報告書の外で、風が吹く
共創民主の会
第1話 雨のメモ帳
傷つく心を癒す条例
藤原健太
メモ――10/3 8:50 宇都宮駅北口、雨。傘の滴が記帳用ボールペンを濡らす。
朝の市電は空いていた。吊革にぶらさがる高校生の背囊が、赤いランドセルに似ていて目が痛くなった。あの乳児はまだランドセルも背負えない。――そう自分に言い聞かせ、私は「託児室といず」の跡地で降りた。
建物はもうない。更地に撒かれた砂利が雨を含み、黒く光っている。
「おはよう、記者さん」
自治会の本田義郎会長は、白髪を雨に濡らしながら、まだ生えぬ草を踏まないように足を運んだ。手にしていたのは、スーパーの袋に包まれたチューリップの花束だった。
「閉鎖して一年、花も枯れる頃です」
彼は砂利の中央に花を置き、小さく合掌した。私はシャッターを切らなかった。写メにすれば「遺族の心情を商品化する」先輩の言葉が耳を打つ。
メモ――10/3 9:10 会長「傷つく心を癒す条例でなければならない」。
私は録音ボタンを押したまま、メモ帳に走り書きする。
「条例は道具、使い方が大切。だけど使う側に、傷口を舐める思いがなきゃ」
本田さんの声は低く、雨音に掻き消されそうになる。
――そのとき、スマホが振動した。編集長からだった。
『午後の村井係長会見、県外委員の基準を追え。遺族は「後回し」で良い』
文字は短く、冷たい。私は本田さんに頭を下げ、市役所へ向かった。
メモ――10/3 12:30 市役所3階、エレベーターが開くと冷房が強すぎる。廊下に並ぶ「プライバシー保護」のポスターが、むしろ秘密を誘う。
会見室には、すでに地元テレビのカメラが三脚を構えていた。村井大樹係長は、窓際の席で資料を広げていた。光が背中で白く滲み、輪郭だけが浮かぶ。
「検証委員は県外の有識者5名で構成します。利害関係が一切ないことが条件です」
私は手を挙げた。
「利害の‘ない’とは、遺族の心情を知らないという意味ですか?」
村井さんの視線が、一瞬、窓の外へ逃げた。
「遺族の信頼回復が最優先。だからこそ中立性を――」
「でも、委員会は関係者聴取を‘検討’だけですよね?」
「その判断は委員会に委ねます」
壁に跳ね返る声が、宙に凍りついた。
メモ――10/3 13:05 村井氏「遺族の信頼回復」。でも、誰が回復する?
会見後、私はロビーの自動販売機でコーヒーを買った。カップが落ちる音が、奇妙に大きく響く。オンラインで読んだ通報記録が頭を離れない。
――「息子の爪がはがれていた」。それでも市は「危険を感知できず」。
言葉の落差が、胃の奥を突く。
市役所を出ると、雨は上がっていた。商店街の納屋へ向かう道すがら、私は携帯を開いた。
ツイッターでは、すでに「全会一致可決」の文字が踊っている。
メモ――10/3 17:40 商店街のどん詰まり、納屋。藁の匂いが湿る。
本田さんは、古いタイヤを腰掛にして、麦茶を注いでくれた。
「委員会は誰のため?」
私は、メモ帳を開いた。
「会長、‘関係者聴取’を落とし穴とおっしゃいましたが」
「落とし穴は心の中にある」
彼は、グラスの底の麦茶をゆっくり廻した。
「条例ができて、報告書ができて、それを‘市’が受け取る。でも、委員会は市の外。だから、報告書は市ではなく委員会が作る――」
私は慌てて書き留めた。
※10/3 18:20 会長「報告書は市ではなく委員会が作る」
「遺族は、誰かに‘どうして’と聞きたい。答えがなくても、聞く場が欲しい。それを委員会が‘検討’じゃ、心は癒えん」
藁の匂いが、夕闇とともに濃くなる。
――帰宅したのは夜八時だった。
部屋を点灯した瞬間、壁時計の秒針音が耳に突き刺さる。
私はパソコンを開き、原稿フォルダを立ち上げた。
タイトルはすでに決まっている。「傷つく心を癒す条例」。
キーを打ち始めたとき、スマホが震えた。編集長だった。
「遺族への追加取材、明日の正午までにまとめろ。スピードがニュースの価値だ」
私は答えず、通話を切った。画面の明かりだけが、部屋の隅を青く照らす。
メモ――10/3 23:15 原稿空白。キーボード音だけが響く。
ふと、本田さんの言葉が甦る。
「傷つく心を癒す条例でなければならない」
私は指を止めた。
私たちは事件を煽るのではなく、心に寄り添う「つなぎ役」になるべきではないか。
画面のカーソルが、点滅し続ける。
私は新たに文を打ち始めた。
――「条例はできた。しかし、それを使う人の手の温度こそが、本当の検証を始める」
そして、メモ帳に最後の一行を追加した。
※10/4 0:02 「報道もまた、傷つく心をつなぐ道具であるべきだ」
キーボード音が静かに夜を満たしていった。
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