第15話 黒き影 ― 放浪王の帰還 ―

水音が消えた夜だった。

 サバンナを包む闇の中で、風がわずかに鳴いた。

 群れは水を飲み、ようやく安堵の眠りについた――はずだった。


 ……だが、俺の胸には妙なざわめきがあった。

 どこかで、“何か”が見ている気配。

 風下から漂う、濃い血と獣の匂い。


 「グル(……来る)」

 俺は立ち上がり、夜空に耳を澄ませた。


 その瞬間、闇の向こうで草が揺れた。

 黒い影がゆっくりと姿を現す。

 筋肉の盛り上がった巨体。

 そして――黒曜石のように輝く、黒いたてがみ。


 「グルルルゥゥ……(やはり来たか)」

 父の低い唸り声が響く。


 リアが俺のそばに寄り添い、小さく囁いた。

 「グル(誰……?)」

 「ガウ(父の知り合い、かもしれない)」


 影は一歩、また一歩と近づいてくる。

 その目はまるで闇の中に溶けていたが、確かに俺たちを見据えていた。



 「ガウウ……(久しいな、リガル)」

 低く響く声。

 父の名を呼んだその声音には、かすかに懐かしさが混じっていた。


 「グルル(……まさかお前が生きていたとはな、バルド)」

 父の目が細くなる。

 その名を聞いた瞬間、周囲のメスたちが息を呑んだ。


 バルド――かつて父が群れを継ぐ前、この地を支配していた“先代の王”だった。

 若い頃の父が群れを追い出し、王座を奪った相手。

 その男が、再び戻ってきたのだ。


 「ガウ(……放浪していたと聞いていた)」

 「グル(ああ。だが、見ろ。俺はまだ立っている)」

 黒いたてがみが風に揺れる。

 その体には無数の古傷が刻まれ、片方の耳は裂けていた。


 だが――その目は、炎のように燃えていた。



 「グルル(ここは俺たちの水場だ。引け、バルド)」

 「ガウウ(奪うために来たのではない)」

 「グル(ならば何をしに)」

 「ガウ(……群れを取り戻す)」


 その言葉に、空気が一瞬で張り詰めた。

 リアが低く唸り、メスたちが子を守るように輪を作る。


 俺は父の横に立ち、唸り声を上げた。

 「グルゥゥゥ(ふざけるな。俺たちはここで生きてる)」

 「ガウウ(若いな、坊主。……お前が、息子か)」

 バルドの瞳が俺を見た。

 その視線は鋭く、まるで俺の魂を試すようだった。


 「グルル(そうだ。俺の名はレオン)」

 「ガウ(レオン……良い名だ。だが、王の名は一つで十分だ)」


 そう言うと、バルドは一歩前に出た。

 その動きだけで、地面が微かに揺れた気がした。

 体格、力、経験――すべてが重い。


 「ガウウウ……(この大地に、二匹の王は要らぬ)」



 父が一歩踏み出し、真正面から睨み返す。

 「グルルルル(なら、俺が再び証明しよう)」

 咆哮が、夜を切り裂いた。


 リアが俺の腕に鼻先を押し当てた。

 「グル(止められないの?)」

「ガウ(止められない。これは……王の戦いだ)」


 月光の下、二頭の雄が対峙する。

 父の金色のたてがみと、バルドの黒いたてがみが風に揺れた。


 唸り声が重なり、空気が震える。

 次の瞬間、地を蹴る音。

 砂と血が飛び散った。



 ――闘いは短くも激しかった。


 爪が肉を裂き、牙がたてがみを噛みちぎる。

 父の咆哮が夜に響く。

 バルドはそのたびに笑うように吠えた。


 「ガウウゥゥゥッ!」

 「グルルルルルッ!!」


 火花のようにぶつかり合う音。

 砂塵が舞い、星明かりが揺れる。

 だが――決着は、あっけなかった。


 父の爪が、バルドの肩を深く裂いた。

 黒いたてがみが揺れ、血が地を染めた。


 「グルル(まだ終わらん……)」

 「ガウ(もう引け、バルド。お前の時代は終わった)」


 沈黙。

 そして、バルドは低く笑った。


 「ガウウ(……ならば見せてみろ。お前の“次の王”を)」

 その視線が、俺に向けられた。


 「ガウ(この子が、俺を超える時が来るなら――その時こそ本当の王だ)」


 そう言い残し、バルドはゆっくりと夜の闇に消えていった。

 黒いたてがみが月光を反射し、やがて完全に見えなくなる。



 静寂が戻った。

 リアがそっと俺の頬に鼻先を寄せた。

 「グル(……怖かった)」

 「ガウ(俺もだ)」

 「グル(でも、あんたの目……少し、父さんに似てた)」


 風が吹いた。

 遠くでハイエナの笑い声が響く。

 父は静かに座り、月を見上げていた。


 その背中に、俺は改めて誓う。


 ――必ず、超えてみせる。

 このサバンナで、真の王になるために。

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