を受け入れたうえで、それとどう向き合うか。
その選択権は常に私たち自身にあるのだ、と。
詩織さんの言葉は魔法のように、ささくれだった心を穏やかに鎮めていった。部員たちの顔から不安の色が、少しずつ消えていくのがわかった。
やがてステージへの呼び出しのブザーが鳴った。
いよいよ私たちの番だ。
私たちは円陣を組んだ。
だが誰も「頑張ろう」とか「勝つぞ」とか、ありきたりの言葉は口にしなかった。
ただ静かに目を閉じて、互いの呼吸の音を聴き合った。
すー、はー。吸う息と吐く息。
その穏やかな波のようなリズムが、私たちの高鳴る鼓動をゆっくりと一つの大きな流れへと同調させていく。
「――行きましょうか」
やがて目を開けた真帆先輩が静かにそう言った。
私たちは一列になって、光の待つステージへと歩き出した。
私の手の中には、詩織さんからもらった黒いアイマスクが握りしめられていた。まるで小さなお守りのようだった。
ステージの袖から一歩、足を踏み出す。
客席からの無数の視線が、熱いスポットライトの光と共に私の身体に突き刺さる。
ホールの独特の低い共振音が、まるで巨大な生き物の心臓の鼓動のように、床から私の足の裏へと伝わってくる。
これから始まるのは、ただの歌じゃない。
これは、私たちの自由をかけた静かな戦いのプレリュードなのだ。
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