第18話 落日の王 ― そして、朝へ ―

 夜の風が重い。

 満月がサバンナを銀色に照らし、草原が静まり返っていた。

 虫の声さえ遠のき、ただ遠くでハイエナの笑い声が小さく響く。


 ――その夜、王が倒れた。



 「父さん!」

 俺が駆け寄ったとき、リガルは群れの中央でうずくまり、苦しげに息をしていた。

 肩の古傷が開き、血が乾いた毛を黒く濡らしている。


 「ガウウ(……心配するな。少し……眠っていただけだ)」

 その声は、どこか遠い。

 息が浅く、目の焦点が合っていない。


 「ガウ(今、ナラが水を運んでくる。すぐだ)」

 「グル……(水など、もう要らん)」

 父はかすかに笑った。



 群れがざわめいていた。

 不安と悲しみ、そして恐怖。

 “王が倒れる”ということは、群れの運命そのものが揺らぐということだ。


 リアが静かに父の側に座った。

 「グル(……リガル。みんな、あなたのことを見てる)」

 「ガウ(王は……王でいなければならぬ。最後の時まで)」


 その言葉に、俺の胸が詰まった。

 父の横顔には、もはや力強さよりも静かな威厳があった。



 「ガウ(レオン)」

 「グル(父さん……)」

 「ガウ(お前の声……あの放浪雄どもが退いた時の声。聞いていた)」


 「グル(……あれは、ただの偶然だ)」

 「ガウ(違う。あれは“王の声”だ)」


 リガルは、重い体をゆっくりと起こそうとした。

 俺が支えると、彼はゆっくりと息を整え、群れを見渡した。


 「ガウウ(みんな、聞け……)」


 群れのライオンたちが頭を上げる。

 夜風が草を揺らし、月明かりがリガルのたてがみを照らした。


 「ガウ(この群れは、今日から……レオンのものだ)」


 静寂。

 誰も息をしなかった。


 「グルル(王の血を受け継ぐ者。勇気を持ち、声を持ち、群れを導く者)」

 「ガウ(……父さん、やめろ。そんなこと言うな)」

 「グル(いや、言わせろ)」


 リガルは俺の首元を噛み、軽く引いた。

 それは、子に“立て”と命じる仕草。

 俺は無意識に立ち上がっていた。


 父の瞳がまっすぐ俺を見据える。

 「ガウ(お前ならできる。サバンナの風が……お前を選んだ)」



 風が吹いた。

 乾いた草が一斉に揺れる。

 遠くで稲光が走り、夜空を裂いた。


 「グルル(……グルァァァァァァ!!)」


 俺は天に向かって咆哮した。

 その声は群れの奥へ、草原の果てへと響き渡る。

 メスたちが一斉に頭を下げ、若いオスたちがその場に伏した。


 ――群れが、新しい王を受け入れた瞬間だった。



 リガルは穏やかに微笑んだ。

 「ガウウ(……いい声だ。まるで、若い頃の俺のようだ)」

 「グル(父さん……まだ、共に戦える)」

 「ガウ(いや。俺の役目は終わった。これからは……見守るだけだ)」


 ゆっくりと息を吐き、リガルは頭を地に横たえた。

 その眼差しはもうどこか遠くを見ていた。


 「ガウ(レオン……王とは……誇りを持ち……生きることだ)」


 その言葉と共に、息が静かに止まった。



 夜が、深く、長く、重く流れた。

 誰も声を発せず、ただ風がたてがみを撫でていく。

 俺は父の亡骸の前に立ち、月を見上げた。


 「ガウ(父さん……俺、必ず守る。あんたの群れを。あんたの誇りを)」


 その瞬間、風が一際強く吹いた。

 サバンナの草が波打ち、遠くで雷鳴が響く。


 夜明けが近かった。



 そして朝。

 太陽が地平線の向こうから顔を出す。

 金色の光が群れを包み、世界が再び息を吹き返す。


 俺は立ち上がり、東の空に向かって咆哮した。


 「ガウウウウウウウウッ!!」


 空が震え、鳥たちが一斉に飛び立つ。

 それは、ひとつの王の終わりと、ひとつの王の始まりを告げる声だった。

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