第14話 mezzo voce(メッゾ・ヴォーチェ)ー境界線の交渉

私たちだけの秘密の盟約が結ばれた一方で、合唱団の表層では、また別の種類の亀裂が、静かに広がっていた。それは、アルトリーダーである真帆先輩と、彼女とペアを組むメゾの梢先輩との間に、生じたものだった。


この二人は、私たちから見れば、理想的なペアに見えた。三年生同士としての、揺るぎない信頼関係。規約を絶対視し、その運用に一切の妥協を許さない真帆先輩の厳格さと、それを実務的な面から、常に的確にサポートする梢先輩の慎重さ。二人のハーモニーは、決して情熱的ではないが、まるで精巧な木組みの建築のように、常に安定的で、揺らぎがなかった。


だが、綾先輩の「安全改変」が導入されて以来、その完璧なバランスに、微かな、しかし、無視できない軋みが生じ始めていた。


その日の練習は、地区大会を間近に控え、特に、第四層――個別ペアとの接近演出――に焦点を当てたものだった。安全改変された儀式曲の中で、いかにしてスコアを最大化できるか、効果的な視線の交錯や身体的な接触を設計するか。それは、もはや音楽というよりも、フィギュアスケートの振付に近い、緻密な作業だった。


「――ここの、八小節。真帆と梢は、互いに一歩、前に出て。そして、相手の左手に、自分の右手を、そっと重ねる。Aff値が、最も高まるポイントよ。ただし、指は組まないこと。あくまで、重ねるだけ。接触面積を最小限に抑えることで、Obsessionへの移行リスクを回避する」


綾先輩が、指揮台の上から、具体的な指示を出す。

私たちは、固唾を飲んで、二人の動きを見守っていた。

真帆先輩は、楽譜の指示通り、完璧なタイミングで、一歩を踏み出した。その表情は、感情を排した、模範的な生徒のものだ。


だが、梢先輩の動きは、どこか、ためらいがちだった。

彼女は、一歩前に出るタイミングが、コンマ数秒、遅れた。そして、真帆先輩が差し出した手の上に、自分の手を重ねるその瞬間、彼女の指先が、ほんのわずかに、震えているのを、私は見てしまった。


その、ほんのわずかな躊躇が、IDSには、明確な「ノイズ」として記録された。

Aff値のグラフが、上昇しかけて、いびつな形で、失速する。壁のランプの蜜色が、一瞬、濁った。


「……梢。どうしたの」

綾先輩の声が、鋭く飛ぶ。

「タイミングが、ずれているわ。それに、身体が硬直している。そんな状態では、情動同期など、起こせるはずがない」


「すみません……」

梢先輩は、顔を伏せたまま、小さな声で謝った。隣で、真帆先輩が、心配そうな、しかし、どこか、いらだちを隠せないような表情で、彼女を見つめている。


「何か、問題でもあるの?」

綾先輩の、詰問するような声。

梢先輩は、しばらく、黙っていた。そして、意を決したように、顔を上げた。その瞳には、深い、葛藤の色が浮かんでいた。


「……先輩。私は、この演出に、まだ、完全には、同意できていません」


その言葉に、音楽室の空気が、凍りついた。

第四層への同意は、楽曲ごと、演出ごとに、更新される。それは、私たちの権利だ。だが、大会を目前に控えたこのタイミングで、しかも、部の中心である三年生のペアから、その言葉が出たことは、私たちに、大きな衝撃を与えた。


「同意できていない、ですって?」

綾先輩の声のトーンが、一段、低くなる。

「理由を聞かせてもらえるかしら。この演出の、どこに、問題が?」


「……問題は、演出に、ではありません」

梢先輩は、一度、言葉を切ると、隣に立つ、真帆先輩の顔を、まっすぐに見つめた。

「問題は、私と、真帆との間に、あるんだと、思います」


真帆先輩の肩が、ぴくりと、微かに震えた。


「真帆は、いつも、完璧です。規約も、練習も、すべて、正しくあろうとする。その、真面目さが、私は、好きだし、尊敬しています」

梢先輩は、ゆっくりと、言葉を紡いだ。それは、まるで、ずっと言えずにいた、告白のようだった。

「でも、だからこそ……時々、怖くなるんです。あなたが、私と歌っている時、私自身を見てくれているのか、それとも、私の向こう側にある、『規約通りの正しいパートナー』という、理想像を見ているだけなのか、わからなくなる時が、あるんです」


その言葉は、あまりにも、率直で、痛々しかった。

真帆先輩は、何も、言い返せなかった。彼女の、いつもは自信に満ちた表情が、みるみるうちに、崩れていく。血の気が引き、唇が、微かに震えている。


「この演出で、あなたに触れたら……」

梢先輩は、続けた。その声は、涙で、潤んでいた。

「今の私には、わからない。これが、本当に、歌のための、音楽のための接触なのか。それとも、あなたの期待に応えるための、ただの、義務になってしまうのか。その、心の準備が、私には、まだ、できていないんです。ごめんなさい、真帆……」


それは、規約という、絶対的なルールでは、決して、解決することのできない、二人の、心の問題だった。

同意書に、サインをすることはできる。だが、心が、それに追いついていない。その、ぎりぎりの境界線の上で、梢先輩は、たった一人で、苦しんでいたのだ。


綾先輩は、腕を組んで、黙って、そのやり取りを聞いていた。

彼女の、完璧な「安全改変」という名の設計図には、おそらく、このような、人間の、曖昧で、理不尽な感情の揺らぎは、想定されていなかっただろう。


「……わかったわ」

やがて、綾先輩は、静かに言った。

「今日のところは、この演出は、保留にしましょう。梢、あなたの気持ちは、尊重する。――だが、梢。一つだけ、覚えておきなさい」


彼女は、梢先輩の、そして、私たち全員の目を、一人一人、見つめながら、言った。

「舞台の上では、あなたの『心の準備』ができていようがいまいが、観客には、一切、関係ない。私たちが問われるのは、結果だけ。そのことを、忘れないで」


その言葉は、冷たく、そして、紛れもない、真実だった。

私たちは、自分たちの心を守る権利と、そして、結果を出すという、責任との間で、常に、引き裂かれているのだ。


その日の練習後、誰もいなくなった音楽室で、真帆先輩が、一人、ピアノの前に座って、ぼん-やりと、鍵盤を眺めているのを、私だけが見ていた。その背中は、ひどく、小さく、そして、傷ついているように見えた。

完璧な規約も、精密な安全改変も、人の心の、もっとも柔らかな部分で起こる、この静かなすれ違いの前では、あまりにも無力だった。

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