第21話 stringendo(ストリンジェンド)ー決戦前夜

チョークの乾いた音が止んだ。

音楽室の、あの息の詰まるような投票が終わってから数日が過ぎていた。だが、あの瞬間の緊張は今も私の肌に、冷たい汗の記憶としてこびりついている。


結果は、奇跡としか言いようがなかった。

私たちの「手離しカノン」に投じられた票は、綾先輩の「安全改変」の票を、たった一票だけ上回ったのだ。

決定打となったのは、凛さん、そして梢先輩の二票だった。あの、もっとも理論的で、もっとも慎重だったはずの二人が、私たちのあの不確かで危うい歌に未来を託してくれたのだ。


綾先輩は、その結果をただ無言で受け入れた。

彼女は黒板に書かれた、ほとんど同じ高さに積み上がった二つの名前の列を、しばらくじっと見つめていた。そして一度だけ深く息を吐くと、私たちに向き直り、こう宣言した。


「――わかったわ。地区大会は、それでいきましょう」


その声には、もういつもの絶対的な指導者としての響きはなかった。

ただ、深い深い疲労と、どこか諦めにも似た静けさだけがあった。

「ただし、条件がある。この曲の安全管理責任者は私ではなく、あなたたち二人よ、千佳、月島さん。ステージの上で何が起きても、あなたたちが全責任を負うの。いいわね」


それは、彼女が私たちに与えた最後の、そして最大の試練だった。


そして今、私たちは地区大会の前日を迎えていた。

最後の練習を終えた音楽室には、明日への期待と、未知の領域へ足を踏み入れることへの形容しがたい恐怖とが混じり合った奇妙な熱気が渦巻いていた。


私たちの「手離しカノン」は、この数日間で驚くほどの進化を遂げていた。

詩織さんが解読してくれた「呼気と吸気の同期」という呼吸法。それを全員で共有し、実践することで、私たちの歌は以前とはまったく違う次元の響きを手に入れていた。

それはもはやソプラノ、アルト、メゾといったパートごとの声の塊ではなかった。二十数名、一人一人の個別の呼吸が、複雑で美しいタペストリーのように絡み合い、そして解け合っていく。

Affectionという単一の熱狂的な感情ではなく、信頼、尊敬、共感、そしてほんの少しの切なさといった無数の細やかな感情のグラデーションが、その音楽の中に生まれていた。


だが同時に、私たちはこの歌が持つ本当の恐ろしさにも気づき始めていた。

綾先輩の「安全改変」という強力な抑制がなくなった今、私たちの歌は良くも悪くも、あまりにも自由すぎたのだ。

その日のコンディション、精神状態、隣で歌う相手とのほんの些細な関係性の変化。そういった予測不可能な無数のパラメータによって、歌の響きはがらりと表情を変えてしまう。

時には奇跡のような天上のハーモニーが生まれることもあれば、危険なほどAff値が急上昇しかける瞬間もあった。


「……怖いな」

帰り支度をしながら美紀がぽつりと呟いた。

「明日の本番、私たち、本当にこの歌をコントロールできるのかな。もし、またサイレンが鳴ったら……」


その不安は、程度の差こそあれ、私たち全員が抱えているものだった。

綾先輩はあの日以来、私たちの歌に一切口出しをしなかった。ただ、指揮台の上で静かに私たちの歌を観察しているだけ。まるで嵐の海をゆく小さな船の船長が、乗組員たちの覚悟と技量を試すかのように。

彼女は私たちを信じてくれているのか。それとも見限って諦めてしまっているのか。真意は誰にもわからなかった。


解散後、私と詩織さんは二人、音楽室に残っていた。

明日の最終確認のためだ。安全管理責任者として、私たちは考えうるすべてのリスクシナリオを想定しておく必要があった。


「もし、誰かのAff値が急上昇し始めたら」

私が言うと、詩織さんは真剣な顔で答えた。

「その時は、まず私がアルトの響きを、よりセロトニン系の落ち着いた音色に変えます。そして先輩は、そのペアの視線が交錯しないように、そっと間に入る」


「もし、会場の音響ノイズが私たちの感情を煽ってきたら」

「その時は、凛さんのボディパーカッションのリズムをBPM5落としてもらう。強制的にテンポを冷却する」


私たちは、まるで戦闘前の作戦会議でもするかのように、次々と対策を練り上げていった。

だが話せば話すほど、私たちの歌がいかに脆く危ういガラス細工の上にあるのかを、思い知らされるだけだった。


「……ねえ、高坂先輩」

不意に詩織さんが私の顔をじっと見つめて言った。

「先輩は……怖くないんですか?」


「怖いよ」

私は正直に答えた。

「すごく怖い。もし私たちのせいで誰かを傷つけてしまったらって思うと……今にも逃げ出したくなるくらい」


私は窓の外の深い藍色の夜空を見上げた。星は一つも見えない。

「でもね」

私は続けた。

「それ以上に、楽しみなんだ。明日、この歌が、あの大きなホールでどんなふうに響くのか。私たちの、この不器用で不完全な歌が、誰かの心に――たった一人でもいい――届くとしたらって思うと。……ワクワクして、眠れそうにないくらい」


その言葉は、私の偽らざる本心だった。

恐怖と希望。

その、まったく相反する感情が、今、私の胸の中で激しくせめぎ合っていた。


「……私も、です」

隣で詩織さんが、ふふ、と小さく笑った。

「私も、怖くて、楽しみです」


私たちは顔を見合わせて笑い合った。

そうだ。これでいいのだ。

完璧な安全などどこにもない。予測不可能な未来に怯えるのではなく、その不確かさごと愛し、そして歌うのだ。

それが、私たちが選んだ道なのだから。


「――そろそろ帰りなさい」

不意に背後から静かな声がした。

振り返ると、いつの間にか綾先輩がそこに立っていた。

「決戦前夜に夜更かしは禁物よ」


彼女はそれだけを言うと、私たちに背を向けた。

その去っていく背中に、私は思わず声をかけていた。

「あの、綾先輩!」

「……何?」


「……ありがとうございます。私たちに、歌わせてくれて」

それは、ずっと言いたかった言葉だった。


綾先輩は少しだけ足を止めた。

だが、決してこちらを振り返ることはなかった。

「……礼を言うのは、まだ早いわ」

その小さな呟きだけを残して、彼女は夜の闇へと消えていった。

その背中が、ほんの少しだけ震えているように見えたのは、きっと気のせいではない、と私は思った。

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