第12話 Étude(エチュード)ー叔父の書斎
**(視点:月島詩織)**
私の家には、開かずの間がある。
正確に言えば、誰もが開けることを、無意識にためらってしまう部屋。二年前に亡くなった、母の弟――私にとっての叔父が、生前使っていた書斎。彼の時間は、あの部屋の中だけで、固まって、止まってしまっている。
その日は、土曜日だった。合唱団の練習は、午前中で終わった。綾先輩が作った「安全改変」という名の、美しい鳥籠の中で歌う練習は、回を重ねるごとに、私の心を、少しずつ、確実に、すり減らしていた。家に帰っても、あの息苦しいハーモニーが、耳の奥で、低い唸りのように響き続けていた。
「詩織。少し、いいかしら」
リビングでぼんやりと窓の外を眺めていると、母が、少し言いにくそうに、私に声をかけた。
「おじさんの書斎……そろそろ、少しずつでも、片付けようと思うの。手伝って、もらえる?」
叔父は、物静かで、いつも夢を見ているような人だった。大学で、音響物理学、だったか、何か難しい研究をしていると聞いていた。幼い頃、私がピアノを弾いていると、いつもそばで目を閉じて、それをじっと聴いていた。そして、「詩織ちゃんの音は、正直だね」と、一度だけ、そう言って、優しく頭を撫でてくれた。あの、大きな手の、ごつごつとした感触を、今でも覚えている。
書斎の扉を開けると、古い紙と、インクと、そして、微かな珈琲の香りが、混じり合った匂いがした。叔父の匂いだ。壁一面の本棚には、専門書が、まるで要塞の石垣のように、ぎっしりと詰め込まれている。そのほとんどが、私には到底理解できない、数式や図形で埋め尽くされた、外国語の本だった。
「この段ボールに入っている、大学の資料だけでも、少し整理してくれると助かるわ。あの子、音楽のことになると、周りが見えなくなる人だったから」
母は、そう言うと、何かを思い出すように、少しだけ、寂しそうな顔をした。
私は、言われた通り、床に積まれた段ボールの一つに、手をかけた。中には、手書きのメモや、論文の抜き刷り、そして、膨大な量の、五線譜のコピーが、無秩序に詰め込まれている。叔父は、作曲家ではなかったはずだ。なのに、どうしてこんなにたくさんの楽譜が。
そのほとんどは、私が見たこともないような、複雑で、前衛的な音楽だった。だが、それらを一枚一枚、指先でめくっていくうちに、私は、ある共通点に気がついた。どの楽譜にも、片隅に、青いインクで、同じ記号が、走り書きされている。
――Σ。
私の心臓が、どきり、と、嫌な音を立てて跳ねた。
まさか。
そんなはずはない。あの、禁曲の作者。合唱界の、最大のタブー。物静かで、優しかった叔父さんと、結びつくはずが、ない。
私は、何かの間違いだと思いたくて、さらに、段ボールの底を漁った。
そして、見つけてしまった。
一冊の、使い込まれた、黒い革張りのノート。
それは、他の資料とは明らかに違う、叔父の、個人的な研究日誌のようだった。ページをめくると、彼の、少し癖のある、だが、知的な文字が、びっしりと並んでいる。数式、グラフ、そして、断片的な、音楽への考察。
『――情動同期における、共鳴周波数の特異点について』
『オキシトシン反応を最大化させるための、和声的トリガーの仮説』
『IDSの計測限界。観測行為そのものが、情動に与える影響――』
その、専門的な記述の中に、不意に、私のよく知る単語が、現れた。
『安全改念(セーフティ・モディファイ)』
それは、綾先輩が、今、私たちに教えている、あの技術の名前だった。
私は、息を飲んで、そのページを読んだ。
そこには、叔父の、苦悩に満ちた、思索の跡が、記されていた。
『――綾君の提唱する、セロトニン系和声による強制冷却(クーリング)は、確かに、Obsession値の抑制に、短期的には効果が見られる。だが、これは、あまりにも、対症療法的に過ぎるのではないか』
綾、君……?
まさか綾先輩のことだろうか。だとすれば、叔父と先輩は、知り合いだった……?
私は、震える指で、ページをめくった。
そして、ノートに挟み込まれていた、一枚の、大学のロゴが入ったレポート用紙を見つけた。それは、走り書きの、メモだった。だが、そこに書かれていた言葉に、私は、血の気が引くのを感じた。
『――安全改変は、不完全だ。魂の共鳴は、止められない。
冷却和音は、ダムのように、感情の奔流を、一時的にせき止めるに過ぎない。だが、水圧は、内側で、高まり続けている。完璧な音響を持つホール、触媒(カタリスト)となる歌声、そういった、いくつかの条件が揃ってしまった時、ダムは、必ず、決壊する。その時起こるのは、制御不能の、共鳴りの連鎖暴走(カスケード)だ。
本当の安全は、抑制(サプレス)の中にはない。
それは、自らの意志による、解放(リリース)の中にのみ、存在する。
――『手離し』の技術。それこそが、Σが、最後に行き着くべきだった、唯一の、救いだったのかもしれない』
そして、そのメモの、一番最後。
万年筆の、かすれたインクで、あの記号が、記されていた。
Σ。
間違いない。
私の叔父は、Σだった。あるいは、Σという、匿名の研究者グループの、中心にいた人物だったのだ。
「……お母さん」
私は、いつの間にか、書斎の入り口に立っていた母に、震える声で尋ねた。
「叔父さんって……大学で、一体、どんな研究を……」
母は、少し、遠い目をした。
「さあ……? 難しいことばかりで、私には、よくわからなかったわ。でも、一度だけ、言っていたことがあったかしらね」
「……なんて?」
「『人の心を、本当に救うことができる音を探しているんだ』って」
人の心を、救う音。
その言葉が、私の胸に、重く、そして、悲しく響いた。
叔父は、禁断の音楽で、人を救おうとしていたのだろうか。そして、その研究の果てに、自分自身が、その音楽に呑み込まれてしまったのだろうか。
私は、叔父が残した、黒い革のノートと、一枚のメモを、強く、強く、胸に抱きしめた。
綾先輩のやっていることは、間違っているのかもしれない。いや、叔父の言葉を信じるなら、それは、「安全」という名の、時限爆弾なのだ。
どうしよう。
この、あまりにも重すぎる真実を、私は、どうすればいいのだろう。
私の頭に浮かんだのは、たった一人の顔だった。
――高坂先輩。
あの人なら、このメモに書かれた、「手離し」という言葉の、本当の意味を、理解してくれるかもしれない。
書斎の窓から差し込む西日が、私の手の中にある、叔父の最後の言葉を、まるで、聖遺物のように、照らし出していた。
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