第四話 黄昏の果て

 あれ以降、白倉と上手く話せない。

 顔を見ても、挨拶を交わすのが精一杯だ。

 白倉も曖昧に微笑む。

 彼も、自分から距離を取って。

 あんなに白倉が近かったのに、今は、こんなに遠い。


「吾妻」


 図書室でぼーっとしていると、肩を叩かれた。

 奥の方のテーブルの席。扉に背中を向けて座っていた吾妻は、驚いて見上げる。

「よう」

「…御園」

 優衣がそこにいた。

 微笑んで、「ここええか?」と吾妻の向かいの席を指す。

「別に、…かまわん」

「じゃ、遠慮なく」

 優衣はテーブルの向こうに回って、椅子を引いて座る。

 手には数冊、借りる予定だろう本。

「珍しいやん」

「…?」

 優衣に言われ、吾妻は首を傾げた。

「お前、あんま本とか読みそうにない」

「それ、勝手なイメージじゃない?」

「イメージやけど、そうなんやない?」

 優衣は手元の本を開いて、ページに視線を落としたまま言う。

 悔しいが事実だ。

「よくわかったね…」

「身近に活字大好きなんがおると嫌でも空気でな」

「……………」

 吾妻は緩く笑った優衣の顔をなんとなく見つめて、考える。

 優衣の交友関係なんて知らない。

 流河や夕とは親しいらしい。夕は従兄弟だから当たり前の気もするが。

「…夕?」

 案外本が好きかもしれない、と問いかけると、優衣は不意打ちすぎて息を変な風に吸い込んでしまったらしくげほげほとむせた。

「あ、ごめん…」

「…自分…、」

 咄嗟に謝った吾妻を、優衣はぎろりと睨んできたが、それ以上文句を言う気もないらしく、呼吸を整えて本を閉じた。

「あいつが本好きそうに見えるか?」

「…失礼だけど見えない。清々しく」

「やろ。読むとしたら漫画や」

 優衣はそうやろう、わかっとるなら言うな、と繰り返す。

「自分かて知っとるやろ?

 俺、白倉や岩永とそこそこ仲ええしな? あいつらは本大好きやん」

 優衣がさりげなく落とした言葉に、吾妻の顔が引きつる。

 ぎくんと身体を強ばらせた吾妻に、優衣の方が今度は「え?」と戸惑った。

「…………なん? そん反応」

 優衣はうろたえた口調で、控えめに問いかけた。

「…知らなかったの?」

「…え? なにがやねん」

 本気で吾妻の反応に戸惑っているらしい優衣に、吾妻はそれもそうかと思った。

 あれは白倉と、九生、時波と自分の間だけの出来事だ。

 傍目には「自分が時波に負けた」以上の事態は見えない。

 吾妻ならばそのまま終わらないと思うだろうし、それを白倉との関係に繋げないだろう。

 唇を開きそうになって、閉じる。

 優衣は知っているのか?

 九生の力のことを。あの三人の根底の関係を。


 ――――いいや、知らないだろう。


 そう自己完結する。

 あの九生が、そんな事情を他の人間に容易く教えるはずがない。

「…白倉と、ちょっといろいろ」

「……ああ、そういや最近一緒におらんなあ」

 それは傍目にも顕著だったらしく、優衣は納得する。

「おかしい?」

「白倉はともかく、お前が白倉白倉ーって傍におらんのが変」

「…そうだね」

 自分から聞いておいてなんだが、愚問だった。

 吾妻は嘆息を吐く。

「…なにがあったん?」

「話せない」

「…まあ、そうやろうけど、変やろ」

 優衣の心配そうな声音に、少し気が緩む。

「変?」と聞くと、優衣は頷いた。

「やって、白倉もGW以降、お前に気が傾いた風やったやん?

 よっぽどやないとこじれたりせぇへん気がしたわ」

 優衣から見た白倉の姿が、今は切なく聞こえる。

 数日前なら手放しに喜んだ。

 傍にいるなとまで言われていない。

 でも、拒まれているのは確かだ。白倉の傍にいること。特別になることを。

「…いろいろあるよ」

「…そうか?」

 疑わしそうにした優衣は、それ以上は聞かなかった。

 本に視線を戻そうと、手にとってから、不意に思いついたように聞いた。

「お前って、白倉に一目惚れやんな?」

「…?」

 吾妻は首を傾げる。それはすっかり学園で定着したはずの話だ。

 出会ってすぐにプロポーズした自分の話なんて。

「そうだよ」

「…そうか」

「…なんか気になる?」

「…ん?」

 優衣は腕を組んで、真剣に考え込む。

「憶測っちゅうかイメージで悪いんやけど、」

「うん」

「お前、白倉に出会った時、“好みのタイプやから!”って感じで惚れたっちゅうよりは、なんか“ずっと探しとった好きな人”を見つけたって感じやった気がするゆうか…」

 優衣の言葉に、吾妻の挙動が止まる。

 驚愕している吾妻を見上げて、優衣はおそるおそる、思い当たるん?と聞いた。

「そう、見えた……?」

「……? 少なくとも俺は…」

 首を傾げながら優衣は頷く。

 自分はあれを、騒ぎを聞きつけて行った体育館で見たから、と言うから気づかなかっただけでいたのだろう。

 でも、そんな、顔に出ていたなんて。

 微かにショックを受けていたことを、見抜かれていなくて良かった。

「…お前、ほんま、以前に白倉んこと」

「…」

 優衣は不安と心配の混ざった表情で問うてきた。

 吾妻は笑う。切なさに満ちた顔で。

「…会ってたよ。本当は。ずっと前に」

 優衣が少しだけ驚く。静かな変化で、声は漏らさない。

「…白倉は、覚えてくれてなかったよ………」

「……」

 吾妻は泣き出しそうに、痛そうに、目を細めて呟く。

 あの日の彼を、今でも鮮やかに思い出せる。

 忘れないでと言った声。触れられなかった掌。

 傷痕に優しく触れた手は、その傷を知らなかった。




 廊下で白倉を見つけて、岩永は駆け寄った。

「白倉」

「嵐」

 呼ぶと、彼は今、やっと気づいた顔で目を瞬く。

「昼ご飯?」

 白倉は無理に微笑んで聞いた。

 さっき、自分が声をかけるまで、すごく辛そうに視線を落として歩いていた癖に。

 痛い、と思う。

「そうやけど」

「ん?」

「吾妻も誘うんやろ?」

 もちろんだと、そんな返事を期待した。

 なのに、白倉は一層辛そうに瞳を揺らがせた。

「…おかしいやん?

 なにがあったん?」

 問いつめると、白倉は首を左右に振る。

「…」

 岩永は苛立って、白倉の手首を乱暴に掴むと、傍の教室に引っ張り込んだ。

 鍵をかける。

 ここは使われていない教材室で、人なんかもちろんいない。

 机や椅子の上に積もった埃や、乱雑に床に積まれたままの書物。

「なにがあったん?」

 扉を自分の背後に庇い、白倉を窓際にやって逃げられないようにして再度問うと、白倉は視線を逸らす。意地でも言いたくない様子で。

「白倉。おかしいやろ?

 いい加減、しらん振りするん限界やで。俺も夕も」

「……」

「あれだけお前を好き言うてた吾妻がなんで余所余所しいん?

 お前かて、吾妻のこと満更やないって」

「そんなんお前の思い違いだろ!」

 堪えきれなくなった白倉が、岩永を睨み付けて叫んだ。

 きつく寄せられた視線に胸がざわめいたが、岩永は落ち着くために息を深く吸って、一瞬の動揺を逃がした。

 改めて白倉を真っ直ぐに見つめる。

「思い違いやないで。

 ほんまに俺の思い違いなら、お前は鼻で笑って終いや」

「っ…」

「動揺しとる時点で、なんかあったんやろーが」

 碧の瞳が、白倉を真っ直ぐに見つめる。

 言い逃れを許さないように。

 白倉は両手を身体の脇で握りしめる。

「…なあ、白倉、教えてや?

 なにがあったん? 見てられんわもう」

「…」

「吾妻もお前もしんどそうで」

 その言葉に、白倉は弾かれたように岩永を見る。

 泣きそうに歪んだ表情。揺れる翡翠の瞳。

「…言えん」

「なんで?」

「お前には」

「…」

 とりつく島もない口調ではなかった。震えた、本当は話してしまいたい声だった。

「………」

 岩永は自分の身体を抱くように、両手を反対の腕に回す。

「…一年前の話か?」

 静かな躊躇いのない声に、白倉は逡巡したが、小さく頷いた。

「俺とお前はちゃうやろ?

 俺はそら、あんなことになってしもたけど」

「…でも、」

 ひどく辛そうな白倉の声。俯いた顔。

 岩永は近寄って手を伸ばして、そっと抱きしめた。

「…ごめんな」

 心の底から謝る。

「…俺がせめて、…自分でわかっとったら、なにか教えたれるんに」

 腕の中で、白倉が弱々しく首を横に振る。

「…ごめんな」

 そっとそっと、腕の中の身体が壊れないように、抱きしめる手を強くした。

 謝った。


『まだ持っとったんや』


 優衣が、四月のある日言った。図書室で。

 自分が肌身離さなかった、あのお守り。

 泣きそうな顔のまま、教材室を後にした白倉を見送ったあとも、岩永はそこにいた。

 埃で汚れるのも気にならず、椅子に座る。

 ポケットから出したお守りの袋の口を緩め、中に入っていた紙を取りだした。

 ノートの切れ端だ。

 そこには彼らしい几帳面で綺麗な字で、一言だけ。


 ――――頑張れ


 彼が、どんな気持ちでこの言葉を書いてくれたのか。

 どんな気持ちでこれを渡してくれたのか。

 今の自分は知らない。わかれない。

 そっと握りしめて、額に押し当てて、呟く。


「…………“静流”………」


 どんなに焦がれて、思い焦がれても。

 もう二度と、あの背中を呼び止めることは出来ない。

 今の「岩永嵐」では、彼の傍には、いられない。


 ああ、どうしてこの感情ごと、奪うことが出来なかった?




 図書室に戻ってくると、人気はなかった。

 窓の外から夕焼けが入り込んで、赤い。

 放課後で、もうすぐ閉館だ。

 吾妻は真っ直ぐに歩いて、史実のコーナーの棚を目指した。

 新しすぎてないかもしれない。

 史実の棚は一番奥だった。

 一番高い位置の本は、自分の身長以上の高さにある。

 NOAの建物の天井はかなり高いから、自分は頭をぶつけたことがない。

 本を取るのに苦労したのも初めてだ。

 手が届かず、後ろによろける。

 背後の壁にぶつかった瞬間、後ろから大きな音がした。

 なにかが床に落ちた音。

 壁の後ろから?と驚いて振り返ると、そこは壁ではなく貸出禁止の本を置いてある書庫の扉だった。

 鍵が閉まっているはずだが、誰かいるのか?

 もしかしたらそこにあるかもしれないとノブを握ると、その瞬間、中から人が出てきた。

 吾妻を見て驚きに目を見張る。自分と同じくらいの大きな男。

「あんた…」

 村崎という、あの男だ。

 吾妻から目をそらし、村崎は足早にその場を去った。

 なにか後ろめたいことがあるような風だ。周囲の確認も、鍵をかけることもなく慌てて逃げたような感じの。

 どうしたのかと思いながら、開いたままの扉の中を覗く。

 解放された図書室と同じくらい広い空間。違うのは、窓がないことと、薄暗いこと。

 中に入ると、そっと扉を閉める。

 すぐに目に入ったのは、さっき村崎が床に落としたのだろう、散乱した書物。

 手に取ったが、意味のわからない書物ばかりだ。

「…ん?」

 書物の下敷きになっている新聞を見つけて手に取った。

 そんな古くはないが、真新しくもない。

「……」

 吾妻は息を呑んだ。疑うように紙面に目を走らせる。

「…NOA壊滅………!?」

 NOA本部校舎が壊滅したという事件の記事だ。

 よく見ると、生徒の超能力の暴走が原因だとある。

 名前は当たり前だがない。

 日付は去年の五月二十日。

「約一年前…」

 ここに来たのは、岩永と白倉の会話が聞こえたからだ。

 通りかかった教材室の扉の向こうから、二人の声が聞こえた。

 どうやら一年前に何かあったらしいこと。

 九生と時波のあの条件も、おそらくそれが原因だということ。

 調べずにはいられなかった。

 岩永は一年前に、と言った。

 一年前に、なにが?

 多分、これは岩永だ。

 超能力を暴走させた生徒。


「……【キャリア】……?」


 記事の中にそんな文字があった。

 その生徒はそういう超能力のタイプだった、とある。

 聞いたことがない。

 経歴や病気のキャリアならわかるが、そういう意味じゃない気がする。

 とりあえず、これらをちょっと拝借するか、と思って立ち上がった時、離れた床に落ちている黒いなにかに気づいた。

 近寄って拾う。パスケースだ。

 村崎のだろうか。

 何の気なしに開くと、一枚の写真が見えた。

 吾妻は驚いた。

 待て、岩永は村崎とのことを、なんと言っていた?


『…うん。前から、なんか生理的にあかんみたい』


 その写真には二人の男が写っている。ひどく、幸せそうに笑った顔で。

 片方は村崎。片方は、岩永。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る