第10話 appassionato(アッパッショナート)ー緋色の兆候
県大会予選を、私たちは、どこか釈然としない気持ちで突破した。
浄化の儀式は、確かに私たちの頭を冷やした。だが、一度知ってしまった熱狂の味、そして、ライバルたちが使うかもしれないという禁断の技術の噂は、消えない染みのように、私たちの意識の底に残っていた。そんな揺らぎの真っ只中に、それはやってきた。
「――EIDOLON社より、新型の高感度センサーが正式にトライアル導入されます」
朝のミーティングでの、綾先輩からのその発表は、部内に、歓迎と、そして、かすかな拒絶という、二つの相反する反応を引き起こした。
玲奈をはじめとする数名は、「これで聖アガタに勝てる」と、その性能への期待を隠さない。一方で、私や、そして詩織さんのような、歌と心の関係に、より繊細な感覚を持つ者たちは、あの無機質な機械が、私たちの聖域である音楽室に恒常的に設置されることに、本能的な抵抗感を覚えていた。
「使用にあたっては、私が全責任を負います。少しでも異常があれば、即時、使用を中止する。いいわね」
綾先輩は、そう釘を刺したが、その表情は、彼女自身が、この決定に完全には納得していないことを物語っていた。スポンサーからの圧力を、断りきれなかったのだろう。
その日の午後、EIDOLONの担当者が再び現れ、私たちの譜面台や胸につけるクリップ、そのすべてが、新型センサーへと交換された。旧型に比べて、それは、ひどく冷たく、そして、鋭利な印象を与えた。
システムの電源が入れられると、壁の大型モニターに、これまでとは比較にならないほど膨大な情報が映し出された。私たちの、一人一人の心拍の波形、呼吸深度のグラフ、声紋のスペクトル分析。それは、もはや私たちの内面を覗き見るというレベルを超えていた。魂に、直接、聴診器を押し当てられ、その鼓動の一切を、白日の下に晒されているような、屈辱的なまでの侵襲感。
「ご覧の通り、感度は素晴らしい。微細な感情の揺らぎも、完璧に捉えています」
担当者の男性は、まるで新しい玩具を自慢する子供のように、得意げに言った。
「……まずは、慣らし運転から。よく歌い込んでいる、安定系の曲でいくわ」
綾先輩は、あえて、もっとも安全な曲を選んだ。私たちが、目を閉じていても歌えるほど、身体に染み付いたレパートリー。ここで異常が起きるはずがない、という、最低限の安全確認。
歌が、始まった。
最初は、すべてが順調だった。Coh(青)の光は、深く、安定している。Aff(蜜色)の光も、楽曲の展開に合わせて、教科書通りに、緩やかな起伏を描いている。
新型センサーは、確かに、私たちの歌を、より解像度高く描き出しているようだった。
だが、曲が中間部に差し掛かった時。
私は、見てしまった。
壁の大型モニターの、隅の方。システム全体の環境ノイズを示すインジケーターに、ほんの、一瞬だけ。
――緋色(ひいろ)の光が、点滅したのを。
それは、まるで、機械の血管に、一滴だけ、異質な血が混じり込んだかのような、異様で、不吉な光だった。
Oblession。執着。
IDSが計測する、三つ目の危険指標。
私たちの誰もが、練習で、一度も灯したことのない、禁断の光。
指揮をする綾先輩の顔に一瞬、微かに、しかしはっきりと、驚愕の色が浮かんだ。
「……さっきの、何です?」
歌い終わり、私は、合唱中、目が合った綾先輩に近づき、かすかな声で尋ねた。
「あの緋色の光って……」
「ノイズよ」
綾先輩は、いつもの冷静な表情で答えた。だが、その声には、明らかに動揺の色が混じっている。
「感度が高すぎて、空調の低周波か何かを拾っただけ。気にするな。歌に集中しなさい」
その時、観察していた担当者が、私たちの会話に割り込んできた。
「ああ、あれは気にしないでください。高感度センサーにありがちな、ゴーストというやつです。壁の鉄骨の共振か、あるいは、近くの放送電波を拾ったのかもしれない。すぐにソフトウェアのパッチで修正します。それよりも、このAff値の立ち上がりの速さを見てください。素晴らしいデータだ」
本当に、そうだろうか。
私には、そうは思えなかった。あの緋色の光は、そんな無機質なノイズではなかった。もっと、生々しい、何か、意思を持った生き物のような、不気味な脈動を感じたのだ。
「――もう一度、同じ曲を」
綾先輩が、何かを確かめるように、そう指示した。
二度目の演奏。
私は、意識の半分を、あの緋色の光に集中させていた。
そして、それは、再び現れた。一度目よりも、さらにくっきりと。曲が、もっともエモーショナルなフレーズに達した、まさにその瞬間。緋色の光は、まるで、歌に呼応するかのように、強く、脈打った。
その時だった。
「――あっ」
メゾパートの、あるペアから、短い悲鳴のような声が上がった。二人の声が、一瞬、乱れる。
私は、彼女たちの譜面台のサブディスプレイに目をやった。
そして、凍りついた。
二人の間に表示された、個別の同期指標。その、Oblのインジケーターに、確かに、緋色のランプが、一秒間だけ、灯っていたのだ。
Obl: 3
その数字は、あまりにも小さかった。だが、ゼロではない。あってはならないものが、私たちの歌の中に、確かに、生まれた瞬間だった。
曲が終わる。
綾先輩は、すぐに、そのペアに駆け寄った。
「どうしたの、今の?」
「わかりません……歌に集中してたはずなのに、急に……」
声を上げた方の生徒は、ひどく混乱していた。彼女は、青ざめた顔で、自分のパートナーを見つめながら、震える声で言った。
「急に、なんだか……この子が、他の誰かと歌うところを、想像したら、ひどく、嫌な気持ちになって……。他の誰にも、渡したくないって、一瞬、強く……。変なんです、私……怖くて……」
独り占めしたい、という、黒い感情。
それが、Obsessionの本質。
綾先輩の顔から、さっと血の気が引いていくのがわかった。
彼女は、振り返ると、EIDOLONの担当者を、射殺さんばかりの眼光で睨みつけた。
「――練習、中止! 全員、すぐにセンサーを外しなさい!」
その、悲鳴に近い命令。
担当者が、慌てて何かを言おうとする。
「何故止めるんですか! OBLのトリガー条件が特定できるかもしれない、絶好の機会だというのに!」
「私の生徒は、あなたの実験動物ではありません!」
綾先輩の、激しい怒声が、音楽室に響き渡った。
「このセンサーは、安全性が完全に確認されるまで、使用を全面禁止します。今すぐ、お引き取りください!」
担当者は、明らかに不満そうな顔をしたが、綾先輩の気迫に押され、何も言えずに、機材を片付け始めた。
私たちは、言われた通り、自分の身体につけられた、冷たい機械を、そっと外した。
音楽室には、重い、重い沈黙が満ちていた。
誰もが、理解していた。
私たちは、自分たちの知らないうちに、禁断の扉に、指をかけてしまっていたのだと。
あの緋色の光は、ただの兆候に過ぎない。その扉の向こう側には、もっと深く、もっと暗い、私たちの知らない感情の闇が、口を開けて待っている。
綾先輩が、自分の、微かに震える手を見つめているのを、私だけが見ていた。
彼女は、恐れているのだ。この、新しすぎる技術が、自分自身の「制御」すらも、超えてしまうのではないか、と。
緋色の兆候は、私たちの歌に、そして、私たちの心に、静かに、そして確実に、その影を落とし始めていた。
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