第6話 雨の匂い ― サバンナの試練 ―
風が変わった。
乾いた大地に、どこか湿った匂いが混じっている。
サバンナに雨季の気配が訪れたのだ。
母が死んでから数日。
群れは少しずつ落ち着きを取り戻していたが、俺の胸の奥はまだ重かった。
夜になると、母の声が耳の奥で響く気がする。
「群れを守りなさい。仲間を、愛しなさい」
その言葉だけが、今も俺を動かしていた。
⸻
「グルル……(レオン)」
低く、地を揺らすような声。
振り返ると、父が立っていた。
逞しい体。たてがみは濃く、風に揺れるたびに金色がきらめく。
群れの雄、そして――俺の父。
「ガウ(ついてこい)」
父は短くそう言うと、ゆっくりと歩き出した。
俺は慌ててその後を追う。
リアが心配そうに見送っていた。
⸻
しばらく歩くと、草原の端に小さなヌーの群れが見えた。
風下。距離は百メートルほど。
父は低く身を伏せ、俺に目で合図した。
「グルル(狩りだ)」
「ガウ!?(俺が?)」
「グル(そうだ。お前も群れの一員だ)」
心臓が跳ねた。
狩りは母たちの役目。子どもの俺がやるなんて、今までなかった。
でも父の瞳は真剣で――逃げ場なんてなかった。
⸻
草の影を進む。
足音を殺して、風の流れを読む。
ヌーの一頭が顔を上げた瞬間、父の尻尾がピクリと動いた。
――今だ。
父が地を蹴った。
まるで稲妻のような速さで飛び出し、ヌーの首に噛みつく。
俺も続いて走る。
「ガウッ!」
脚が震える。呼吸が荒い。
けれど、止まらなかった。
ヌーが暴れ、土煙が舞う。
父はその背に食らいつき、体重をかけて押し倒す。
俺も横から噛みつこうとした――が、足がもつれて転んだ。
「ガフッ!」
喉に砂が入る。視界がぐるぐる回る。
その間に父が獲物を完全に押さえ込み、首を完全に抑える。
静寂。
血の匂いと、重い息づかいだけが残る。
⸻
「グルル……(まだ早いな)」
父が俺を見下ろす。
その目は厳しかったが、怒りではなかった。
「グル(だが、悪くない。突っ込む勇気はあった)」
「ガウ……(でも、倒せなかった)」
「グルルル(倒せなくてもいい。逃げなかった。それが狩りの第一歩だ)」
父がヌーの首から口を離し、血に濡れたたてがみを振る。
「グルル(力とは、恐怖を飲み込むことだ。恐れを消すことじゃない)」
その言葉に、俺は胸が熱くなった。
⸻
食後、父は少し離れた岩の上に座り、遠くを見ていた。
俺も隣に座る。
空には黒い雲が流れていた。雷の音が、どこか遠くで響く。
「グル(雨が来る)」と父が言った。
「ガウ(雨……?)」
「グルル(命の巡りだ。草も、獲物も、我らも、それで生きている)」
父の声は低く、どこか寂しげだった。
母がいなくなったことを、彼も感じているのだろう。
でも、涙は見せない。
ただ静かに風の匂いを嗅ぎながら、空を見上げていた。
⸻
やがて、ポツリと雨粒が落ちた。
冷たく、土の匂いが濃くなる。
俺の頬を伝う水滴が、涙のように感じた。
「グルル……(父さん)」
「ガウ(なんだ)」
「グル(俺、もっと強くなる)」
「グルル(そうだ。……お前は王の血を引く者だ)」
父のたてがみが濡れ、光を受けて黒く輝いていた。
その背中が、どこまでも大きく見えた。
⸻
雨が強くなり、サバンナの大地が潤っていく。
草が揺れ、獣たちの遠吠えが響く。
その中で俺は思った。
――生きる。
母のために、父のために。
そして、俺自身の足でこの大地に立つために。
雨音に紛れて、俺は小さく咆哮した。
「ガアア……」
まだ幼い声。けれど確かに、サバンナの王の血がそこに流れていた。
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