第二話 サイン
「…覚えてない?」
苦手だと思った。
自分の後ろは長く伸びた棚の細い道。奥にも通路はある。
背後に逃げることも出来る。
でも、村崎の弟だという。
嘘じゃないと思う。
だって、瞳や顔に強く、その面影がある。
村崎に関わることで、逃げないこと。なにがあっても。
それを、一年前から自分に誓ってきた。
「…うん。いろいろあって、一年以上前の記憶があらへん。やから、覚えとらん」
「兄と付き合ってたことも?」
真っ直ぐな瞳に見下ろされ、単刀直入に問われて、岩永は言葉に詰まる。
聞き難いことを、そんなはっきり聞くか?と言いたい。
「…他人に聞いたくらいなら」
「…へぇ」
志津樹という名の弟は、納得したような声を上げ、岩永をじっと見た。
居心地が悪い。
「道理で兄さんが――――」
「あと、俺は『岩永嵐』な。
岩永って呼んでや」
引きつった笑顔を浮かべて岩永は遮る。それ以上は、ちょっと痛い。
思い出せないから、余計心苦しい。
志津樹は岩永を見つめて、にっこり笑った。
「俺、校内のこと知らないんです。
よかったら案内してください。嵐さん」
「……『岩永』」
思った以上の押しの強さにたじたじになりながらも、岩永は言う。押し負けたらダメだ。
チャイムの音が遠くでした。予鈴だ。
志津樹は「あ」と首を巡らせて、残念そうな顔をする。岩永はホッとした。
「じゃ、放課後お願いします!
三階エントランスで来るまで待ってますから。
それじゃまた。嵐さん」
有無を言わせない笑顔を向けられ、岩永は露骨に怯んだ。
反論を許さない、のとは少し違う。
最終的に岩永が心底嫌がったりはしないと踏んでいる様子の。
志津樹は通路の向こうまで歩いてから、岩永を振り返って一度微笑んだ。
そして、図書室の出入り口の方に歩いていく。見えなくなる。
岩永的には台風一過、という感じ。
「……なんなん?」
村崎絡みなら、向こうから来てくれたら幸運。
今までずっと、まともな会話すらしてもらっていないから、向こうから話しかけてくれたら。
でも、弟は、別だ。
「…大丈夫?」
「吾妻…」
棚の向こうから吾妻が顔を出した。
岩永は近寄って、疲れた顔をする。
「見とったなら助けろや…」
「いや、タイミング逃して…。
ごめん」
「…ええけど」
心底申し訳なさそうな吾妻の表情を見れば、責める気も失せる。
岩永はため息を吐いた。
「村崎の弟?」
「らしい。ほんまやろうと思う。似とるし」
「ああ」
どうも初めて見たという感じの岩永を見て、吾妻は疑問が頭に浮かんだ。
「ねえ岩永」
「ん?」
だが、邪気もなく自分を見上げる岩永の顔に、気づいて慌てて「なんでもない」と言った。
「?」
「いや、なんでもないよ」
「…変なヤツやな」
岩永は首を傾げて、図書室の出入り口に向かった。
危ない。吾妻は引きつった顔で笑う。
知らなかったのか?と聞きそうになった。
弟がいたことを、知らない様子だったから、そう聞こうとした。
今の岩永は知らない。
昔は知っていただろう。記憶をなくす前は。
危うく、触れてはいけない部分に無神経に触れるところだった。
「そういえば、案内するの?」
「しゃあないやろ。俺、執行部員やしな」
「…ああ」
そういえば、そうだった、と吾妻はのんびり呟いた。
しかし、村崎の弟。
似ていた。吾妻もそう思った。
ただ、気のせいだろうか。
岩永を見る表情。
兄の恋人に向ける目、というよりは、むしろ――――。
六月に入り、チーム戦募集が始まると、合同授業も増える。
クラスごとの合同授業や、三年・二年など違う学年の合同授業など。
その日の五時間目は、吾妻が経験する初めての合同授業だった。
「あ、吾妻さん発見!」
トレーニングルームに入るなり、指を指された。
吾妻は聞き覚えのある声に、そちらを向く。
そこには既にトレーニングルームで練習を始めていた二年一組の生徒。
三年一組の生徒が遅れて来たわけではない。二年一組の生徒が早く来ていただけだ。
全員ジャージ姿。戦闘や訓練の時は、ジャージ着用を義務づけられる。
「えー、赤目、くんだったっけ?」
「そうです。組み手、やりません?」
にこにこ愛嬌のある笑顔で誘われ、吾妻は悩んだ。
「…また蜘蛛見せられるの嫌だね」
「あれは俺も洒落にならないんで、しませんってば。
…真剣勝負以外」
ぽそり、と赤目が呟いた一言が気になったが、真剣に嫌がるほどの相手ではない。
吾妻は頷いた。
「よっしゃ!」
赤目が歓声をあげて、背後のクラスメイトに「うるせー」と叩かれた。
「吾妻は新しく来たばかりだから、戦いたいんだろうね?」
見ていた化野が傍の同級生に言う。
雪代は糸目を開けているのかいないのか、よくわからない顔を化野に向けた。
「俺やお前だとダメージが深いのもあるだろうな…」
「誰の?」
「土岐也の精神的ダメージ」
腕を組んで言った雪代に、化野は笑って背中を叩く。
「そういえば、化野クンらは誰と組むか決まってんの?」
白倉がふと問いかけた。もう他の生徒は自主練習を始めている。
「白倉。聞くだけ無駄じゃそれは」
九生が言って、時波が頷く。
化野は視線一つで二人を黙らせると、にっこり微笑んだ。
「決まってるよ。
俺は若松と雪代と、三人で」
「…やっぱり。最強トリオ」
白倉は「やっぱり」と繰り返す。
九生と時波が微かに怯えながら「ほら」という顔をした。
「そういえば、転校生が来とりましたよ」
休憩時間。
夕の隣のベンチに座っているのは黒髪黒目の、整った顔立ちの少年だ。
二年一組の生徒で、
「あ、そういえば来るって言ってたな」
夕は思い出したように言う。
「どんなヤツ?」
「二人おって、片方はなんかやたら明るい…夕さんに似た感じの」
「俺?」
夕は驚いて、自分を指さした。明里はそのリアクションを面白がって、にやりと小馬鹿にして笑う。
「ええ。なんか、頭の中身軽そーな馬鹿ってとこがものっそう似てはりますわ」
「…なんだと!?」
「ここにおらんってことは、二組?」
怒って立ち上がる夕の肩を掴んでベンチに座らせ、岩永が聞いた。
明里は「ええ」と頷く。
「二人ともAランク三位みたいっすね」
「へぇ…」
「なんか、気になることでも?」
「…や」
歯切れの悪い岩永に、夕も怒るのを止めて、そちらを向いた。
「なんかあった?」
夕に問われて、岩永は困った表情を浮かべた。
「…なんか村崎の弟がおって」
「は?」
「ああ、そうや。村崎先輩の弟やゆうてたわ」
夕はびっくりして目を丸くし、明里は思いだしたように手を叩く。
「そん時はふうん、としか思わんかってん。
…え? なんかあったんですか?」
明里は、言わなかった自分に責任を感じたのか、気遣わしげに岩永に問う。
「…や、学校案内してくれ言われただけやから。びっくりしただけ。
夕、ほら、昨日助けた二人組。あれ」
「え、ああ、あれ!?」
岩永は頷く。夕は記憶を手繰って、その顔立ちを思い出す。
「あー、そういえば、確かに静流さんっぽかったわ。身体でかいとことか」
「もう片方がその夕似やろ」
「ヤな言い方すんな」
吾妻が向こうから戻ってくるのが見えた。
岩永が視線を向けて、手を振る。
「そういえば、夕さん、チーム決めました?」
「まだ。
ただ、白倉と嵐、どっちのチーム行くかなーて」
「あの二人、別々なんすか」
珍しい、と明里。夕は吾妻を顎で示した。
「あいつが白倉と組むんが決定やし。嵐は多分流河や優衣と。
濁しとったけど多分決定やな」
「ああ、それで。従兄弟さんと一緒は嫌なんですよね」
「うん」
どうしよう、と呟く夕を見つめ、明里は悩むように口元に手を当てる。
「転校生のこと、聞いていい?」
吾妻が岩永と入れ替わりにベンチに座った優衣の傍に立つ。
岩永は練習している白倉の所に行ってしまった。
「俺? 明里に聞いたら?」
「情報通なんでしょ」
隣に座った吾妻に言われ、優衣はまあ、と答える。満更ではない。
「村崎の弟ってことと、離れて暮らしとったくらいしかしらんよ?
あとは、兄貴に似とるようで、兄貴と違って社交的、やとか」
そんくらいかなあ、と優衣。
最初から、吾妻が知りたがっているのは村崎の弟の方だと理解して。
吾妻も異論を唱えない。
「…好みが似てるってことは?」
「は?」
なんだそれ、という風に目を丸くした優衣に、吾妻は声を潜めて言う。
「なんか、岩永に変に好意的っていうか、『兄貴の恋人』に向けるにはおかしいような…」
「……」
優衣は腕を組んで考え込んだ。好みまでは知らない。
「嵐が?」
「うん」
放課後。白倉の仕事に付き合って、職員室まで一緒に来た。
チーム戦が近づくと、生徒会の雑務は増えるからだ。
書類を受け取って、白倉は職員室から出てきた。
大きな荷物なら持とうと思ったが、何十枚くらいの紙の束。持とうという方が不自然か、と吾妻は諦めた。
「なんか、困ってた?」
「…そりゃあ。あいつは覚えてないだろうし」
「知ってた?」
「聞いただけだけど」
村崎に弟がいたという話だけなら聴いていた、と白倉。
「大丈夫だといいけど、変に気遣わないかな?」
「さあ…」
岩永を案じる白倉を横目で見て、吾妻は視線を動かせなくなった。
瞬きする、前を見つめた長い睫毛に覆われる瞳。見つめることが飽きない。綺麗だ。
今は自分のもので、手を伸ばせば触れられる。許されている。
そう実感することが、幸福で、だから寮に帰るまで我慢しようという余裕が生まれる。
ああ、でも、村崎はそれを失ったのだ。
「白倉」
「ん?」
呼ぶと、自分を見上げてくれる。胸が暖まる。
「僕と同じチームでよかった?」
少しだけ緊張して聞いた。自分だけ盛り上がって宣言したけど、よかっただろうか。
少しだけ不安で。
白倉はきょとんとして、それからふありと微笑んだ。
「吾妻と一緒が、いい」
「……うん」
甘く囁いた声に、幸せになる。吾妻は手を伸ばして、白倉の頭を撫でる。
「あ、こら…撫でんな…」
「いいでしょ? 可愛いもん」
「肌触りがいいし、気持ちいい」と吾妻は何度も頭を撫でた。
白倉は頬を赤くして、なにか言っていたが嫌ではないようで、逃げない。
「…ん、可愛い」
「なにが?」
「頭の形とか、髪の匂いとか触り心地とか、全部、愛らしい」
「…アホ」
恥ずかしそうに罵る、その口調や上目遣いな視線も、かわいいと思った。
「……駄目だ。手ぇ離せない。クセになるこれ…」
吾妻は心底嬉しそうに、幸福そうに呟いた。白倉の頬が更に赤くなる。
「…」
吾妻はそろそろやめなければ、と思うが、あまりに気持ちがよすぎて離せない。
真剣に困っていない口調で呟く吾妻に、白倉はもう無言だ。
だが、不意にぱっと視線を上げた。吾妻はびっくりする。
その二人の真ん中の空間を裂いて、壁に張り付いたのは、一枚の紙。
すごく、見覚えがある。
「…犯行声明?」
軽く怯えて聞いた吾妻に、紙を掴んで壁から剥がした白倉が首を振る。
「違う。筆記文字」
紙一枚だけが壁にくっついていた。
以前、吾妻に送られた挑戦状のときのような、吸盤の矢すらない。
しかし、これくらい出来る生徒は多い。
たとえば念動力でも可能だ。
「…ラブレターだな。俺への」
「え!?」
「だから、お前に勝負を挑む、らしい?」
白倉が見せた紙には、非常に綺麗で丁寧な文字で「白倉誠二とチームを組みたいので、お前に勝負を挑む。明日の放課後、戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉12号室で待つ」とある。
「…戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉?」
「この時期は、こういう勝負が多発するからな。
先生らも許可してるよ。自主対戦。
事前に手続きしておけば、戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉は使用できる」
「へー…。…誰だかわかる?」
「…まあ、一応」
吾妻の問いに、白倉は笑んで答える。
なじみの相手ということか。吾妻はそう捉えた。なら、流河と同じく、手強い。
「……あれ?」
唐突に視線を動かし、疑問の声を上げた白倉に、吾妻はびっくりしながら同じ方向を見た。
窓の外だ。バスケットやテニスコートは外にある。
バスケットコートの傍に立っているのは、岩永と、村崎の弟。
「広いですねー」
志津樹はしきりにそう言っている。
吾妻もそういえばそんなこと言ってたかも、と岩永は思った。
「兄さん言ってなかったよ…」
「…仲ええん?」
教えてくれればいいのに、と恨みがましい志津樹の様子に、岩永は興味を惹かれてそう聞いた。
「え? ああ、普通に仲はいいですよ。俺は好きです」
「…村崎は?」
「好きじゃないですか? 嫌われてるとは思ってませんし」
はっきり言い切る志津樹が、少し羨ましくなった。
「でも、それは嵐さんもでしょ?」
「…やから『岩永』やて」
「でも嵐さんで定着しちゃったし」
「なんで」
「兄さんが『嵐』としか呼ばないから、名字知らなくて」
志津樹の言葉に、岩永は耳を疑った。
そりゃ、恋人だったらしいし、普通かもしれない。
でも自分は知らない。
「…そう」
「今もでしょ?」
「……今は『岩永』。別れとるし」
「…」
それは知らなかったらしい。志津樹が見事に固まる。
あんまり無邪気に問うから、仕返しのつもりだったが、内心しまったと思う。
思ったより、その顔をさせてしまったことへの罪悪感が強い。
「すみません。知らなくて」
「ええよ。別に……。やから、俺んこと」
「俺は嵐さんと会ったばっかりですから、そう呼んでていいですよね?」
予想外の切り返しをするというか、やっぱり有無を言わさない。
岩永は心底そう思った。
いいですよね?と言いながら、ほぼ断定だ。
しかも会ったばっかりなら普通逆じゃないのか?
「…俺と一緒におるん、あかんと思う」
「なんで?」
「嫌われとるし。村崎に」
俺が、と岩永は言う。すぐ視線を逸らして、俯いた。
今のは、嫌味な言い方になった。まずかった。
「…嵐さんは、今も兄さんが好きってことですか?」
志津樹はあくまで真っ直ぐに、やましさなく問いかける。
岩永は視線を遠慮がちに戻し、よく似た顔を見上げた。
それから、諦めたように微笑んだ。
「諦め悪く」
そう答えると、志津樹が言葉を失う。
怖くなって、その顔をじっと見た。
不意に志津樹の手が伸びて、肩を掴む。思ったより強い力に、眉を寄せた。
「な…」
なに?と聞こうと見上げて、声をなくした。
肩を掴んだ手が背中に回って、きつく抱きしめられたからだ。
背中を抱く大きな手の感触に、心臓が大きく脈打った。
「…俺じゃダメですかね?」
そう言った。
意味が、わからない。
「嵐さんのこと、好き、なので」
頬に押しつけられた知らない他人の胸。聞こえる心音。
志津樹が緊張している証拠に、速かったのに、それが怖かった。
強く胸を押して、腕の中から強引に逃げ出した。
自分と距離をとって、呆然として志津樹を見る岩永の視界で、志津樹は参ったように頭を掻いた。
「…その反応見れば答えわかりますけど、一個いいですか?」
あくまで穏やかな表情を浮かべているが、志津樹の瞳は複雑そうな色だった。
「ほんとに別れてるんですか?」
「…」
意味が、本気でわからない。
「…俺に記憶があらへんし、…村崎が俺を見限ってもおかしないやろ」
どうにか返事を絞り出して、自分で驚いた。
声が、ひどく震えている。
「そこがわかりません」
「…」
「ここ、中庭ですし、人多いし」
志津樹は周囲を軽く見渡す。
近くにあるテニスコートやバスケットコートで試合をしていた生徒たちが、びっくりしてこちらの様子を窺っている。
空はまだ明るい。
傍に校舎がある。
「それで、超能力のレベルはあなたが数段上で、今、俺があなたを無理矢理どうにかするのは土台無理な話なんです。しませんけど」
志津樹は言い置いてから、岩永の顔をじっと見つめた。
「そのうえ、あの兄さんが、記憶をなくした恋人をあっさり見限るとも思えないんですよ。
どれだけあなたに惚れてたか聴いてた身としては」
「………」
「ほんとに別れてます?
ほんとに記憶がないんですか?」
理解、したくない。
志津樹の言葉がなにひとつわからない。
「すみませんけど、全然わかんないんです。
あなたが、今、そんな青ざめてる理由が」
近くに窓はない。
自分の顔がどんなにひどいか、確かめる術はない。
「全く兄の記憶がない人間がする顔とも思えない。
あの兄さんが止めに入らない理由もさっぱりわからない。
…ついでに言うと、そこまで嫌われていたとして、記憶のない人間が、そこまで兄さんを好きになれる理由が、…わかりません」
本当にわからない。
だって、自分には本当に記憶がなくて、微笑んだ村崎なんて見たこともなくて。
村崎は本気で自分を疎んじているし、確実に自分と村崎の関係は切れてる。
じゃあどうして。
――――自分は、村崎を好きなんだ?
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