第20話 Chorale(コラール)ー投票、あるいは祈り
最後のピース――叔父さんが残した、呼吸法のメモ。
あの日、電話越しに聞いた詩織さんの、震えるほどの興奮は、私の心にも、瞬く間に、伝播した。それは、暗闇の中で、ずっと手探りで壁を伝って歩いていた私たちが、ついに、本物の出口へと続く、一筋の光を、見つけたかのような、鮮烈な希望だった。
だが、その希望は、同時に、私たちを、大きな決断へと、追い立てることになった。
地区大会まで、あと一週間。
この、「完成された手離しカノン」を、私たちの胸の内だけに、秘めておくわけにはいかない。この歌を、私たちの、そして、セラフィータの、本当の歌として、あのステージで響かせるためには、最後の、そして、最大の、壁を、越えなければならなかった。
――綾先輩という、壁を。
「……綾先輩に、直接、見てもらうしかない」
月曜日の、早朝。まだ、誰も来ていない音楽室で、私と詩織さんは、向かい合っていた。朝日が、床のワックスに反射して、私たちの足元を、金色に照らしている。
「まともに、取り合っては、もらえないかもしれない。また、目の前で、破り捨てられるかもしれない。でも、私たちは、もう、黙っていることはできないよ」
私の言葉に、詩織さんは、静かに、しかし、強く、頷いた。
「はい。……これはもう、私たちの義務なんだと、思います。叔父が残した、この答えを、伝える義務が」
その日の、放課後のミーティング。
すべての練習メニューが終わった、その、最後の時間。
私は、すっと手を挙げた。音楽室中の視線が、一斉に私に集まる。指揮台の上で、今日の練習ログを確認していた、綾先輩の怪訝そうな顔も、そこにはあった。
「――綾先輩。そして、皆さん。私たちから、一つ、提案があります」
私は、詩織さんと、視線を交わした。大丈夫。二人なら、きっと、できる。
「地区大会で、歌う曲についてです。私たちは、今、先輩が作ってくださった『安全改変』バージョンではない、別の曲を歌いたいと考えています」
その言葉は、静かな水面に、重い石を投げ込んだかのような、大きな波紋を、引き起こした。
「何を、言っているの、千佳……?」
真帆先輩が、信じられない、という顔で、私を見る。玲奈はあからさまに、「馬鹿じゃないの」とでも言いたげな、冷笑を浮かべていた。
綾先輩は、何も言わなかった。
ただ、その瞳の奥で、冷たい青い炎が燃え上がるのを、私は見た。彼女は、すべてを察していたのだ。私たちが、彼女の命令を破り、あの禁断の歌に、再び手を伸ばしたことを。
「……いいでしょう」
やがて、彼女は、静かに言った。その声は、嵐の前の、不気味な静けさを湛えていた。
「あなたの言う、『別の曲』とやらを、聴かせてもらいましょうか。この場で、皆の前で。そして、判断するのは私ではない。ここにいる全員よ」
そして、彼女は、私たちに、宣告した。
「今から、投票を行います。地区大会の最終曲目を決めるための、最終投票。私の『安全改見』か、それとも、高坂さんたちが、これから見せる、その『何か』か。――全員の、総意によって、私たちの運命を、決めましょう」
それは、あまりにも、残酷な、公開処刑の宣告だった。
私たちの、まだ、生まれたばかりの、未熟な歌が、今、この場で、多数決の論理という、もっとも、無慈悲な刃に、かけられようとしている。
だが、私たちは、もう、引けなかった。
私と詩織さんは、音楽室の中央へと、進み出た。
心臓が、破裂しそうなくらい、速く、そして、強く、脈打っている。
私は、目を閉じた。そして、詩織さんと、あの、呼吸を、合わせた。
私が、息を、吐き始める。
隣で、詩織さんが、その息を受け取るように、静かに、息を吸い始める。
与える息と、受け取る息。
陰と、陽。
私たちの間に、小さな、しかし完璧な、エネルギーの循環が、生まれる。
そして、私たちは、歌い始めた。
「手離しカノン」。
完成された、その、本当の姿を。
それは、もう、ただの美しいメロディではなかった。
呼吸そのものが、音楽になっていた。私たちの声は、決して、一つにはならない。だが、その絶妙な「ズレ」が、互いの存在を、これ以上ないほど、強く肯定し合っている。
あなたは、あなた。私は、私。
その、境界線を尊重し合ったまま、私たちの魂は、もっとも深く、共鳴していた。
クライマックス。
私たちは、ゆっくりと、手を、伸ばしていく。
指先が、触れるか、触れないかの、その、数ミリ。
そして、最後の、静寂。
私たちは、ゆっくりと、息を吐きながら、その手を、下ろした。
――解放(リリース)。
歌い終えても、音楽室は、水を打ったように静まり返っていた。
誰も、何も、言えない。ただ、そこにいる全員が、今、目の前で起こった、小さな奇跡の、証人になっていた。
私は、恐る恐る、綾先輩の顔を見た。
彼女は、指揮台の上で、固まっていた。その表情は、能面のように、固く、何を考えているのか、まったく、読み取れない。だが、その、きつく握りしめられた、彼女の拳が、白くなるほど、力が込められているのを、私は、見逃さなかった。
「……さあ」
やがて、綾先輩は、絞り出すような声で、言った。
「投票を、始めましょうか」
彼女は、一枚の白紙を、黒板に貼り付けた。そして、チョークで、二本の、縦線を、引いた。
左側には、『安全改見』。
右側には、『手離しカノン』。
「自分の、意志を、示すこと。匿名は、許さない。全員、自分の名前を書いて、どちらかに、票を投じなさい」
それは、もはや、ただの投票ではなかった。
どちらの未来を選ぶのか。どちらの音楽を、信じるのか。私たちの、信念そのものが、問われている。
それは、祈りにも似た、儀式だった。
部員たちが、一人、また一人と、黒板の前に、進み出ていく。
チョークが、黒板を叩く、カリ、カリ、という、乾いた音だけが、音楽室に、響き渡る。
私は、ただ、目を閉じて、その、運命の音が、終わるのを、待つことしか、できなかった。
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