第11話 legato(レガート)ー安全改変という名の鎖
緋色の兆候。
あの、禁断の光が私たちの目の前で灯って以来、音楽室には、目に見えない、冷たいガラスの壁ができてしまったようだった。私たちは、互いの歌声を、そして、自分自身の内側から湧き上がる感情さえも、どこか疑いの目で見つめるようになっていた。あの緋色の光は、本当に機材の暴走だったのか。それとも、私たちの心の闇が、歌によって引きずり出された、最初の兆候だったのか。その答えは、誰にもわからなかった。
EIDOLON社の新型センサーは、綾先輩の断固とした態度によって、正式に撤去された。私たちは、旧式の、良くも悪くも「鈍感な」システムへと戻った。だが、一度見てしまった精密すぎる内面の地図は、そう簡単には忘れられない。私たちは、自分たちの心が、いかに脆く、いかに危険なものであるかを、知ってしまったのだ。
そんな、不信と恐怖が、澱のように沈殿する空気の中で。
綾先輩は、ひとつの決断を下した。
「――地区大会では、この曲でいきます」
ミーティングで、彼女が私たちに配布したのは、一冊の、真新しい楽譜だった。そこに記されたタイトルを見て、私たちは息を飲んだ。それは、私たちがこれまで歌ってきたどの曲よりも、難易度が高く、そして、情動誘発効果が強いことで知られる、儀式曲のプロトコルに指定された楽曲だった。本来であれば、今の私たちの精神状態で、到底扱えるはずのない、危険な曲。
「無茶です、先輩!」
すぐに、真帆先輩が反対の声を上げた。
「今の私たちに、この曲はコントロールできません。また、サイレンを鳴らすことになります」
「その通りよ」
綾先輩は、真帆先輩の言葉を、静かに肯定した。
「――オリジナルのまま、歌えば、ね」
彼女は、譜面台に置かれた楽譜の一部分を、指揮棒の先で、とん、と指し示した。
「これは、私が編曲した、『安全改変(セーフティ・モディファイ)』バージョンよ」
安全改変。
私たちは、楽譜に目を落とした。そこに書き加えられていたのは、綾先輩の、几帳面で、精密な、青いインクの書き込みだった。
曲の、もっともAff値が高まるクライマックス。本来であれば、抱擁にも似た、完全なる一体感を促すためのカデンツァが置かれている部分。その和声進行が、まったく違う、より開放的で、個々の独立性を保つための、複雑な響きへと、完全に書き換えられていた。
「このアレンジの目的は、Affectionの最大化と、Obsessionの完全なる抑制。その両立よ」
綾先輩は、まるで、精密機械の設計図を解説するエンジニアのように、冷静に語り始めた。
「特定の部分に、意図的に解決を促すセロトニン系の和音を挿入することで、過剰な昂奮を、強制的に冷却する。呼吸法も、通常の同期ブレスではなく、吸気と呼気のタイミングを、パートごとに微妙にずらす『ディレイ・ブレス』を導入するわ。これによって、完全な一体化を防ぎ、個々の自律性を保ちながら、IDSのスコアだけを、安全に引き上げる」
それは、あまりにも理論的で、完璧な設計だった。
私たちの感情という、曖昧で、危険なエネルギーを、音楽理論と音響心理学という名の、頑丈な檻の中に閉じ込めてしまおうという試み。暴走する感情を、技術によって制御する。それは、まさに、綾先輩がずっと追い求めてきた、理想の形そのものだった。
部員たちからは、安堵と、そして、賞賛の声が上がった。
「すごい……これなら、私たちでも歌えるかもしれない」
「綾先輩、天才だよ……」
だが、私は、その楽譜を見つめながら、言葉にできない、強い違和感を覚えていた。
この、青いインクで書き加えられた、無数の注釈。それは、私には、楽譜というよりも、もっと別のものに見えた。
――これは、鎖だ。
私たちの心を、がんじがらめに縛り付けるための、巧妙に作られた、音の鎖。
その日の午後、私たちは、初めて、その「安全改変」バージョンの練習に入った。
歌い始めて、すぐに、私は自分の予感が正しかったことを、確信した。
声が、息苦しい。
歌っているはずなのに、心が、少しも解放されない。
綾先輩の指示通り、ディレイ・ブレスを行い、指定されたセロトニン系の和音を歌う。すると、確かに、Aff値の上昇には、明確なブレーキがかかる。IDSの数値は、驚くほど安定していた。70の閾値を超えることなく、60台後半という、競技的には理想的な数値を、完璧に維持し続けている。
だが、その代償として、私たちは、歌の、もっとも大切な何かを、奪われていた。
それは、予測不可能な、魂の化学反応。
声と声が溶け合った瞬間に生まれる、奇跡のような、ただ一度きりの響き。その、もっとも美しい部分が、この安全改変アレンジによって、完全に、去勢されてしまっている。
これは、音楽じゃない。感情をシミュレートするための、高度なプログラムだ。私たちは、ただ、そのプログラムを、声で実行しているだけの、端末に過ぎない。
練習後、私は、一人、綾先輩の元へ向かった。
彼女は、指揮台の上で、今日の練習ログを、熱心に分析していた。
「先輩。少し、よろしいですか」
「千佳? どうしたの」
「あの、今日の曲のことなんですけど……」
私は、言葉を選びながら、慎重に切り出した。
「歌っていて……なんだか、すごく、苦しいんです。まるで、心を、技術で無理やり縛られているような……」
私のその言葉に、綾先輩は、タブレットから顔を上げた。その表情は、ひどく、疲れているように見えた。
「……それは、あなたの感傷よ、千佳」
その声は、静かだったが、明確な拒絶の色を帯びていた。
「私たちは、プロの競技者を目指している。感傷で、チームを危険に晒すことはできない。このアレンジは、今の私たちにとって、唯一の、そして最善の道。論理的に、そうでしょう?」
「でも、論理だけじゃ、人の心は動かせないんじゃ……」
「動かせるわ」
綾先輩は、私の言葉を、きっぱりと遮った。
「少なくとも、審査員を『動いたように見せる』ことはできる。IDSのスコアが、それを証明する。それが、今の競技合唱の世界よ」
それ以上、私は何も言えなかった。
彼女の瞳は、まるで、分厚いガラスの向こう側にあるかのように、遠かった。彼女は、もう、私の言葉が届かない場所へ、行ってしまっている。そう感じた。
それは、かつて綾先輩が私にだけ、ほんの断片的に語った、「親友を失った事故」に関係しているのかもしれない。
あの、Σの断片が眠る孤独な研究室に、彼女の心は囚われたままなのだ。
私は、ただ、黙って頭を下げることしかできなかった。
音楽室の隅で、そのやり取りを、詩織さんが、じっと見ていたことに、私は気づいていた。その瞳には、私への同情と、そして、綾先輩への、かすかな畏れとが、複雑に混じり合っていた。
その日から、私たちの練習は、この「安全改変」という名の、美しい鎖に繋がれた。
IDSの数値は、日を追うごとに、安定し、向上していった。私たちの歌は、技術的に、日に日に、完璧なものへと近づいていく。
だが、その完璧さと引き換えに、私たちの歌声から、何かが、確実に、失われていっているのを、私は、感じずにはいられなかった。
それは、かつて私たちが持っていたはずの、不完全で、危うくて、でも、どこまでも自由だった、魂の響きだった。
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