第5話 空を見上げた夜 ― 失われた母の声 ―

夜が明けた。

 サバンナの地平線の向こうから、金色の光がゆっくりと広がっていく。

 草原を照らす朝日は、美しくて、残酷だ。


 血の匂いがまだ漂っていた。

 昨夜の戦いの跡。

 ヌーの骨、散らばる羽虫、そして――横たわる母の体。



 「……グル(母さん……)」


 俺は母のそばに座り込んでいた。

 彼女の脚には、深く裂けた傷があった。

 ハイエナの牙が、太腿の筋を噛み切ったのだ。

 血はすでに乾いていたが、呼吸は浅く、体は冷え始めている。


 「ガウ……(母さん、ねえ、起きて)」


 小さく鳴くと、母の耳がかすかに動いた。

 ゆっくりと、彼女の瞳が開く。


 「……グルル(レオン……無事だったのね)」

 「ガウ(うん、大丈夫……)」

 「グル……(そう……よかった)」


 その声は、風に溶けるように小さかった。

 母の胸が上下するたびに、血の匂いが強くなる。



 群れの雄が近づき、低く唸った。

 「ガウ(傷が深すぎる。動かせば死ぬ)」

 母は静かに首を振った。

 「グルル(私はもういい。……レオンを、頼むわ)」


 雄が短く鳴いて、群れに合図を送る。

 メスたちが子どもを集め、移動の準備を始めた。


 俺はその場に残された。

 「ガルル……(母さん、行かないでよ)」

 「グルル(レオン……あなたは、強くなる子)」


 母がゆっくりと顔を上げ、俺の頬を舐めた。

 温かくて、少し血の匂いがした。


 「グル……(群れを守りなさい。……仲間を、愛しなさい)」

 「ガウ(母さん……!)」

 「グルル……(あなたは、私の誇りよ)」


 次の瞬間、彼女の体が静かに沈んだ。

 呼吸が止まり、まぶたが閉じる。


 風が吹き抜け、草がざわめいた。

 サバンナの朝が、またひとつ命を奪っていく。



 俺は動けなかった。

 頭の中が真っ白で、心臓の音だけが響いていた。

 リアが近づいてきて、俺の肩に体を寄せる。


 「ガル(レオンのお母さん、行っちゃったんだね)」

 「グル(……うん)」

 「ガウ(泣いていいんだよ)」


 俺は喉の奥から低い唸りを漏らした。

 「グルウウウ……」

 それは涙の代わりだった。

 声を出すたびに胸が痛い。


 リアが優しく言った。

 「グル(母さん、きっと空から見てる)」


 俺は顔を上げた。

 朝日が昇り、雲の端が金色に輝いていた。

 その光の中に、母の姿が見える気がした。



 群れは歩き出した。

 ハイエナが戻る前に、ここを離れなければならない。

 俺は最後まで振り返っていた。


 風が草を揺らし、母のたてがみを撫でていく。

 その姿が、まるで眠っているように穏やかだった。


 「グル(また会おう。空の下で)」


 俺は小さく咆哮した。

 それは怒りでも悲しみでもなく、ただの祈りだった。



 夜、リアの隣で星を見上げる。

 静かなサバンナ。虫の声、遠くのフクロウの鳴き声。

 そのすべてが、母の残した音のように思えた。


 「グル(母さん……俺、強くなる)」

 「ガウ(うん)」

 「グル(誰かを守れる王になる)」

 「ガル(母さんも、きっと喜ぶよ)」


 俺はゆっくりと空を仰いだ。

 星々がまるで母の瞳のように瞬いている。


 「ガアアアアアアアッ……!」

 夜空へと放つ咆哮。

 その声は、風に溶け、遠い彼方へと消えていった。

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