第五話 ANGEL or JOKER

「吾妻、大丈夫かなぁ…」

 現在、時波は若干不満だった。

 寮に帰る道中、白倉がずっと気にしているのは「吾妻」のこと。

 自分や九生、他の生徒の名前が出てこない。

 先ほど、自分が一緒のチームに入っていいか?と伺っただけで凍り付いた吾妻を放置して、白倉を引っ張ってきたのは自分なのだが。

「…時波も、そんな急に言わなくてもいいだろ」

 時波はムッとした。

 足をぴたり、と止める。寮のエントランスホール。

「なんだ。それは」

「え?」

 何気ない一言だったらしく、白倉は時波の不快げな表情に吃驚する。

「今までは常に俺達の肩を持っていたのに、付き合った途端、吾妻の肩ばかり持つわけか?」

「……え」

「………悪い。勝手な言い分だったな」

 ぽかんとしている白倉に、時波は我に返る。

 さっきのは、自分の言い分が勝手だった。

 口下手なのをあまり悔やんだことはない。自分の意図を、汲んで話してくれる仲間が常に傍にいたからだ。

 彼らにすまないと思い、感謝をすることはたくさんあったが、敢えて変わろうとは思わなかった。

 そのままの関わり方を楽しんでいたところもあったからだ。

「…時波?」

「いや、…彼氏が出来て友人が素っ気なくなった女の心境はこんなものだろうか、と実感している」

「…時波が言うと怖いなあそれ…」

 鞄を持ち直し、白倉は真顔で言う。すぐにくすり、と可愛らしく笑った。

「でも、優先順位はあんま変わってないぞ?」

「吾妻が一番じゃないのか?」

「…吾妻は別格なんだよ」

 白倉は頬を微かに赤くして、恥じらいながら言う。

 時波の中で面白くない気持ちが頭をもたげる。

「…でも、俺の中で、時波や九生もずっと別格だったから」

「…」

「…だから、二人と吾妻だったら、全部取ると思う。欲張りなんだ。

 片方いらんって、放れるほど、どっちかが軽いってことないんだもん。

 両方、おなじくらい重い」

 頬は赤いまま、それでも自分たちを心底想ってくれる、優しい表情が目の前にある。

 時波は胸が暖かくなったのを感じる。

「…それなら、しかたないな」

「?」

「我慢しよう」

時波は笑って言う。柔らかく、嬉しそうに。

 白倉もつられて微笑む。

「なにを?」

「吾妻の特別扱いを」

「そこか」

 楽しそうに笑う白倉の声を聞いて、向こうの廊下から九生が顔を出した。

「おお、帰ってきとったんか」

「あ! 九生!」

 白倉がハッとして駆け寄ってくる。

 九生は一瞬嬉しげにしたが、白倉の安堵したような表情になにかを感じて顔を引き締めた。

「どないしたん?」

「いや………」

 思わず身構えてしまい、九生はハッとする。

 身体を楽にして、なんでもないと告げると白倉も安心した。

「さっきまで、探してた。いないから」

 しかし、その台詞に九生は先ほどの警戒心が戻ってきた気がした。

 自分を探すような用事。嫌な予感がする。

「…なんじゃ?」

「あのな、俺、しばらく吾妻の部屋に泊まっていいかな?」

 と、全開の愛らしい微笑みで言われ、九生は固まった。

 許可したはずの時波も白倉の背後で固まった。

「……な、なんで?」

 震えた声で九生は問う。

「え? だって、今まで九生と時波が邪魔しとったから、これからがっつり一緒にいたいんだ」

「…がっつりって単語使う場面じゃない気もするが…。寝るまでの間、吾妻の部屋におるだけじゃ嫌なんか?」

「欠乏症だもん。…吾妻と一緒に寝たいもんー…」

 少しふくれた頬は赤く、それが逆に可愛らしい。

 拗ねた声も、幼い気がしてかわいかった。

 素直に可愛いと言えないのは、それが吾妻のためだからだ。

「同じベッドで寝る気なんか!?」

「うん。駄目?」

 首を傾げて、白倉は澄んだ瞳で問いかける。

 九生はぶんぶん首を左右に振った。

「白倉」

 時波が静かに名前を呼び、ゆっくりと首を左右に振る。念押しのように二回。

「…自ら、狼にその身を差し出すことはないんだぞ?」

 切々と語るその言葉をうっかり聞いてしまった岩永は、「なんか違うような…」と思った。

 エントランスホールの外。晴れた、まだ明るい空の下で、岩永は隣の夕を見た。

 夕はあの後、トレーニングルームに行き、まだ訓練していた岩永を待って、一緒に帰宅した。

「なにを心配しとるんかな?」

「え? …だから、なんかあったらって話だろ?」

「ああ…」

 岩永に問われ、夕は中の話が終わるのを待ちながら答える。

「万一、白倉がキスマークなんかつけてきたら、吾妻、あいつらに殺されるんじゃないんか…」

 夕がそう呟き、岩永を見上げると、彼は疑問符を浮かべていた。

「きすまー……なに?」

「…え?」

「きす……なんとかってなに?」

 すっとぼけているわけでも、カマトトぶってるわけでもない、本気で知らない顔で問われた。

 夕は内心、久々に来た、と思った。

 岩永には、一年以上前の記憶がない。

 彼には確固とした十七歳の己があり、知識があったため、失われたのは主に「他人」に関する記憶だ。

 しかし、「知識」に関しても、実は結構欠落があったのだ。

 今までにも、以前までは通じていた話が通じなくて、こんな状態になったことがあった。

 その都度、皆、岩永にきちんと教えたし、彼も一回で覚える勤勉さがあったから問題はなかった。

 岩永は以前、村崎と付き合っていたし、ごくたまにその肌にキスマークが残っていたこともあったから、経験済みのはずだが、その記憶もないわけだ。

「…セックスわかるか?」

 夕は考えに考えて、結局そう聞いた。慎重に。

「それは流石にわかる」

「よかった」

 夕は露骨にホッとしたのだが、

「ただ、具体的になにするかわからんわ」

「……………………」

 すぐに、ホッとした自分をもの凄く悔やんだ。

 根本的なところが「わからない」じゃないか。それ。

 わかってるって言わない。それ。

「…………………………吾妻を捕まえて…いや、あいつのサンプルはまずいな…」

 小声で呟いた。吾妻は見るからに詳しそうだが、あいつをお手本にしたら、すっごくまずい気がする。


 一方、白倉と時波と九生。

「二人とも心配しすぎだよ?」

 深刻な顔をする二人に、白倉はほわほわとお花のように笑った。

「吾妻は、二人が思うような性急な男と違うから」

 吾妻に全幅の信頼を置いたこの妹の目を覚ますことは敵わないのか。

 二人はちょっと泣きたくなった。




 吾妻は白倉たちから三十分遅れで帰宅した。

 長い廊下を歩いていると、不意に遠くで声がした。

 よく聞くと九生だ。

「――――れてしまうじゃろ? 白倉はあいつを信用しすぎじゃ!」

 廊下の向こうに立っているのは、九生ではない。化野だ。

T字路のような形の廊下で、化野の向こうに九生がいるのだろうが、吾妻の位置からは壁に隠れて見えない。

 化野は穏やかに笑って話を聴いている。

「一緒になんか――――たら、三日と保たず食われるぜよ」

 肝心な部分が聞こえなかった。吾妻が少し歩を進めると、気づいた化野が視線で「止まれ」のサインを寄越した。これ以上進んだら気づかれるということか。

 吾妻は素直にその場で止まる。

 まともに取り合わない化野に、九生は不満そうな声を漏らした。足音が響いて、遠ざかる。

 しばらくそこで待つと、化野が吾妻に向き直って手招いた。

 九生が去ったらしい。

「どうしたの?」

 化野の傍に駆け寄って、問う。

「んー。聞きたい?」

 もったいぶった言葉に、吾妻は眉を寄せる。

「僕と白倉絡みでしょ? そうじゃなかったら僕がいても問題ないよ?」

「…ま、そうだね」

 化野は腕を組んで、ゆったりと微笑んだ。

「心配なんだってさ。

 キミがすぐにでも白倉に手を出しやしないか」

「………」

「晴れてつき合えたんだから、キミだっていつまでも手を繋ぐだけで満足、なんて清いこと言わないだろう?」

 化野の言いたいことがわかった。

 吾妻は真顔で、

「そりゃ、ずっとは無理だけど」

 と言い、不意にふんわり、としか形容できない緩みきった笑みを浮かべる。

「白倉が、僕と出会った日のこと思い出してくれたし、傍にいてくれるし、好きって言ってくれるし……しばらくは、このままで充分幸せ」

 ほんわりした顔で、幸せそうに語る吾妻を、化野は半眼になって見上げ、残念そうな顔をする。

「化野?」

「いい子すぎてつまんない」

「…?」

「出来れば、あの九生が『もきゃー!』ってなるような、言葉とか態度を希望したいな。

 俺は」

 化野は腕を組んだまま、悠然と微笑んで背中を向ける。

 歩き出した化野を追う理由もない。

 そのまま見送った吾妻はぽかんとした。

 意味が、わからない。

「吾妻?」

 どのくらいその場にいたのだろう。

 傍で聞こえた柔らかいテノールに、我に返る。

「白倉!」

 弾かれたように反対側を向くと、そこには私服に着替えた白倉の姿。

 にっこりと微笑んで、自分に駆け寄る姿を吾妻は嬉しそうに見つめた。

「待っててくれたの?」

「うん。もう帰ってきたかなって」

 半分は「ううん。たまたま通っただけ」という返答もシミュレートしただけに、白倉の素直で可愛らしい返事に、吾妻は頬を染めて彼を抱きしめた。

「可愛い…」

「……」

 白倉は吾妻の腕の中で身じろぎしたが、嫌がる様子はなく収まった。

「いつもそれだな」

「ん?」

「…かわいいとかって」

「だって、かわいいもん」

 腰を両手で抱いたまま、顔を見下ろしてはっきり言う。

 白倉が耳まで赤くなった。

「怒ってたら、俺、怖いんだって」

「はは。誰が言ったの?

 僕は、そんな顔もすごく別嬪でたまらない」

 でれでれに笑って、本心から言うと白倉は恥ずかしそうにして、吾妻の肩口に顔を埋める。

「嘘つき」

 詰る声は、甘くて本音じゃないとわかる。

 ああ、かわいい。

「本当に。

 僕、白倉と二度目に会った体育館で、怒った白倉にかわいいって言ったでしょ?」

「…あ」

 白倉は思い出したのか、一言、声を漏らす。

「本気だよ。あれ。

 美人が怒るのはすごくたまらない。

 白倉は、特に、格別だよ」

「…他の美人もときめくんだ?」

 白倉の視線が少しだけきつくなる。

 吾妻は心底可愛く思った。そんな嫉妬しなくていいのに。

「そうだねえ。戦いでねじ伏せたくは、なるね。苦しそうな顔も、美人やと見応えはある」

「……」

「で、白倉は、守りたくなる。

 苦しい顔も、泣いた顔もして欲しくない。

 笑ってて欲しい。

 それは、白倉だけ」

 翡翠の瞳を見て、優しく微笑んで告げると、白倉は目を瞑った。

 ぱちぱち瞬きして、瞳を潤ませた。

「特別? 俺」

「あの日からずっと……僕の“最愛”」

 愛おしさをこめて囁き、抱きしめる。

 白倉は腕の中で、とろけたように、綺麗に笑った。

 吾妻の背中に手を回して、ぎゅっとしがみついてくる。

「…可愛い……いかん。…本当に、幸せ」

 腕の中に収まる身体。香る匂い。背中に回される指。

 自分を真っ直ぐ見つめる瞳。

 愛しすぎて、どうにかなりそう。

 そっと撫でた髪の毛が、柔らかくて、何度も撫でる。

 やみつきになる。やめられない。

 白倉の柔らかい髪の毛に、頬を寄せる。

「…ずっと、白倉のこと、撫でてたい…」

「ずっと?」

「うん。ずっと…」

 幸福に溶けた声で言う。

 すると、白倉は更にきつく抱きついてくる。

「じゃあ、ずっと撫でてて?」

「…うん。もちろん」

「寝る時もな?」

「…う……え!?」

 思わずそのまま頷きそうになって、吾妻は驚いた。

 白倉の髪の毛に埋めていた顔を起こす。

「…俺、吾妻の部屋にしばらくホームステイする。

 これから一緒に寝て起きような?」

 とてもとても愛らしい笑顔で言う白倉に、先刻の言葉が蘇った。


『出来れば、あの九生が「もきゃー!」ってなるような、言葉とか態度を希望したいな。

 俺は』


 意味が、今頃わかった。

 そういうことか。

 今のままで、しばらくは充分だ。

 幸せで幸せで、堪らないから。

 でも、毎日一緒に寝るとなると、……自信がない。




「お風呂、入らんの?」

 吾妻の部屋に文字通り泊まり込むことにしたらしい白倉は、風呂からあがってきてそう言った。

 長く大きいソファの上に寝転がった吾妻は顔を上げて、微笑む。

「うん。今日はいい」

「…そっか」

 白倉は時計を見遣って、呟く。

「こんな時間だしな」

 時計の時刻は十一時。眠いのだろうと納得した。

「…吾妻?」

 欠伸をした白倉は、不意に吾妻がソファの上の身体に毛布をかけるのを見て、不思議になった。

「いつも、ソファに毛布おいとくの?」

「今日はな」

「…ソファで寝るの?」

「…今日は」

 吾妻は視線を逸らして、気まずそうに答えた。

「え! 嫌だそんなの! 意味ないじゃん!」

 白倉があからさまにショックを受けて叫んだ。

 吾妻はそれにびっくりする。

「し、しらくら?」

「じゃあ、俺もソファで寝る!」

 持参した薄いクリーム色のパジャマ姿で、吾妻の傍の床にしゃがみこみ、白倉は真剣に、若干拗ねて言った。

 吾妻は更に驚いた。

「い、いや、せまいよ?」

 この部屋のソファは破格に大きいが、しかし自分と白倉が一緒に寝るのは不可能だ。

 第一、そんなことしたら自分がソファで寝ようとする意味がない。

「狭かったらそれでいい!」

「し」

「そしたら、吾妻に目一杯くっつくからいいの」

「……っ」

 拗ねた顔で、頬を膨らませて意地になっているが、口から出た言葉の破壊力足るや、筆舌に尽くしがたい。

 自分に目一杯くっつく。そんな可愛らしく大胆な台詞を、白倉の口から聞ける日が来ようとは!

 しかし、この場合は喜んでもいられない。

「吾妻は、一緒に寝たくない?

 俺、吾妻と一緒のベッドで寝たいから、ここに泊まるんだよ?」

 柔らかい絨毯の敷かれた床にぺたりと座り、白倉は両手を足の間に置く。

 上目遣いに見上げてきて、囁く。

「なぁ、吾妻…。

 一緒に寝よ? ほんで、俺が寝るまで頭、ずっと撫でてて?」

「…っっ!!」

 吾妻は思わず顔を背けて、ソファに手を突き俯いた。

 鼻を押さえて悶絶する。


(可愛いっ……!!! ていうかやばい…勃つっ…!)


「吾妻?」

 まだまだ早い。今のままで充分だと言ったその日から、この様だ。

 だって、白倉と一緒に寝て、なにもしないまま一晩過ごせる自信なんかない。

 そんな志津樹壁の理性ではないのだ。

 あ、でも取り敢えず、今の表情と角度と台詞は脳内アルバムの殿堂入りで頭に焼き付けて置こう。

「女の時、俺と一緒に寝たがったん吾妻じゃないか。

 俺がそう思ってもいいだろ?」

「……う、うん」

 どうにか笑みを浮かべて、再び白倉の方を向く。

「やったら、一緒に寝よ?

 ほんで、腕枕して?」

 さっきの姿勢のまま、小首を傾げてお願いされて、吾妻は思わず白倉の細い肩をわし掴んだ。

 そのまま抱きしめるか、キスで唇を塞ぎそうになって、堪える。

 どうにか暴走しそうな自分の両手を白倉の肩から引き剥がし、切れそうな理性をつなぎ合わせた。

「…だけど、それは」

 引きつりそうになりながら笑うと、白倉は瞬きして吾妻を見上げ、ショックを受けたように俯いた。

「白倉?」

 その反応に、吾妻の胸が杭で打たれたように痛んだ。

 白倉はゆっくりと、躊躇いがちに立ち上がり、のそのそと遅い動きで扉の方に向かった。

 いつもの彼らしくない、歩幅の短い歩調で、扉に近づく。

「吾妻、一緒に寝るの嫌なんだろ? …だったらいい」

 悲しそうな声で、吾妻を見ずに言う。

 その躊躇った足。らしくない。短い歩幅。遅い動きの理由を見つけて、吾妻は衝動のままにソファから立ち上がった。

 ノブを掴んで、回すまで、白倉の手はやはり躊躇った。

 今、わかった。

 本当は出ていきたくない。自分の部屋で眠りたい。

 引き留めて欲しくて、わざと出ていこうとした。

「白倉」

 吾妻は開かれようとした扉に右手を突き、開かないように封じる。

 左手で白倉の身体を、背中から抱きしめた。

 白倉の身体が強ばる。けれど、薄い唇からは、安堵の吐息が零れた。

 聞こえた吾妻は、腕の中の身体が愛しくてしかたなくなる。

「ごめん。そうじゃない」

「…え」

 白金の柔らかい髪の毛に口元を埋めて、右手を扉から離すと、両手で華奢な身体を抱いた。

 逃れられないように、がんじがらめに。

「…僕の心臓の音、聞こえる?」

「………」

 背中にぴっとりとくっついた吾妻の胸。伝わるのは、速い心音。

「…どきどき、してる?」

「うん。白倉といると、いつも…」

 自分の頭に触れている吾妻の唇が、形どる甘い言葉。

 胸が震える。

「…白倉と一緒に寝たいよ。

 あの時もそうで、だけど、ほんとに手に入ったら、…すぐに、即物的に抱きたくなくなった」

「……」

 どきんと、胸が鳴る。甘く、しびれる。

「…あの時は焦ってた。手に入るならなんでもって…。

 だけど、今は…」

「抱きた、くない?」

「抱きたい。すごく。白倉の肌、全部触れて」

 低く囁いた声が、白倉の身体に熱を灯すように響く。

 欲望と、愛情の深くこもった声だ。そう実感した。

 吾妻の手が、白倉のパジャマのボタンをあっという間に二つ外して、ぐいと肩を掴む。

「え」

 驚く暇もなく、吾妻の方を向かされ、開いた胸元の肌に吾妻の唇が吸い付いた。

「…っ」

 初めて感じる刺激に、白倉は思わず目を閉じて、息を詰めた。

「…跡、残したい」

 吾妻が胸元から顔を上げる。絡んだ視線。黒い瞳は、熱に潤んでいて、背筋をなにかがぞくりとはい上がる。

「…いつも、そんなこと思ってる。

 だけど、白倉の気持ち、無視したくない。…だから」

 吾妻の手が、そっと離れる。そっと解放された。

 怖いだろう?と問う瞳が、自分を見下ろす。

 白倉が素直に頷くと、吾妻は優しく笑った。

「一緒に、寝るのは危ないよ」

 自分に無理させまいと、優しい声が伝える。

 白倉の身体が震える。

 怖い。抱かれるのは、怖い。すぐに、決心なんかつかない。

 でも、吾妻の傍にいたい。頭、撫でていて欲しい。

「吾妻のこと、好き」

「うん」

「だから、傍いたい」

「うん」

「………吾妻なら、かまわん。

 すぐは、怖いから、無理だけど…」

「うん」

 自分の言葉を一つ一つ拾って、優しく微笑んで頷く吾妻が、堪らなく愛おしい。

「……」

 白倉は口元に手を当てて、考えると、頷いた。

「じゃあ、ちょっとずつしてこ?」

「…………はい?」

 吾妻は意味がわからなくて、間抜けな問い返しをしてしまった。

「最初は触るだけで、次、キスだけ、とか馴らしてったらいいんだ。

 そしたら俺も決心つくし、吾妻も触れるし。

 な?」

「……………」

 吾妻は意味を理解して、喜ぼうか嘆こうかすっごく悩んだ。

 嬉しいような、拷問なような。

 つまり、最初は身体に触るだけ。そして次はあちこちキスするだけ。

 そうやってステップ踏んでいったらいい、と言ってるわけで。

 天使のような笑顔でそんなこと言われたら、頷くしかない。

 でも、それって、ちょっと、かなり、


(拷問…だ………)




 翌日。朝、七時。

「なにしとんの?」

 朝飯を食べに部屋から出てきた岩永は、吾妻の部屋の前で腕を組んでなにやら難しい顔をした九生と時波を発見した。

「二人揃って変な顔して。見張るなら白倉の部屋やない?」

 吾妻がなにかするっちゅー心配なら、と言う岩永を見て、九生と時波はため息を吐く。

「?」

 二人に近寄って、岩永は首を傾げた。

 後ろから、夕が姿を見せて駆け寄ってくる。

「今な、白倉が吾妻の部屋に泊まっとるんじゃ」

「ああ、それで」

 二人の深刻な顔の意味を理解して、岩永は納得した。

「…? ほな、さっさと入ればええんとちゃう?」

 怪訝な様子で岩永に問われ、九生は言葉を濁す。

「やけん、万一…なあ」

「万一?」

「わかるだろう」

 時波に「ここまで言ったら」と真顔で言われたが、岩永は首を傾げるばかりだ。

 夕は理由がわかるので、時波の肩を掴むと耳元で「嵐はセックスがなにすることなんか知らない」と教える。時波は非常に残念そうな顔をした。ナチュラルに失礼なところがある。

「いくらなんでも、見ただけで困るゆう事態にはなっとらんやろ?」

「…や、なっとるかもしれんし」

「付き合ったばっかやんか。いくらなんでもそれはないで」

 九生はうろたえて、言葉を探している。

 岩永がああも言い切れるのは「知らない」からで、知っていたら同じように困惑するはずだよな、と夕は思った。

「ともかく、まだ起きてへんなら遅刻するやろ? 起こして来る」

「え」

「合い鍵預かったままやったし」

 さらっと言って、岩永は取りだした合い鍵で扉を開けると中に入ってしまった。

「……………行くん?」

 九生が時波に躊躇いがちに聞いた。

 時波は微妙な表情で、

「…………………………止める気じゃなかったのか?」

 と問う。

「いや、やけん、もうこの時間じゃ手遅れじゃねぇ?

 …吾妻をぶっ殺す気はあるけん、でも事後を見たくないっちゅう気持ちも…」

「…今更だから俺は行く」

 時波は、岩永が行ってしまったなら今更だ、と腹をくくって、部屋の中に足を踏み入れた。

 九生と夕は顔を見合わせ、「いくらなんでももう手を出したってことはないと思いたい」と揃って呟く。

「賭ける? セーフかアウトか?」

「…俺、アウト」

「俺もや」

 二人は心底嫌そうな表情を浮かべて、覚悟を決めるように頷いて一緒に扉をくぐった。




 吾妻は意識が覚醒してから、一番最後に時計を確認した。

 最初に腕の中を見た。

 上半身だけ裸の自分は、いつもだから別に驚くことじゃない。

 その自分の隣に、自分の腕を枕に眠っている白倉の姿。

 上から下までなにも身につけていない。全裸。

 しかし、なにもしていない。

 触ったことがない場所はないというくらい全身に触れたが、触れただけだ。

 それ以上はしていない。

 真っ白な身体には、キスマークは一つしかない。

 白倉が「馴らしていけばいい」と言う前に、衝動で胸元につけた赤い跡。

 それ以外は、跡は全く残していない。

 まだ躊躇われたからだ。

「……」

 正直、かなりいい思いも出来た。その身体の隅々まで触って、見るだけでもかなり天国だった。

 …それ以上出来ないという点を除けば。

「……拷問だね、やっぱり」

 でも、幸せな夜だった、気がする。

 白倉が眠ってしまったあと、勃ってしまった自分の処理をしてから眠ったが、全然寝付けなかった。

 時計を確認したところ、一時間しか眠っていないようだ。

 しかし、無防備に眠る裸の白倉が腕の中で、自分の腕を枕に眠っている。

 目覚めて一番に目に入る光景としては最上の景色だ。

 悔いはない。


「……と、思いこまないと、……」


 そうと思いこまないと、いろいろ、きつい。

 ああ、やっぱり僕も男だ。

 やっぱり最後まで抱きたい。したい。我慢なんかしたくない。

 今日の夜、白倉に思い切って言おうか。

 でも、白倉はまだ怖いのだろうし、その気持ちを無視することは本意ではないし。

「どうしよ……」

 白倉を起こさないように、腕を頭の下から引き抜く。

 膝を立てて、額を押しつけて悩む。

 不意に足音がした。

 寝室の外からだ。吾妻は焦った。

 部屋の鍵は自分しか持っていないはずだという考えはすぐに失せる。

 女になった時、岩永に預けてそのままだった。

「吾妻、白倉。朝やで!」

 寝室の扉が勢いよく開いた。

 立っていたのは制服姿の、鞄を持った岩永と、背後に時波。

 吾妻は悲鳴を上げそうになった。


(よりによって時波同伴!!!!?)


 自分にとって、白倉絡みでははっきり言って、サタン。

 今、白倉はシーツの中は裸だ。何故、昨日眠る前に服着せなかったんだろう自分。

 それは触れ合っていたら白倉がそのまま眠ってしまい、服を着せたりしていたら起こしてしまうからだったのだが、今は頭から吹っ飛んでいる。

「………」

 お互い、なんとも言えない顔で見つめ合った。

 一秒が、永遠に感じた。

 白倉の身体は寝台の上の自分の横。部屋の奥側にある。

「……吾妻?」

 時波が重苦しく、自分を呼んだ。

 その背後から、九生と夕まで姿を見せた。

 吾妻は九生と時波の頭に6が三つ見える気がする。

「……? ときはのこえ」

 自分の隣でした、ぼんやりぼけた幼い声に、吾妻はハッとする。

「し」

 起きたら駄目だ、と言う暇もない。

 白倉はむくっと起きあがって、背後を振り返った。

 時波や九生と視線が合う。

 シーツが肩から落ちて、白い肌が露わになった。

「…………」

 その沈黙の中で、唯一疑問符を浮かべているのは岩永で、彼が首を傾げた瞬間、時波と九生の声が響いた。


「この…、へんったいすけこましが!!!」

「その場に座れ!」


 吾妻はその日、生きて寮から出られなかった、かもしれない。


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