第13話 Duetto(デュエット)ー二人だけの秘密

**(視点:再び高坂千佳)**


月曜日の練習は、これまで以上に息が詰まるものだった。

綾先輩の「安全改変」は、さらに精密さを増していた。メトロノームの無機質なクリック音に合わせて、私たちは、まるで感情の設計図でもなぞるかのように、声を、呼吸を、表情さえも、完璧にコントロールすることを求められた。


私の心は、壊れたポンプのように、歌う喜びを、少しも吸い上げることができなくなっていた。ただ、楽譜に書かれた青いインクの注釈を、正確に実行するだけの、声帯を持つ機械。練習が終わる頃には、大好きな歌を歌ったはずなのに、沈黙を強いられた時よりも、ずっと深く疲弊していた。


「――高坂先輩」


解散後、一人、音楽室の窓辺に立って、夕焼けに染まるグラウンドを眺めていると、背後から、小さな、しかし、決意を秘めた声がした。振り返ると、詩織さんが、まっすぐに私を見つめて立っていた。その手には、古びた、黒い革のノートが一冊、大切そうに抱えられている。


「少し、お時間、いただけますか。どうしても、先輩に見ていただきたいものが、あるんです」


彼女の、ただならぬ雰囲気に、私は頷くことしかできなかった。

私たちは、誰にも見られないように、音楽準備室の、楽器が並ぶ薄暗い片隅へと移動した。古い譜面台の匂いと、松脂の匂いが、濃密に漂っている。


詩織さんは、無言で、その黒いノートを開き、中に挟まっていた、一枚の、黄ばんだレポート用紙を、私に差し出した。

「これ……」


私は、そのメモを受け取った。紙は、ひどく脆く、指先で少し力を入れただけで、崩れてしまいそうだった。そこに書かれていたのは、万年筆による、知的で、少し神経質な筆跡の文字。

読み進めるうちに、私の呼吸が、浅くなっていくのがわかった。


『――安全改変は、不完全だ。魂の共鳴は、止められない』


最初の、その一文だけで、私の心臓は、鷲掴みにされたかのような衝撃を受けた。

そうだ。私が、ずっと、この身体で感じていた違和感。あの、美しい鳥籠の中で感じていた、息苦しさの正体。それは、気のせいでも、私の感傷でもなかったのだ。


私は、貪るように、文字の続きを追った。

ダムの比喩。感情の奔流。連鎖暴走(カスケード)の危険性。

そして、最後に書かれていた、その言葉。


『――本当の安全は、抑制(サプレス)の中にはない。それは、自らの意志による、解放(リリース)の中にのみ、存在する。『手離し』の技術』


手離し。

その言葉を見た瞬間、私の脳裏に、あの日の光景が、鮮やかに蘇った。

校内発表会の、最後の和音。熱に浮かされた美紀の瞳から、私が、自らの意志で、視線を外した、あの瞬間。繋がりかけた回路を、ぷつりと断ち切った、あの、孤独で、しかし、確かな手応えのあった、あの感覚。

あれが、そうだったのだろうか。


「……これ、一体、どこで?」

私は、ほとんど、かすれた声で尋ねた。


詩織さんは、ぽつり、ぽつりと、週末に起こった出来事を、私に語り始めた。亡くなった叔父さんのこと。彼の書斎のこと。そして、彼が、おそらくは『Σ』の研究に、深く関わっていたであろう、という、衝撃的な事実。


「叔父は、たぶん……人を傷つけるために、これを作ったんじゃないんだと、思うんです」

詩織さんは、自分の胸の前で、ぎゅっと指を組んだ。

「母が言っていました。『人の心を、本当に救うことができる音を探している』って。でも、その方法を、間違えてしまった……。そして、たぶん、最後に、本当の答えに、たどり着いていたんだと、思うんです。この、『手離し』っていう言葉に」


彼女の言葉を聞きながら、私は、バラバラだったパズルのピースが、恐ろしいほどの速度で、一つの絵を形作っていくのを感じていた。

綾先輩の、安全への異常なまでの執着。それは、Σが引き起こした、過去の悲劇を、間近で見てしまったからなのではないか。そして、彼女が作り出した『安全改変』は、その悲劇を二度と繰り返さないための、彼女なりの、必死の防衛策なのだ。

だが、その方法は、このメモによれば、根本的に、間違っている。それどころか、もっと大きな、破滅的な事故を、引き起こしかねない、時限爆弾だという。


「……このこと、誰かに話した?」

私は、詩織さんの目を、まっすぐに見て聞いた。


彼女は、静かに、首を横に振った。

「いえ……。怖くて、誰にも。……高坂先輩にしか、話せないと、思いました。先輩なら、この言葉の、本当の意味を、わかってくれるんじゃないかって」


その信頼が、重く、そして、温かく、私の両肩にのしかかってくる。

そうだ。これは、もう、私と彼女、二人だけの問題だ。綾先輩にも、真帆先輩にも、話すことはできない。彼女たちは、決して、このメモの言葉を、信じないだろう。ただの、危険思想だと、一蹴するに違いない。


私たちは、二人だけで、見つけなければならないのだ。

この、『手離し』の技術の、本当の姿を。

綾先輩の、完璧な『制御』に対抗できる、唯一の、そして、本当の意味で安全な、歌い方を。


「……ありがとう、月島さん」

私は、彼女から預かったメモを、そっと、自分の胸ポケットに仕舞い込んだ。まるで、壊れやすい、小さな雛鳥を守るかのように。

「これは、二人だけの、秘密にしよう。そして、二人で、見つけよう。私たちの、歌を」


「……はい」

詩織さんは、こくり、と、力強く頷いた。その瞳には、もう、迷いの色はなかった。

薄暗い音楽準備室の片隅で、私たちは、誰にも気づかれない、小さな、しかし、決して折れることのない、共犯関係を結んだ。

それは、合唱団を、そして、私たち自身を守るための、静かで、孤独な、戦いの始まりだった。夕闇が、窓の外を、深い紫色に染め上げていた。

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