第19話 Coda(コーダ)ー最後のピース

**(視点:月島詩織)**


凛さんの、あの、静かな敗北宣言。

それは、私たちの「手離しカノン」が、ただの理想論や、感傷的な自己満足ではないことを、初めて、証明してくれた出来事だった。私たちの、ささやかな反抗の歌は、あの、もっとも、理論と効率を信奉していたはずの彼女の心を、確かに、揺さぶったのだ。


その週末、私は、再び、叔父の書斎にいた。

床に座り込み、あの黒い革のノートと、関連するメモの束を、床一面に、広げていた。以前、この部屋を訪れた時とは、私の心は、まったく違っていた。ここは、もう、ただの、哀しい思い出が眠る、埃っぽい場所ではなかった。私たちが、進むべき道を示す、コンパスが隠された、宝の地図。その地図を、もう一度、読み解かなければならない。


凛さんの一件は、私たちに、勇気と、同時に、新たな課題を与えていた。

私たちの「手離しカノン」は、美しい。優しい。だが、それだけで、本当に、綾先輩の、あの鉄壁の理論で固められた「安全改変」に、対抗できるのだろうか。私たちの歌が持つ力の、その根拠となる、絶対的な「何か」が、まだ足りない気がしてならなかった。


私は、もう一度、あのΣの署名が入った、一枚のメモを手に取った。

『――本当の安全は、抑制(サプレス)の中にはない』

その言葉を、指先で、そっと、なぞる。


私の目は、これまで、その、大きな、核心的な言葉にばかり、奪われていた。だが、今日は、違った。私は、そのメモの、余白に、走り書きされた、小さな、小さな、注釈の方に、目を凝らした。それは、あまりにも乱雑な文字で、インクもかすれていて、これまで、私は、それを、ただの、意味のない落書きか何かだと、思っていたのだ。


だが、よく見ると、そこには、いくつかの単語が、書かれていた。

『遅延カノン』という言葉の、すぐ横。


『――呼気同期(Exhale Sync)にあらず。『呼気⇄吸気』の同期(Exhale⇄Inhale Sync)なり』


呼吸の、同期……?

私は、眉をひそめた。合唱の基本は、ブレスを合わせることだ。同じタイミングで吸い、同じタイミングで吐く。それがユニゾンの基礎。だが、ここに書かれているのは、その常識とは、まったく、逆のことだった。


私は、さらに、その、虫が這ったような文字を、必死で、解読しようと試みた。

『カノン先行者(Leader)は、吐き。後続者(Follower)は、吸う。陰と、陽。与える息と、受け取る息。情動の、一方的な『交換』ではなく、双方向の、『エネルギー循環』を、生成す。AffからCohへの、不可逆的転換を、呼吸レベルにて、誘発する、鍵』


―――鍵。


その言葉を見た瞬間。

私の頭の中で、鳴りを潜めていた、いくつもの断片が、一つの、美しい星座を、結んだ。


そうか。

そういうこと、だったのか。


私と、高坂先輩が、音楽準備室で、そして、川沿いの公園で、あのカノンを歌った時。どうして、あれほどまでに、心地よく、そして、少しも、苦しくなかったのか。

思い出してみる。

先輩が、最初のフレーズを、歌い始める(息を、吐く)。

それを聴いて、私は、追いかけるための、次のフレーズの準備をする(息を、吸う)。

私たちの呼吸は、無意識のうちに、この、陰と陽の、サイクルを、描いていたのだ。


綾先輩の教える、「同期ブレス」は、全員が同じ方向を向いて、Affectionという、同じ一つの感情の奔流を、作り出すための技術だ。それは、心を、一つに溶かし合わせる、強力な接着剤。だが、一歩間違えれば、個々の心を呑み込んでしまう激流にもなる。


だが、この、「呼気と吸気の同期」は、違う。

与える側と、受け取る側が、常に入れ替わり続ける、安定した、エネルギーの循環。それは、心を溶かし合わせるのではなく、互いの心を、尊重し合い、その独立性を保ったまま、共鳴させるための、呼吸法。

Affectionという、一方通行の、危うい感情移入を、Cohesionという、双方向の、揺るぎない信頼関係へと、「転換」させるための、最後の、そして、もっとも重要な、ピース。


「……すごい」

私の口から、思わず、感嘆の声が、漏れた。

叔父さんは、ここまで、たどり着いていたのだ。Σという、禁断の音楽の、その、暴走を止めるための、究極の、安全装置(フェイルセーフ)に。

それは、機械でも、理論でもない。

ただ、人間の、呼吸という、もっとも、根源的な営みの中に、隠されていたのだ。


その時だった。

「――詩織? 何か、面白いものでも、見つかったの?」

書斎の扉の隙間から、母が、心配そうに、顔をのぞかせた。


「お母さん」

私は、母の方を、振り返った。

「そういえば、叔父さんって、変な呼吸の練習とか、してなかった?」


母は、少し、考え込むような仕草をした。

「さあ……。でも、そう言われれば、あったかしらねえ。書斎で、よく、ストップウォッチを片手に、『すー、はー』って、やってたわよ。吸う時間と、吐く時間を、細かく、計ったりして。何か、健康法か、ヨガか何かだと、思ってたけど」


間違いない。

叔父さんは、この呼吸法を、一人で、完成させようとしていたのだ。


私は、いてもたってもいられなくなった。

高坂先輩に、知らせなければ。

私たちの「手離しカノン」を、完成させるための、最後のピースが、見つかった、と。


私は、震える指で、スマホを取り出し、先輩の番号を、呼び出した。


「もしもし、先輩……? 私です。今、大丈夫ですか」

『月島さん? どうしたの、そんなに慌てて』

電話の向こうから、先輩の、穏やかな声が、聞こえてくる。


「先輩……見つけました。叔父さんのメモに……最後のピースが」

「最後の、ピース?」

「はい。私たちの歌が、どうして、苦しくないのか。その理由です。『手離しカノン』を、完成させるための、たった一つの、呼吸法……!」


私は、受話器を握りしめながら、窓の外の青い空を見上げていた。

叔父さんが、最期に、見つけ出した、希望の光。それは、絶望の淵から、人の心を救うために、彼が、私たちに残してくれた、最後の贈り物なのかもしれない。

もう、私は、Σの、そして、叔父さんの血を引くことを、恐れない。

むしろ、誇りに思う。

この、最後のピースを、私たちの手で、完成させてみせる。

私の胸の中には、これまで、感じたことのないような、静かで、しかし、確かな、決意の炎が、灯っていた。

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