第17話 王の影 ― 受け継がれる牙 ―

 朝の太陽が昇りきる前、サバンナに冷たい風が吹いた。

 乾季の空は雲一つなく、青く、広く、そして無情に美しかった。


 ――その静けさが、かえって不気味だった。



 「ガウ(……父さん、食べてないのか)」

 俺は倒したガゼルの肉を前に、父の様子を見つめた。

 リガルはゆっくりと顔を上げたが、ほとんど食べようとしなかった。


 「グルル(腹は満ちている)」

 「ガウ(そんなわけないだろ)」

 「グル(……王は、腹よりも群れを気にするものだ)」


 そう言って父は小さく笑った。

 だがその笑みは、かすかに震えていた。

 肩の傷はまだ深く、歩くたびに血が滲む。

 息も荒く、もう以前のような迫力は感じられなかった。



 リアがそっと俺の横に来た。

 「グル(あの傷……治らないかもしれない)」

 「ガウ(治る。父さんは強い)」

 「グル(強い。でも、肉体は……限界を超えてる)」


 言葉を失う。

 リアの瞳には、悲しみと覚悟の光があった。


 「グル(……あんた、もう分かってるでしょう)」

 「ガウ(……)」

 「グル(群れは、あんたを見てる)」


 その言葉が胸に重くのしかかった。

 まだ父は生きている。

 それでも、群れは少しずつ“新しい王”を求め始めていた。



 その日の午後、異変が起きた。

 見張りをしていた若いメスのナラが、慌てて駆け戻ってきた。


 「グルル!(他の雄たちが近くに!)」

 「ガウ(何頭だ?)」

 「グル(分からない……でも三つ、いや四つの咆哮が聞こえた)」


 風が止まった。

 父が顔を上げ、ゆっくりと立ち上がる。


 「グルル(……放浪雄どもか)」

 「ガウ(ここはもう、彼らの縄張りの境だ)」


 俺の背筋に冷たいものが走った。

 放浪雄――群れを持たず、メスと縄張りを奪うためにさまよう雄たち。

 時に彼らは、群れ全体を滅ぼす。



 「グルル(俺が行く)」

 父が前に出ようとした瞬間、俺は遮った。

 「ガウ(ダメだ! 今の体じゃ……)」

 「グルルル(黙れ。王は退かぬ)」


 その目には、かつての鋭さが宿っていた。

 だが、それ以上に――疲労の色が深かった。


 「グル(父さん。……今度は俺に行かせてくれ)」

 沈黙。

 風が、乾いた草を揺らす。


 「ガウウ(……お前が行くなら、俺は止めぬ)」

 「グル(ありがとう)」

 「ガウ(だが、忘れるな。威を示すだけだ。血を流すな)」


 俺は深く頷き、リアと数頭のメスを率いて前へ出た。



 陽の光が地を焼く。

 乾いた空気の中、四つの影がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 筋肉の張った若い雄たち。

 目には飢えと野心の光が宿っている。


 「グルル(ここは、我らの水場だ)」

 俺は低く唸る。


 先頭の一頭が笑うように牙を見せた。

 「ガウウウ(若い王か。悪くない。女と水、少し分けてくれ)」

 「グルル(帰れ)」

 「ガウ(断ると?」


 砂を踏む音が重く響く。

 四頭が円を描くように俺たちを囲む。

 リアが背後で唸り声を上げる。


 「ガウウウ(帰れと言った)」

 俺の声に、わずかな“威”が乗った。

 胸の奥から熱が走り、全身の毛が逆立つ。


 放浪雄たちが動きを止めた。

 一瞬、彼らの目がわずかに揺れる。

 “本能”が、俺を王と認めた。


 静寂が流れる。


 やがて、先頭の雄が鼻を鳴らし、舌で牙を舐めた。

 「ガウ(……面白い。覚えておけ、若造)」


 彼らはゆっくりと背を向け、去っていった。

 砂塵が舞い上がり、遠くでハイエナの声が響いた。



 リアが肩で息をしながら近づいてくる。

 「グル(……あんた、今の……)」

「ガウ(わからない。ただ、声を出したら、体が勝手に動いた)」

「グル(威圧じゃない。支配だった)」


 俺は息を吐いた。

 まだ体が震えている。

 けれど、心の奥に確かに感じた。


 ――これが、“王の力”なのか。



 夜、父が俺のそばに来た。

 「ガウ(放浪雄たちは、退いたと聞いた)」

 「グル(威を示しただけだ)」

 「ガウウ(……それで十分だ)」


 父はしばらく黙って俺を見つめ、そして言った。

 「グル(レオン。……牙を受け取れ)」


 そう言って、俺の額に自分のたてがみを軽く押し当てた。

 古い匂い、戦いの匂い、血と風の匂い。

 それが、まるで儀式のように俺の中へ染み込んでいく。


 「ガウ(これで、お前も“王の系譜”の一頭だ)」

 「グル(父さん……)」

 「ガウウ(俺がいなくなっても、群れを守れ)」


 月光の下、父の瞳が微かに光った。

 その奥に、どこか穏やかな安堵があった。



 風が吹いた。

 サバンナの夜が、どこまでも広がっていた。


 俺は空を見上げ、心の中で呟いた。

 ――受け継ぐ。

 この牙も、この誇りも。

 そして、王という名を。

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